知らないこと
知らないこと
着物から普段着に着替えた美羽は、目を輝かせながら、竜軌に展示会の報告をした。
行く前は余り乗り気でないように見えたが、それなりに楽しめたらしい。
頬を紅潮させた様子を可愛く思いながら、竜軌は相手をしていた。
〝文子さん、とても物知りだったわ〟
「ああ、あの方面は母の得意分野だ」
そこで美羽が、ふふん、と言う顔で、メモ帳にペンを走らせる。
〝竜軌。万年青 これ、読める?〟
「まんねんせい」
〝そう思うでしょ?違うの。これ、おもと、って読むんですって〟
「おもと?知らんと読めんな」
〝真白さんも読めなかったんだけど。文子さんは知ってたわ。縁起の良い植物の名前ですって。さすがよね〟
若い女性二人に尊敬の眼差しで見られた文子は、それは嬉しそうだった。
「ふうん」
〝青って名前にあるのに、実は赤いのよ〟
「うん、解った。美羽、続きはここで聴かせろ」
そう言って竜軌は、自分の隣の畳を叩く。
ぱち、と瞬きした美羽がそこに座ると、ゴロン、と転がされた。
どっこいしょ、と竜軌もその横に転がる。
「一日、着物で疲れただろう?」
理由を説明され、確かに、と素直に頷き、竜軌に身体をくっつけた。
多少、文字が書き辛いが、転がると改めて筋肉が疲労していたのだと実感する。
畳の匂いと竜軌の匂いが混じって鼻に届き、心地好い。
〝宝尽しって言うのもあったわ〟
「ああ。宝袋、蓑、宝珠、打出の小槌とかか」
美羽が唇を尖らせる。
〝竜軌、知ってるの?〟
「いや、他は知らん。教えてくれ、美羽」
博識で大人の竜軌にそう乞われると、美羽は気分が良くなる。
〝いいわ。菱形にね、八角なんかもあるのよ〟
「菱形は何で縁起が良いんだ?」
〝それは文子さんも知らなかったわ〟
「八角って?あの、香辛料の?」
〝そう。でもね、お店で売ってるのと、全然、形が違うのよ〟
「八角は何で縁起が良いんだ?」
〝それも文子さんは知らなかったわ〟
「…………」
どうも母親の知識には所々、中途半端に抜け落ちているものがあるらしい。
気を取り直して、美羽の髪を撫でながら思い出したことを語る。
「日本刺繍は母も昔、熱中した時期があってな。今日の展示会の客は、そのころ出来た知り合いなんだろうが、親父の書斎に掛かった額があるだろう」
〝あの、キレイな松並木?〟
「あれは、母の刺した物だ」
美羽の目が丸くなる。
〝あの大きな絵が、全部、日本刺しゅう?〟
竜軌は顎を引く。
「松はそれこそ縁起物だからな。親父の為にと。完成まで丸三年、かかってる」
三年…、と美羽は口を動かした。
〝愛情があったから、できることよね?〟
「どうだろうな。あの夫婦は、俺にもよく解らん」
美羽がくすくす笑う。竜軌は、その微かな音がとても好きだ。
〝あなたにも、解らないことあるのね〟
「当たり前だ」
〝時々、あなたが知らないことは何も無いような気がして〟
竜軌を見上げる美羽は、どこか悲しそうに微笑んでいた。
〝それが辛いと思う時があるの〟
「―――――――そうか。お前の温もりが、こうしてある内は辛くない」
では自分がいない間、竜軌は、と考え、美羽は目を閉じて竜軌の胸に額を押し付けた。




