女たちの歓喜と涙
女たちの歓喜と涙
竜軌の名前だけだが、声が出せるようになったのだとマチに教えた時、マチは、それはよろしゅうございました、といつもの調子で答えた。
その次が、美羽の予想外だった。
マチは、美羽をがっしと抱き締めたのだ。
「よろしゅうございました、美羽様。これからでございますよ。一歩ずつ、前進すれば良いのですからね。そうすれば悪いものも、傷も、一歩ずつ、後退して行くのでございますから。大丈夫、このマチがついております」
涙声で語りかけられながら、彼女の豊満な胸に顔を押し付けられた。
母のように思い、頼れと言ったのは、本心からであったらしい。
マチが〝お窘め攻撃〟を控えてくれれば、もっと彼女を好きになれると美羽は思った。
文子はその報せを聞いて、まあ、と言った。大粒の真珠を指に乗せたたおやかな左手と右手を、同時に両頬に当てる。
まあ、まあ、とそのまま繰り返し、目に浮かんだ涙をそっと着物の袂で拭った。
「三谷さん」
「はい」
「硯と墨を用意してちょうだい」
「はい。恐れながら奥様」
「なあに?」
「文を書かれるより、直接、私がお呼びして参るのはいかがでしょう」
「―――――そうね。善は急げと言うものね。三谷さん、お願いします」
「畏まりました」
椅子が二脚しかない小テーブルとは別の、螺鈿細工の大きな丸テーブルに竜軌と美羽、文子は輪になって座った。直にテーブルや椅子を置いて畳がへこんだりしないか、美羽はこの部屋を訪れるたび、心配になる。
手前に小テーブルの置かれたガラス窓からは、庭の紅葉が見渡せる。
期待に目を輝かせる文子を前に、美羽はもじもじとした。
ピアノの発表会に出る子供のようだなと竜軌は思う。
「…りゅうき」
「――――素敵。素敵なお声だわ、美羽さん。完璧な発音ですよ。ねえ、竜軌さん?」
マイセンのティーカップとソーサーを持ち上げて、竜軌が頷く。
「ええ。僕の名前だけ、呼んでくれるようになりました。愛を感じます」
堂々と、誇らしげにそう言う。
竜軌の抱く誇らしさは本物だ。
「愛。その通りね。愛だわ。美羽さん、お願い。もう一度、聴かせてちょうだい?」
文子は夢見る乙女の瞳だ。
美羽は、もう一度、パパ、ママ、と呼んでごらん?と促される、言葉を覚えたての幼児になった気分だった。
気恥ずかしいが、文子に純真な瞳で頼まれると応えずにはいられない。
「りゅうき」
「ああ、嬉しい」
文子はそう言ってまた、涙を拭う。
「あの人にも、お父様にもお伝えしなくてはね。親にとって子の名前というのは、それは何よりも大切な魔法の言葉なのですよ。幸せを願い、名付けた、特別な。あの人、驚いて喜ぶわ。あなたたちの愛も、きっとお父様に伝わりますとも」
金と濃いピンクの柄のカップを見つめて、そうかしら、と美羽は思った。
幾ら息子の名を呼んでも。
美羽は今日、教えられるまで、マイセンという言葉すら知らなかった。




