水性ペンだから
水性ペンだから
有能で情に厚い家政婦、藤原マチは、数日間、美羽の顔を見ていないことを憂慮していた。竜軌の話によると性質の悪い風邪をこじらせたらしく、それを聴いたマチが看病をしなければと胡蝶の間に向かおうとすると、竜軌が自分一人で世話をすると言い張る。マチにうつると家政婦の仕事にも支障が出るし、美羽もあとで気にするだろうと言われ、躊躇いながらも引き下がった。お転婆で困らせられはするものの、美羽が優しい少女だということは、マチもよく承知していた。
身体の汗を拭くなど、女手が要りそうな時にはお呼びくださいね、と頼んでおいたが、まだ呼ばれた例がない。
(竜軌様お一人で、全てなさっているのかしら)
病人食は佐野雪人に運ばせているらしい。
(何から何までご自分でなさりたいなんて。新庄家の御子息ともあろう方が)
美羽への深い愛を感じて、マチは感動していた。
そんなことを考えながら、新庄家の長大な廊下に掃除機をかけていたマチの横を、何かがすごい速さで通り過ぎた。
振り返ると浴衣姿の美羽だ。帯の赤がひらひらと宙に舞っている。
その後ろから、憤怒の表情の竜軌。
ドドドドドドドド、とこれまたすごい速さで駆け抜けていく。
動体視力に優れたマチの目は、竜軌の顔面に書かれた「愛は二人を救う」という大きな文字を見て取った。状況を把握する。
「美羽様、それはなりませんっ!」
久し振りにマチが発したその言葉は、まともな常識を持った、まっとうな大人の妥当な叫びだった。
「待て、この女!止まらんと撃つぞっ」
竜軌が拳銃を部屋のどこかに隠し持っている可能性を考慮しても、今の彼が丸腰、浴衣姿なのは一目瞭然である。
「りゅうきっ!」
撃ってみーろ、ばーか、という思いを込めて美羽は名を呼ぶ。
その間にも全速力で走り続ける。何しろ相手が相手だ。一瞬の油断が命取りになる。
新庄家が無駄に広くて良かった、と美羽は考えていた。
それにしても、そこまで怒ることはないではないか。
いたずら心はあるにせよ、美羽なりの愛情表現なのに。
(ペンだって水性だし!)
走りつつ考え事をしている美羽は、前方を歩く新庄孝彰に気付いていない。




