赤い靴
赤い靴
夕暮れが近付くと、カメラバッグを下げた竜軌が頭を打たないよう、身を屈めて店に入って来る。
「美羽、帰るぞ」
自分を迎えに来てくれる人がいて、帰ろうと声をかけてくれることの重みと幸福を美羽は身に染みて知っている。
「りゅうき!」
だから発声するこの一語には、喜びと愛情と感謝が詰まっている。
それを感じ取るのだろう、竜軌も口元を緩めて美羽を見た。
今日はいつもより迎えが早い。
「ほい来たね、りゅうちゃん。美羽ちゃんだけじゃなく、たまには靴も連れ帰っておくれよ」
「オーダーで作ってもらった、こいつだけで十分だ。気に入ってるんだよ」
剽軽に声をかける店主に、竜軌は片足を折り曲げて見せる。
「まあ、そう言ってくれたらこっちも靴職人冥利だけどさ。なら美羽ちゃんに作っておやりよ」
竜軌が思案するように美羽と、美羽の履くエメラルドグリーンのパンプスを眺める。
ガラスケースや木の棚に陳列された手縫い靴の中で見ると、些か見劣りがするのは否めない。木の棚には「手ぬい」とマジックで書かれた紙が貼ってあるが、その紙無しでも物が違うことは見れば判る。
「どうだ、美羽?お前が欲しいなら作ってもらうぞ。親父さんの技術には勿体無い良心価格で、ここでは作ってくれる。他の手縫い靴屋とは値段が一桁、優しいんだ。これでよく食べて行けるね」
布張りのソファの、美羽の横に腰を落ち着けながら言う。靴屋の妻が出すコーヒーを、頭を下げて受け取る。
最後のは店主に向けての台詞だ。竜軌がソファに座るとすかさず白猫が寄って来て、彼の脚に身をこすりつけた。この猫はジーンズの生地と竜軌が好きらしい。
「お蔭さんで。既製品も置いてるしね。それに、りゅうちゃんが新庄さんに靴のオーダー薦めてくれたんで、だいぶ箔がついたしなあ。国会議員の靴を作ったってな」
「それは違うな。俺の父が、一流の技術を持つ親父さんに、光栄にも靴を作っていただいた、と言うのが正しい」
「おいおい、年寄を泣かせる気かい、こんちくしょう」
美羽も、竜軌の言い方は正しい、好ましい、と感じていた。
長の年月をかけて腕に磨きをかけた靴屋の店主の仕事の尊さは、国会議員にも負けない。
美羽は竜軌の問いかけに答えるべく、ペンを走らせる。
〝作ってもらいたいとは、思わないけど〟
靴屋夫婦が頭を寄せ、揃ってメモ帳を読むとがっかりした顔になった。
〝でも、お店にある靴で、気に入っているのなら〟
「あるのか」
竜軌に訊かれ、顎を浅く引く。
〝とっても、かわいい〟
「ほんと?どれどれ、美羽ちゃん?」
顔を一転、明るくさせて尋ねて来る妻の、美羽より小さなその手を引いて、ガラスケースの前に移動する。
下から二段目のガラス版に置かれた、赤いエナメルのヒール靴を指差す。
美羽の目には初めて見た時から、それはキラキラと光っていた。
「あれ?美羽ちゃん、お目が高いわっ!うちのエナメルは本物だからね」
「お前に似合うだろうな。買ってやろう」
妻の声に続き、後ろに来た竜軌が気軽に言う。
〝ダメ。それじゃ、ムードが無い〟
「じゃあさ、クリスマスプレゼントにしてやったらどうだい、りゅうちゃん」
「クリスマスか…」
「でも色々、美羽ちゃんの足に合わせて補正するから、今日はお持ち帰りよ。そんで、少しずつ外で履いてみて。地面に慣らす必要がある。皮底つけ終わったら、りゅうちゃんに渡しとくよ。それでさ、クリスマスに、美羽ちゃんに履かせておやり。な?」
「それで良いか、美羽?」
〝値段、〟
「だから、ここのは良心価格だ。驚くほどな」
〝いいの?〟
「ああ。それを履け。俺と兄妹靴だ。一緒に歩こう」
「りゅうきっ」
嬉しい、ありがとう、と声に籠めた。
プレゼントも嬉しいが、それを履いて、一緒に歩こうと言われたことが美羽を眩しい笑顔にさせた。




