暖流
暖流
白い猫を膝に乗せてパイプ椅子に座り、美羽はその日も靴屋の主人の話に耳を傾けていた。打ちつけた板で入口を狭められた、日の入りにくい店内には早い季節から蚊が出るらしく、美羽の足元には蚊取り線香が置かれている。
「最近はだいぶん左の視力も回復してさ。両目の視界のバランスも取れるようになったもんよ。やっぱりね、視界がはっきりしてるとしてないとでは人間、そりゃ違うよ。心持ちがね」
口髭を生やした店主は温厚な口調で、作業の手が空き、気が向いた時に美羽に話しかける。そしてそれは一旦始まると、立て板に水と言った調子だ。
「しかしさ、りゅうちゃんが女の子の世話焼くなんざ、おりゃたまげたよ。そら、美羽ちゃんは美人さんだし、ちょいと気が強いが良い子だ。だけどりゅうちゃんも難しい子だからねえ。でもあんた偉いよ。その年で親亡くしててさ?声も出せないのに、りゅうちゃんとこ引き取られるまでは、食品加工場で働こうって考えてたんだろ?っかあ~~、健気。健気だよ。うん。りゅうちゃん、ひねてるけど女の子見る目はあったんだねえ」
今日はまたよく喋るなあ、と美羽が思っていると、奥から店主の妻まで出て来た。手に持つコーヒーカップとソーサーは、恐らく美羽の為の物だ。インスタントコーヒーの粉と砂糖をドサッと豪快にカップに入れると、ポットからお湯を注ぎ、どうぞと出される。
頭を下げて受け取り、一口飲む。薄くて甘い。
真白が淹れてくれるペーパードリップ式のコーヒーも美味しいが、ここで出されるコーヒーも美羽は好きだ。
「それで美羽ちゃんはやっぱり、りゅうちゃんのお嫁さんになるの?」
前置きも無くあっけらかんと訊かれるので、笑いそうになりながら首を横に振る。
「あらー、残念だわあ。良い顧客さんが増えると思ったのに。美羽ちゃん、皮のヒールが似合いそうなのにねえ」
痩せて小柄な妻は、そう残念でもなさそうにからからと笑う。
この店は居心地が良い。
広大な和風邸宅よりずっと美羽の気性に合う。
真白や荒太はまだ大学生で、美羽に付き合う時間も多くは取れないと竜軌から説明を受けた時は気持ちが沈んだ。本来ならもっと通学に便の良い自宅に住まう彼らを邸に滞在させ、ここから通学させるだけでも無理をさせているのだとの実情を聴けば、それ以上は何も言えない。だが、気分を紛らわす家事さえさせてもらえずに広い部屋で一人、長い日中何をして過ごせば良いのだ。
美羽の内心の困惑を見越したように、だから暇な時はこの店に行け、と言って竜軌が美羽を連れて来たのがこの靴屋だった。
行きは蘭が送ってくれる。そして夕暮れ前になると。
「おう、りゅうちゃん」
のそっ、と身を屈めて竜軌が入って来る。入口が低いのでそうしなければ通れないのだ。トン、と白猫がタイミングを計ったように美羽の膝から降りた。竜軌のジーンズに身体を摺り寄せるが彼は相手にしない。
竜軌はいつも、帰るぞ、とだけ言う。名も呼ばず、手を差し伸べたりもしない。
しかし今では美羽も普通に笑って、素っ気無い言葉に頷くようになった。




