やがて
やがて
竜軌は胡蝶の間の天井をぼんやり見上げていた。
(ひたむきに生きる姿のみを愛でる慈しみを、数多の者が持ち得るならば、か)
高邁な理想だ。
「りゅうき…」
誰より愛しい声が呼ぶ。顔が自然に優しくなるのが自分でも解る。
声に向き直ると一対の目が竜軌を見ていた。
「おはよう、美羽。――――――よしよし、熱が下がったな。一安心だ」
真横の温もりの、額に手を当てて口元を緩め、美羽の唇の端を指で撫でる。
「…どうした?」
〝考え事してた?遠い目だった〟
美羽は既にペンとメモ帳を手にしていた。
「ああ、ちょっと昔、面白い男と話してな。それを思い出してた」
美羽がどう面白かったのだろうという顔をする。
「うん、そうだな。面白いし、悲しい男だったかな」
そんな言葉に覚えがある、と美羽は思って書いてみた。
〝おもしろうてやがてかなしきうぶねかな〟
「…芭蕉か。よく知っているな。…鵜のように飼い馴らされる男ではなかっただろうが。多分、早死にしたろう。時々、忘れたころに思い出す。不思議なものだ」
美羽は竜軌の意識が自分から少しでも離れるのは我慢ならない。
四六時中、彼には自分のことで頭を一杯にして、愛し過ぎて悩むくらいであってもらわなくては釣り合わない。
「……美羽?」
そんなチョコレートみたいにとろけそうな声で、簡単に懐柔などされるものか。
「美羽」
蘭に縛り上げてもらえば良かった。
〝竜軌は私のものなの。私以外を考えちゃいけないの。全部をくれなくちゃいやだ〟
また子供のように書いてしまう。やはり竜軌に笑われた。優しく。
「欲張りな女だ。ここまで俺を独占しておきながら。だが博愛精神溢れるよりは良い」
〝私、全部あげるから竜軌も全部、全部ちょうだい〟
文字は内容を表わすように急ぎ、乱れていた。
「あげてるぞ、美羽。知ってるだろう」
〝足りない、全然、足りない、もっと、もっともっと全部〟
竜軌が声を立てて愉快そうに笑った。
「やれやれ、このおひい様は。元気になった途端にこれだ。困ったもんだな」
台詞の内容とは反対に声は上機嫌だ。
竜軌が美羽を抱え上げると、柔らかな芳香が美羽に近付いた。
青磁の花器に活けられた色とりどりのコスモス、菊、薔薇。
「お前のものだぞ、美羽。蝶々姫への献上の品だ」
美羽は膝を折った竜軌の腕の中から上体と首を伸ばし、狙いを定め、彩りの中の一輪の花びらを唇に挟んだ。
長い黒髪が花々よりも下まで垂れて畳を這っている。
「それがお気に召したか。蝶々姫」
チョコレートコスモス。
赤いようで黒いようで誘うようで。
甘い媚薬にならないだろうか。
花びらひとひら、唇で挟んだままそっと引くと、花全体が微かに揺れた。
企みを秘めて竜軌の口元近くまで持って行く。
「…下賜くださるのですか、姫君?」
美羽がふるりと頷く。
「有り難き幸せ」
竜軌はひとひらを食むとそのまま飲み下した。




