花の聴く
花の聴く
あれは春。まだ帰蝶を娶るよりも前。
陽気に誘われるようにお忍びで美濃の領国まで単騎、遠駆けし、稲葉山城の近く、適当な桜の樹の根元で寝転がった。蝮とあだ名される男の何をか恐れることあらんと、大胆な行動を取ることで、己の大きさというものを誰にとも知らず誇示したい気持ちもあった。
散る桜が美しかった。
散ってこその花よと気分よく酔っていた時、樹の後ろから声がした。
〝誰か存ぜぬが。そこで桜を愛でておるのか〟
物静かで聡そうな、自分よりだいぶ年長の男の声だと信長は思った。敵意も殺気も感じられなかったので、信長は傍らに置いた刀の鞘をただ掴んでおくにとどめた。
〝ああ、一気呵成に散りよるわ。小気味良い。花は声を上げずに散る。耳に静かで愛い奴よ〟
〝静かに散るが、愛いと申すか〟
〝気に食わんか?〟
引っ掛かると言いたげな声音に対しのんびり尋ねる。
〝…桜、紅葉。何ゆえ人はとかく、散るを愛でるのであろうかの〟
〝何ゆえとは?〟
信長は男の言いたいことが解らず問い返した。
〝散るは命の散る時、終わる時ぞ。そを愛でるは酷ではあるまいか。ひたむきに生きる姿のみを愛でる慈しみを、数多の者が持ち得るならば醜き世も顔を変えよう。…私は、そう思う〟
何と細やかで鋭く、悲しき心の持ち主かと信長は思った。
〝さてもお主、世が生きにくかろう〟
〝………〟
〝武将などには向かぬ気立てだ〟
〝…やもしれぬ〟
寂しげな声だった。桜の花びらが、信長の顔に一枚、ゆるゆると降って来た。
この声の持ち主に、もっと優しくしてやれとでも言うように。
信長は少し考えた。
〝…花も葉も、ただただ散るは無念であろう。生を愛でるも成る程、良かろう。したが声も無く散る無念さを愛でるは、その無念を掬い上げるに等しい。救うに等しいであろうが。そもまた、慈しみではないのか〟
樹の後ろから、しばらく返事は無かった。
〝そう、左様か。左様に申すか。貴殿の申す言の葉は、強いな。日の本を照らすような明るき強さだ。或いは左様なことを言い切れる男が、世を変えるのやもしれん。――――――――名を訊いても良いか〟
〝…………〟
〝言えぬか。闊達な弁が止まったな。ならば訊くまい。私も名乗るまい〟
樹の向こう、立ち去る足音が聴こえた。
信長を、世を変えるやもと評した男は、濃緑の葉の先、今にも落ちんとする露のような印象を信長の胸に残した。
あれでは長生きすまいなと思い帰るころには忘れたが、のちの信長の一生において、この男との遣り取りは泡沫のように不意に浮かんでは消えた。




