やめて
やめて
日が暮れて、病院にいる荒太から真白に連絡があった。荒太は真白に力丸の命があることを知らせ、坊丸に力丸の保険証、お薬手帳、着替えを持って来るようにとの蘭からの言伝を述べると通話を終わらせた。
夜の闇が深まり、胡蝶の間の襖を開けた荒太の表情は平静だった。
「荒太君、」
彼が柔和に笑う。
(あ)
何かが損なわれたと真白は悟った。
「ただいま。成利どのは、結界に巻き込まれた女の子を送って行ったよ。御両親が心配するだろうにその子、中々、帰ろうとしてくれなくてね。親には連絡したからって言って粘るんだ。弱ったよ。長氏どのはあの年で女泣かせだ」
にこやかな顔で喋りながら、真白の傍の畳に腰を下ろす。
既に坊丸も病院に向かったあとの胡蝶の間には荒太、真白、山尾が残された。
襖に描かれた蝶と花を見ると、真白はいつも山野に佇む心地になる。
名人の手になる絵とは、かくも人に憩いをもたらす。
真白はその憩いに浸っていたかった。
これから夫が口にすることを聴きたくなかった。
両耳を塞いで。子供のようにお布団を頭から被ればいつもの朝が来るのだ。
そうでなければならない。
「…真白さん。長氏どのは顔面から頭部を二十針以上縫う、大怪我だった。傷がもう少し深ければ、命は無かったそうだ。助かったのは、奇跡だよ」
次の台詞を聴く前から、真白は声を上げずに涙していた。
一定のリズムで雫が畳を叩く。
荒太はこれ以上何も告げず、彼女の肩を掻き抱いてやりたかった。
だが望みより務めを彼は優先させた。
「長氏どのの左目はもう使えない。この先、視力が回復する見込みも無い」
真白の頤が首につく。雫が胸を伝い、ベビーピンクのニットの奥に消えた。
(あなたは逃げない。荒太君)
伝える重責も伴う痛みも引き受ける夫に手を伸ばす。薬指にタンザナイトの光る左手と右手が、荒太の首の後ろですれ違った。
「ごめんなさい……っ」
「どうして」
「辛い役を、させて」
「俺は真白さんほど情が深くないし、真白さんを愛してるから平気だ」
固く抱き合い、夫婦は痛みを分け合った。
真白は荒太の腕にすっぽりと収まって泣き続けた。
「…私…いたら、…絶対絶対…助けたわ、……絶対」
「そういう仮定と自責はやめて。俺が泣きたくなる」
「ごめ…、」
「だからやめてって」
主の悲嘆を聴きながら、部屋の端に障子戸を向いて立つグレーの猫も、金色の双眼から涙をポロポロこぼして被毛を濡らしていた。




