痛くない
痛くない
呼ばれて、振り向いたが負ける。
そんな遊戯がある。
後ろを振り向く禁忌を、様々な神話が語っている。
ロトの妻。伊弉諾尊。
振り向けば、手にある幸いを失う。
「振り向くな」
けれど彼らは振り向き、手から失う。
振り向かざるを得ない人の業を説いているのか。
振り向いてもせんかたないのだから、前を向いて生きよと言う、先人たちの教訓か。
結界に人を招くに、相手の名を呼ぶ手法がある。
名前を呼び言霊を鳴らし、呼ばれた相手が振り向くと、結界の中にいる。
真白は竜軌に名を呼ばれた時、振り向くことを躊躇しなかった。
彼女は漆黒の闇に立っていた。
「どうして私を呼んだんですか」
傷ついた男に問う。
「美羽を見つけた」
真白がピクリと反応する。
「今から、行く。お前は一番、目障りだ。先に潰す。雪華を呼べ」
戦闘を誘う男を真白は注視した。
「どうした。呼べ。よもや雪華抜きで俺に勝てるとは思うていまい」
「弱った相手はなぶらない」
「お前は〝お偉い〟のだな」
「言い間違えました。自殺幇助はごめんです。雪華を呼べと言いながら、あなた自身は六王を呼んでさえいない。まさか六王抜きで私に勝てるとは思っていないでしょう?」
威風堂々とした立ち姿の竜軌は、悲しい張子だ。
厚かましくふてぶてしく装うようで、吹けば飛ぶように脆い。
玻璃細工の竜。
「…少し驚いています。あなたが、自死を望む日など来ないと思ってた。けれど今のあなたは私に嘘を吐いて唆してまで、殺されたがっている。破れかぶれそのもの」
〝人は、ただ願うだけでは死ねぬのだ〟
〝死を、願ったことがあるか〟
〝あるわ〟
〝でもね、竜軌。人って、願うだけでは死ねないの〟
(お前の願いが報われなくて良かったと俺は言った)
あの時の少女の笑顔がどれほど悲しいものであったか、竜軌は気付けなかった。
なぜ駆け寄り、抱き締めてやらなかったのだろう。
過去の話だとどこかで侮っていたのだ。
(所詮、願ったことのない俺には、解ってやることが出来なかった)
愛するという一事に寄り掛かるばかりでは、無理解の溝は埋められない。
(怠けていたのか、俺は)
果てがこの体たらく。
蝶の絶望のあとを、竜も追おうとしていた。
「…先輩」
「……」
「おいで」
「何だと?」
トン、と地を軽く蹴って、真白は自分から竜軌に迫り、うんと背伸びして彼の頭を抱き寄せた。
「よしよし。良い子。痛くない、痛くない。大丈夫。あの子は絶対、あなたの腕に帰りますよ。…ね。怖がらないで。うちに来て、一緒に温かいご飯を食べましょう。温かいお布団で眠りなさい。丁度今日、お布団を干したんですよ」
「…あいつ、抱けるか」
「抱けますとも。存分に、愛し合いなさい」
真白が言うならば抱けるのだろう、と竜軌は自分を得心させた。
白い花は、やはり荒太には勿体無い。




