登院前
登院前
黒い仕事鞄を持ち、黒いスーツにベージュのコートを羽織った新庄孝彰は手に持つ書類に目と意識を注いで歩いていた。竜軌に似た瞳は思考を巡らせる聡明な人間に特有の、鎮まった光が宿っている。深謀遠慮と大胆な決断力は政治家に欠かすべからざる資質であると彼は考え、そうあろうとする努力を怠らないよう心がけていた。
背後の騒動をまだ知らない孝彰の背に、勢いよく何かがぶつかる。
美羽の体当たりを喰らった彼の手から書類が舞い落ちた。光沢のある茶色を白い長方形が埋めんばかりに広がる。
女性の社会進出を推進させようとする案件が記された紙を足元に、美羽は孝彰を見て驚いた。
「りゅうきっ!」
「よし親父、そいつを逃がすなよっ。引っ捕えろ!!」
「私は竜軌ではない」
追いついて来た竜軌を含め、三者三様の言葉が出る。
秋月での夜はやはり例外だったようで、美羽はまだ竜軌の名前以外を発声出来ない。彼女は「お父さんっ!」と叫ぼうとしたのだ。
美羽は竜軌の魔手から逃れるべく、孝彰の後ろにササッと身を隠した。
魔手というのは飽くまで美羽の主観であり、自分の罪状を無視した都合の良い言葉である。
孝彰は竜軌には及ばないまでも長身で、紳士だった。書類を散乱させた背後の少女を庇った体勢で穏やかな声を出す。そのように、努めた。平常心もまた、政治家には欠かせないものだと考えている。例え日頃から優秀で沈着冷静な息子の顔に、「愛は二人を救う」と書いてあったとしても心を乱してはならないのだ。
「美羽さん。とても元気になったようだね。何よりだよ。……鬼ごっこかな?竜軌」
孝彰を見た竜軌は、首から下に視線を走らせ鶏ではないことを確認した。
確認してから自己嫌悪にも陥った。
「ああ、俺は鬼なんだ。だから美羽を捕まえなくてはならん。邪魔をするな」
「…顔の文字は自分で書いたのかね」
「――――――そうだ」
「器用だな」
「昔からだ」
父子は互いに猿芝居を演じている自覚があった。
竜軌はこれ以上、孝彰の美羽に対する心象を悪化させない為に嘘を吐いた。
孝彰もまたそれを承知で皮肉交じりに合わせた言葉を返した。
美羽は孝彰のコートに張り付いて展開をドキドキしながら見守っている。
「美羽さん、竜軌も。鬼ごっこは中断して、書類を拾うのを手伝ってくれないか。私は今から国会に出席しなくてはいけないから」
「りゅうきっ」
美羽は孝彰を「大人だわっ」と褒めようとしたつもりだ。
「ほら、竜軌。美羽さんもそうしようと言っている」
美羽の感動は伝わっていない。孝彰は元凶の美羽より率先して落ちた紙に手を伸ばしている。
「愛は二人を救う」と顔面に書いた竜軌は極めて渋い表情で、美羽と共に上体を屈めて紙を拾い始めた。
「……気勢を削ぎおって。覚えていろフライドチキン」
「…何か言ったかね?」




