きかないで
きかないで
心身ともに疲れ果てて、竜軌は美羽と共に新庄邸に帰宅した。
とりあえず家の人間には、美羽は秋月から真白の家に直行し、行儀見習いを兼ねてそのまま滞在し続けていると告げていた。二度と戻って来ない、などと早まって口にしないで良かったと思っている。
気配を察して玄関先まで二人を出迎えたマチは、竜軌の背中に眠る美羽を微笑ましく見つめた。
「まあ。はしゃぎ疲れて眠った子供のようですこと。真白様と楽しく過ごされたのですね。よろしゅうございました。行儀作法を進んで学ばれようとなさるなど、マチは美羽様のお心がけに感心しました。お夕飯はお済みですか?」
「美羽は向こうで食べたが、俺はまだなんだ。藤原さん、佐野の手が空くようならそう伝えてもらえるかな」
「はい、畏まりました。…ところで美羽様はなぜ、チラシをお持ちに?」
「気に入ったようで」
長々とは説明したくなかった。竜軌は瑠璃光浄土と成瀬家に体力も気力も置いて来ていた。
「…はあ。左様でございますか」
マチは怪訝な顔つきながらも納得したようだった。美羽の日頃の行状が行状だったからである。
「明日になれば、桜染めのティッシュケースのお礼も申し上げられますね」
そう言って微笑み、マチは竜軌に頭を下げると奥に向かった。
(明日か)
眠り続ける美羽の状態を隠し続けるにも限界がある。どうしたものかと竜軌は考えた。
胡蝶の間の布団に横たわった美羽を見て、蘭は目を見張った。
「美羽様――――――。真に、お戻りで。一体、今までどちらに、」
マチから、竜軌が美羽を連れ帰ったと聞いてはいたが、直接自分の目で確認するまでは信じられなかった。
「瑠璃光浄土だ」
竜軌が、蘭の運んで来た夕飯を食べながら教える。
「は?」
「薬師如来の庇護を受けて眠っていた。連れ帰ったは良いがこの通り、眠りこけてる」
鮭と野菜のサラダを頬張りながら、美羽を目線で指す。
「あの、何やらよく解りませぬが、ともかく、義龍の元に走られたのではなかったのですね」
「……そうだ。俺の早合点だった」
竜軌が箸を止めて答えると、蘭は穏やかに笑った。
「ようございました。力丸がとにかく、大層な嘆きようと言うか喚きようで。上様をお止めせねば、やら、俺がお二方を仲直りさせねば、などと怪我人の癖に大騒ぎで、病院を脱走しかねない勢いでして。坊丸は病院に張り付く羽目になっております」
「ああ、力丸には気の毒だったな……」
茄子の辛子醤油を口に放り、盃を干して、呟く。
瀕死の傷を負いながら、愛しておられぬのかと叫んでいた少年の声が蘇る。
病院を去ってからも力丸の病室に耳を澄ませていた竜軌には、「上様の莫迦」、「上様のノータリン」、「上様の早とちりの助」などという悪口が聴こえていた。竜軌を「聴く」巫と知る上での度胸ある行為に、竜軌は腹を立てながらも感心していた。
「力丸は大器だ。莫迦だが」
「は、私と坊丸も常々、それは話しているところでございます。どうも見極めが難しいと」
「紙一重だからな」
「左様。ところで上様、本日のデザートはパウンドケーキですが、もうお運びしてよろしいでしょうか?」
「―――――――要らん。出すな」
え、と蘭が浮かしかけた腰を下ろす。
「パウンドケーキ、お気に召しませぬか」
「大っ嫌いだ!特に栗やらレーズンやらが入ったやつは」
「…季節柄、そんな感じの物になりますが」
「要らんっ」
「はあ」
自分は何か竜軌の機嫌を損ねるようなことを言っただろうか、と蘭は不思議に感じた。
せっかく美羽が戻ったと言うのに、竜軌はカリカリ、プンプンして見える。
美羽と言えば蘭は先刻から気になっていることがあった。
「蘭。美羽がなぜチラシを抱えているかを俺に訊くな。訊いてくれるな。俺はもう、疲れたのだ」
竜軌は度重なる質問をされる前に、常に似合わぬ弱い声で機先を制した。




