触れたもの
触れたもの
視線を感じて、美羽は顔を上げた。
砂浜から、傾斜の強い階段を登り切ったところにある歩道すれすれに立ち、こちらを見下ろす影がある。
黒い影。黒い男。初夏の日は、何かを暗示するようにその真上に。
男を印象づけるものは〝黒〟だった。
別に嫌いな色ではなかったし、その男の黒には、どこか惹きつけられるものがあった。
色の褪せた黒いワークジャケット、鉤裂きの目立つジーンズ。
髪の一部は赤かった。そして距離を置いても判る眼光の鋭さ。
美羽を一直線に射貫く。
混じり気のない黒の、底知れない瞳。
射貫かれた瞬間、身動きが出来なくなった。
心に湧いたものの正体も判らない。
恐怖、がそれに最も近い気がする。
剥き出しの感情の塊に晒されると、それがどんな感情であれ、人はまず怯えるのではないだろうか。
迷うことなく己の塊を晒す人間の、意思の強さに慄きもするのだ。
あの男はそんなことをして怖くはないのだろうか。
直の肌に、跳ね返る傷を負うことへの恐れはないのだろうか。
痛んでも構わないと?
(強いから出来るんだわ)
贅沢な強さ。折れたことを知らぬがゆえの傲慢。
美羽は鼻白んでそう思った。
自分を睨むように見据えたまま、彼の唇が動いた。
〝―――――見つけた〟
そう、言ったように見えた。
だから、自分は見つけられたのだと思った。
綺麗な黒を纏う、幻のような男に。
男の黒い目が、ほんの少し茫然としているかに見えたのは気のせいだったのかもしれない。
幻のような男の目が、幻を見たように美羽を捉えたと感じたのは。