語学学校
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「トカゲ!」
美羽は胡蝶の間の外からの呼びかけに即座に反応して振り向き、その頬に置かれようとしていた竜軌の手はすかっと空振りした。美羽の唇も堪能出来なかった。馬に蹴られたい奴はどこのどいつだと竜軌が殺意を抱く中、美羽は竜軌の腕から軽やかに抜け出して襖に向かって走りながら叫んだ。
「りゅうきっ!」
これらは探検団の合言葉である。
「納得行かんっ!!」
竜軌の雄叫びは無視された。
馬に蹴られる候補は誇らしげな顔で部屋に入って来た。
「美羽様、ご快復、おめでとう存じます。お目覚めでようございました。不肖、ミスター・レイン、会員番号ナンバー2めはこの会心の出来栄えを早くお目にかけたく、馳せ参じましてございます」
「森KYが鼻高々と馳せ参じんで良いとっとと出てい、」
「りゅうき!!」
竜軌は台詞半ばで美羽に背中を突き飛ばされて畳で顔面を強打した。
マダム・バタフライはミスター・レインの掲げた戦国武将の木彫フィギュアに目を輝かせていた。
それは見事な甲斐の虎こと武田信玄像であった。
およそ三十センチほどの高さの像を、美羽は「おおおおっ!」と言わんばかりに口を開いて両手に持った。
「あ、ちょっと重いですよ。気を付けてくださいねー」
「りゅうりゅう、ききききーりゅうりゅ!」
「お!お解りですか、さすが。この髭の細部のリアリティーを出すのは骨でして、」
「う、ううーきき、きりゅーりゅうきっ」
「そうなのです、衣の独特な雰囲気は翻波式にヒントを得まして」
「おい。おいお前ら!!」
「きりゅ、きりゅきりゅ、りゅりゅりゅりゅううう」
「いえそのような、そこまで褒められますと私も何ともはや面映ゆくなってしまいます」
「待て、坊丸っ!」
そこでやっと、大いに盛り上がっていた探検団のナンバー1とナンバー2が竜軌を見た。
「これは上様、ご在室でしたか。……頬に擦り傷がございますが」
ねじり鉢巻きをした華やかな美貌の眉宇が憂いがちに曇る。
「突っ込みが追いつかんわ美形なら全て許されると思うなよ坊丸!」
それでも一番言いたいことを竜軌は初めに言った。
「――――――――は、美形などとそのような、滅相もない」
「嫌味か。どうして美羽と意思疎通が出来た、前からかっ」
ミスター・レインが長い睫を上下させる。
「いえ、御方様は先程、普通に話しておられましたゆえ、」
「普通じゃなかったっ」
そこは絶対に人として譲れない。
「うききいっ」
信玄像を持ったまま、美羽が満面の笑みで坊丸に飛びつく。
「そ、そ、大好きなどと畏れ多い、」
顔を赤らめた坊丸から竜軌が美羽をべりっと引き剥がす。
「お前という女は何が全部ちょうだいだ、愛してないっ、俺を愛してないだろうお前、間違いないな!?」
「りゅうきっ!」
「今、上様のお名前を」
「それは解る!」
「りゅうきい~!」
「見て見て見てこれすごい~、と言っておいでです、いやー照れますな」
「それは解らない!」
美羽と坊丸が、え、どうしたんだろうこの人?という顔で竜軌を見ている。
竜軌は独りぼっちだった。
自分こそはこの部屋の中で唯一の正常な人間だと信じている。
なのにひどい疎外感を感じた。くずおれた彼の肩にそ、と美羽の右手が置かれる。左手には信玄像が抱かれたままだ。
「りゅうき、」
「どうしたの、悩みがあるなら話して。あなたが辛いと私もとても辛いから、と仰せです」
「美羽…」
「りゅうーりゅ、ききっき、うきききー」
「信玄像を一時間、お茶を飲みつつ私と語らいながら鑑賞したあとに悩みを聴くと仰せです」
「…………美羽………」




