玉紫
玉紫
〝御方様。殿よりこちらの文が〟
〝信長が?〟
夫とは今朝がたまで一緒にいた。
帰蝶は侍女から文を受け取って開き、読むと声を上げて笑った。
〝いかがなされました〟
〝らしゅうないことをしおる……。後朝の歌を遣して来たわ。しかも、人の歌を盗んで〟
笑いながら、帰蝶は夫の手を詠み上げた。
〝明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな〟
〝おや。何とまあ〟
侍女も口元を袖で覆い、くすくすと笑った。
〝朝まで同じ床にいたのだぞ?夜にはまた逢えるというに…〟
〝ゆえに、そのまんまのお歌を選ばれたのでございましょう〟
〝ほんに。仕様の無い奴〟
〝仰せの割りに、嬉しそうであられまするが〟
〝ふん……〟
帰蝶は赤らんだ顔を背けて話を変えようとした。
〝のう。玉紫は、まだであろうか〟
〝は?〟
つい今まで平安朝の歌の話をしていた侍女は、帰蝶の言葉に戸惑った。
〝樹の。実のつく玉紫だ。下男の爺が、山にあるを一枝、持って来てくれると言うたのよ〟
〝あの者ならばもうおりませぬ〟
帰蝶は目を丸くし、瞬いた。
夜になり、部屋を訪れた信長に帰蝶は食ってかかった。
〝信長〟
〝いかがした、怖い顔をして〟
打掛を剥ぎ、耳たぶを噛もうとして来るのを押し遣る。
〝下男の爺、なぜ追い遣った〟
〝あれは年甲斐も無くお前に懸想していたゆえ、暇を出した〟
〝な……、〟
〝国に帰る為の路銀も、当座をしのげるだけの銭も渡したぞ〟
〝左様な問題ではない、あれは私に、玉紫を見せてくれると言うたのだ〟
玉紫とは、現在で言う落葉低木、紫式部の古名だ。
〝ああ、そう聞いた。ゆえに俺が美しい実のついた枝を選び、切って参った〟
控えていた小姓に信長が顎をしゃくると、花器にも挿されぬままの玉紫が運ばれて来た。
鮮やかな紫の玉に、帰蝶が触れる。
〝…信長が、手ずから?〟
〝そうだ。骨折りをしたのだ。機嫌を直せ、帰蝶〟
〝だが。だが。あの者、先々、路頭に迷いはすまいか〟
〝―――――――俺の骨折りより、あの爺の心配か〟
〝信長…?〟
〝夜着に着替えよ、帰蝶。言いたいことあらば閨で申せ〟
言いながら信長は、帰蝶の帯を解こうとしていた。
〝信長!〟
〝俺は間も無く上洛せねばならん。お前を構う暇も無くなる。早くしろ〟
〝おかしいぞ、信長。何を焦る〟
〝帰蝶。夜は短い。短過ぎるのだ。お前を抱くには。いっそ朝が来なければ良いとさえ思う〟
それは信長が遣した後朝の歌、そのままの言葉だった。




