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蝶の妄執とパウンドケーキ

蝶の妄執とパウンドケーキ


 薬師如来は眠り続ける美羽の傍らに結跏趺坐(けっかふざ)した。右足を上にした吉祥坐である。

 美羽の額に左手の指を垂らす。本来、薬壺があるとされる手だ。

 そこから生じる、淡く青く、尊き光。

「これ、娘。起きなさい。はるばると、迎えが参っておる。そなたの辛い胸の内を、分ち合うてくれるとよ」

 慈悲に満ちた声音は、六角堂全体に染み入るようだった。

 竜軌は薬師如来と美羽を、一瞬も目を離すことなく注視していた。

 真白は正座した膝の上で、両手を強く組んでいた。

 しんとした空気がしばらく続いたあと。

「……起きんな」

「おいこら」

「はて?」

 如来がコトリと首を傾げる。

「〝はて?〟じゃない。…頭を掻きながら〝変だね、ごっめーん〟みたいな顔をするな、ウィンクするな、お前、表情豊かかっ」

「だから、お前と呼ぶくらいならば、やっくんと呼びなさい」

「落ち着いて、先輩。ねえ、やっくん。私がキスしたら起きるということはないかしら?」

「しれっと呼ぶな、真白、状況に馴染み過ぎだ。仮にお前がキスして美羽が目覚めたら俺の立場が無いだろうが、頭を丸めて坊主になって引き籠るぞ!」

「落ち着け、りゅうちゃん。だから民間療法は効き目がないと言うているだろう」

「お前もしれっと呼ぶなっ。流れに乗るタイプか」

 つい先程までは静寂に支配されていた空間が、今は喧喧囂囂たる有り様である。

 その中でも美羽は穏やかに眠ったままだ。

「……もう良い。埒が明かん。とにかく美羽は連れて帰る。良いな、薬師如来」

「良くはないな。娘本人がそれを望む確証もないというに」

 超然とした表情と静かに譲らぬ声音で薬師如来が拒否する。

 竜軌は自棄になって、美羽に語りかけた。

「おい、美羽。お前がその調子だと、探検団の活動もままならんぞ。ほら、戦利品を仲間に披露するんだろう?揃いも揃って莫迦なメンバーだから、莫迦みたいに受けが狙えるぞ、早く起きろ」

 そう言い、持参して来た、美羽が福岡で収集したチラシの束を彼女の顔の上でひらひらと振る。

 するとそれまで微動だにしなかった美羽の右手が素早く動き、竜軌の手から老人ホームなどの宣伝広告を奪い取った。目を閉じたままでそれをしっかと胸に抱く。一連の動きは電光石火のごとくであった。それでも彼女は未だに健やかな寝息を紡いでいる。

「………………………」

 神業めいた動きを目撃した三名に沈黙が降りる。

「のう、りゅうちゃん」

「…」

「それは何かの呪符か、霊符か?何ともはや、実に霊験あらたかそうだな」

「…」

「さすがだわ、マダム・バタフライ…!さすが、会員番号ナンバー1。見事な心意気よ、美羽さん。ホワイト・レディは感激しています……っ」

 疲れたな、と竜軌は思う。

 何だかとっても疲れた。真白がキスして美羽が目覚めたほうが、まだましだったかもしれない。

(お前にとって探検団とは何なんだ)

 美羽の肩を掴んで揺さぶり、そう問い質したくなる。

「あのね、やっくん」

「うむ、何だ、ましろりん」

「まさに今の行動が私たちに連れ帰って欲しいという、彼女の意思表示なの」

「真か」

「真よ。あのパウンドケーキね、胡桃とか栗とか、レーズンとか入ってて、絶品よ」

「真か」

「真よ」



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