呼べない男
呼べない男
真白は月曜日、風邪をひいて寝込んだ。荒太を殴ったのは剣護ではなく兵庫だった。
ガッターン、とリビングテーブルで身体を打ち、繭のような質感のフロアライトが倒れる。
「すみません、力不足で。やっぱり実戦で慣らしてないと身体も拳も鈍りますね」
「主君を殴って、謝るところが違うんじゃないか?」
荒太が切れた口元を拭いながら言う。
「真白様を寒風の中、長時間、外に出ざるを得ない状況に追い遣って、翌日はそのご厚意に甘えてお外でデート。で、至らない御夫君の為に無理をした真白様がダウン。何してんだ?このがきは」
兵庫は醒めた目で両腕を組み、主君を見下ろしていた。
「今日は口が悪いな、おっさん」
「すみません。俺にしては珍しく、荒太様に対して本音をずけずけと言いました」
「珍しくもないな。…拳を傷めただろう、莫迦が」
立ち上がった荒太が、乱れた衣服を整えながら言う。
「掌底を使っちゃ洒落になりません。おいたをしたがきには拳くらいで済ませなくては」
「おっさんなりの配慮だな」
「仕事だか学校だかに行って来たらどうですか。看病は俺が残りますんで」
「てめえも社会人だろうが。…斑鳩か水恵を呼ぶ。駄目なら、市枝さんで手を打つ」
「斑鳩も水恵も多忙ですよ。俺の仕事は比較的、自由が利きますから」
「市枝さんを呼ぶ」
兵庫が頑なな荒太の顔を見た。
「信用されてませんねえ、俺。お市様も講義でしょう」
「男に看病させられるか。百歩譲って江藤なら許せるが、あいつも俺と同じで今日は抜けられない講義がある。卒論もそろそろ詰めだし」
「じゃあ、俺で手を打っときなさいよ。山尾は真白様の足元に大の字で寝てるじゃないですか」
「そこまでは可」
「どうして俺を嫌いますかねえ」
「油断ならないキザ男だから」
「野郎にそう疑われるのはある意味、名誉ですけど」
竜軌ほどではないにしろ、耳聡い忍びの男二人は、寝室のドアが開く音に素早く反応した。
カーディガンを肩にかけた真白が出て来る。
「寝てないと、真白さん」
荒太が駆け寄る。
「……大きな音が。荒太君、唇から、」
白い手が荒太の口の端に伸びる。
「ああ、ごめん。すっ転んで切った。騒がしかったね」
「消毒して絆創膏を貼らないと」
「大丈夫。これくらい、真白さんが舐めてくれたら治る」
「そ、れは」
荒太は、兵庫から向けられる冷ややかな眼差しを感じた。
「いや冗談、平気だから」
「兵庫、」
「――――はい」
「荒太君を連れて行って、兵庫はお仕事して。私は山尾と寝てる」
兵庫と荒太が黙る。
譲らざるを得なくなったのは荒太だった。
「…真白さん。兵庫は今日は時間あるそうだから。うちに残ってもらうよ」
真白が疑惑の眼差しを二人に向ける。
「安心させようとして、嘘吐いてる?」
「いや、違います、真白様。事実、そうなんです」
真白の試すような視線を兵庫は受け止めた。
「…そっか。……ありがとう」
真白の為には剣護を呼ぶのが最善だと荒太も解っていた。身軽に動ける立場でもあるし、幼い時から真白の兄代わりでもあり母代わりでもあった剣護の作るお粥なら、どんなに食欲の無い病気の時でも真白は食べられる。けれどそれは出来なかった。
真白を一人で置いて行くことも出来ないのなら、この際、兵庫で妥協するしかない。
真白は兵庫に支えられて寝室に向かい歩いている。
彼女は兵庫を信頼しており、異性として見ていない。
そして兵庫は主君であり聖域である真白には決して手を出さない。
(……多分)
一抹の不安を残しながらも、荒太は真白に行って来ます、と声をかけて家を出た。
剣護を呼べない自分の小ささに打ちのめされながら。




