小さな世界
小さな世界
竜軌の耳に、斑鳩の声が聴こえる。
念の為に、催涙スプレーの中和剤を買って来ると。
(そうだな。それが良い)
真白に何らかの後遺症が残ることは望ましくない。
個人的な感情に加え、荒太の制御が難しくなる。美羽を守る強力な盾を一枚、損なうことにもなる。
ともあれ、現時点において美羽は無事だ。
(まだこれでは終わらんだろうが)
目を閉じて感覚の栓を緩めると、あらゆる音が飛び込んで来る。
たった今、生まれ落ちた赤ん坊の泣き声。
誰かの涙が落ち、硬い床を弾いた幽き音。
樅ノ木の葉擦れ。
羊の鳴く声。馬の蹄。
異国の地で、男が女に愛を囁く。
波が岩に当たって砕け、撃たれた熊がどうと倒れる。
極寒の地の、氷が割れる、砕けて溶ける。
それは地球の上げる悲鳴のようで。
世界を聴く間にも、秀比呂の声には焦点を定めたままだ。
しばらく時を置いてチャンネルを切り替え、オーストリアの首都、ウィーンのシェーンブルン宮殿オランジェリーに移る。
演目は歌劇『フィガロの結婚』。
作曲を手掛けたのはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
場面は第一幕終盤、フィガロのアリア『もう飛ぶまいぞこの蝶々』。
イタリア語で朗々と、フィガロ役の男性が歌う。
(気に食わん符号だな…)
このタイミングで聞くには好ましくないタイトルだ。
加えて、『フィガロの結婚』は世襲制、労せずして特権階級にある政治家や貴族たちを、辛辣に批判する内容の作品だ。
今、手にある力、財、地位を得る為に、あなたはそもそも何をなされた?、と従者フィガロが伯爵を独白で皮肉る。
(俺への当て付けか?)
目を閉じたままでふん、と笑う。
旋律に身を委ねながら、竜軌は然るべき時を待っていた。




