誘惑に弱い
誘惑に弱い
朝起きると、山尾の姿が部屋に無かった。
朝のお散歩かしら、と思いながら着替えていると、廊下のほうから声が聴こえた。
「まあ。こんにちは。どうちたの?ん?迷い込んじゃった?」
律子の声だ。赤ん坊に話しかけるような。
もしやと思い、急いで着替えを済ませると、廊下に出る。
「美羽ちゃん、おはよう。あら、お洒落して。素敵よ」
美羽の予感は的中し、朝の光を浴びた律子に抱き上げられ、相好を崩しまくった山尾がいた。これが普通の猫であれば微笑ましい光景だ。だが、山尾は普通の猫ではない。
律子の胸に、山尾の頭がぎゅう、と当たっている。
美羽は大きく口を開いた。声が出れば、わあ、とかダメ、とか叫んでいただろう。
律子の腕から、大急ぎで山尾を奪取する。
「美羽ちゃん?もしかして知ってる猫?」
大きく、何回も頷く。知り合い、という言葉が浮かぶが、それを言うのも少し違う。
「そう、可愛いわねえ。でも、部屋の中でこっそり飼ったりしちゃダメよ?」
これにも頷き、律子が去るのを見届けて、部屋に舞い戻る。
〝山尾さん!ジェントルマンじゃなかったの!?〟
山尾を床に下ろしてから、猛然と抗議する。
「いえ、美羽様、あれはあちらが急にひょいと私を抱き上げまして。抵抗する術もなく。止むを得ない仕儀だったのですよ」
美羽は山尾をむう、と睨む。
〝嫌がって腕から逃げ出すとか、出来たでしょう〟
「はあ、まあ、そういう手もありましたな」
〝スケベ!〟
そこで猫はしゅん、となった。
「レディの胸元というのは、かぐわしい花にも勝る魅力なのです。抱き上げられればうっとりと、とろり、とろり、ととろけて、前後不覚に陥るのでございます。あいすみません」
〝今後、こういうの、禁止よ?施設の年頃の女の子とかに見つかっても、抱っことかされないように!でなきゃ私、あなたを安心して置けないわ〟
グレーの猫はますますしょぼんとなり、大柄な身体を縮めた。
「承知致しました」
美羽は少し可哀そうになって、つけ加えた。
〝その代わり、私、あなたをなるべく撫でてあげるから〟
山尾の髭がひく、と動く。金色の目がきらきら光る。
「喉の下とか、お腹とか、撫でてくださるので?」
〝いいわ〟
「…抱っこは」
〝それはダメ〟
そのお刺身は食べられないのか、と普通の猫がするような表情を、山尾が見せた。




