竜と蝶
竜と蝶
迷子になりそうな家、というものが実在することを知って、美羽は呆れた。
こんな家は低所得者層を踏み台に維持されているに違いない、と思うと腹さえ立った。
しかしそこが、今日から美羽の〝実家〟となるのだ。
真白はこの和風邸内の様子を知るらしく、美羽の手を取り一室に導いた。
カラリ、と戸を開けると、清々しい藺草の香りが鼻を突いた。畳を張り替えたばかりなのだろうか。緊張した身体には、ホッとする香りだった。
「このお部屋は胡蝶の間と呼ばれていて――――――」
真白の声が中途で止まる。
室内には、二人の男が待ち兼ねたようにゆるりと座していた。
「荒太君。新庄先輩。女の子のお部屋ですよ?」
眉をひそめた真白に片方の男性は謝するように笑い、もう片方の男性は無表情だった。
(黒い男)
美羽は、いつか海岸で見たその男と改めて対峙した。
真っ向から自分を見る瞳に、侮られてはいけないと強く思った。
「…新庄竜軌だ」
低い、響きの良い声で名乗られるが、漢字が判らない。
察した真白が美羽の手に持つメモ帳とペンを取ろうとするが、それより早く竜軌が動き、自分の姓名を丁寧に書いて美羽に見せた。
それを見た美羽は瞬きした。
〝芸名?〟
単純に感じた疑問を美羽は紙に書いた。得体の知れない竜軌の放つ迫力が、そう思わせたのだ。
ぶ、と優しげな顔の男が噴き出す。
「――――本名だ」
〝派手な名前〟
噴き出した男は今では笑い転げんばかりで、真白はそれを窘めようとしている。
「そう言うお前の名は何だ」
竜軌は当然、美羽の名前を承知している。
しかし美羽が素直にメモ帳に自分の名前を書こうとすると、竜軌がそれをサッと奪った。
「俺は自ら名乗り、字も示したぞ。お前も同じくその口で名乗るのが礼儀ではないのか」
「先輩―――――…!」
美羽は目を見開いた。
口でなど。
声など出せよう筈もない。
その事情を承知しているだろうに、何て嫌な男なのだろうと思った。