※龍の涙
これまでのあらすじ。
「りゅうき」と発音出来るようになった美羽。名を呼ばれ、美羽への愛情が募る竜軌。
一方、帰蝶に執着せざるを得なくなった斉藤義龍の、悲しい幼少時代があった。
龍の涙
年を重ねるにつれ、帰蝶は美しくなっていった。
年を重ねるにつれ、豊太丸は狂気に蝕まれていった。
豊太丸は元服し、斎藤義龍と名乗るようになった。
彼の瞳が荒んでも濁っても、妹は無邪気に兄を慕い続けた。
その無邪気さがまた、義龍を苦しめた。
〝帰蝶。もう、私に近付くでない〟
帰蝶はあどけなく目を瞬きさせた。
〝何ゆえですか、兄上〟
〝私はきっと、そなたを道連れに壊してしまうだろう〟
〝兄上は、私にひどいことはなさらぬ〟
帰蝶は眉をき、と凛々しく上げてそう言い切る。
その両肩に、義龍は手を置いた。
〝聴くのだ、帰蝶。私は、狂気と正気の狭間に立っておる。狭間を超えれば、私を地獄が待っておる。愛しい者を、踏みにじる地獄だ。兄にそのような苦しみを味わわせてくれるな。後生だ〟
〝兄上は、帰蝶にひどいことなどなさらぬ!〟
義龍は泣いた。
頑是ない妹。
愛しい妹、もう間もなく、己が手で壊してしまうであろう妹が哀れで涙した。
澄んだまなこは、輝く無邪気は、義龍の抱える闇に汚され変質してしまうのだ。
その年の夏は暑かった。
尾張の守護代の一族、織田のうつけと呼ばれる若者が元服し、織田上総介信長と名を改めたと聞いた。
十一になった帰蝶は、年より二つ三つは上に見えた。
美姫となる片鱗は早くからあった。
白い額に浮いた汗を拭おうとした彼女の手を、義龍は掴んだ。
〝兄上?〟
〝そなたは私の愛しい蝶だ〟
帰蝶は小首を傾げて義龍を見上げた。
世界が崩れ落ちるのはいつも唐突だ。




