至上の人
至上の人
新庄文子はこれまでに直面したことのない現実にうろたえていた。彼女の知る常識に、こんな野蛮な幕切れは無い。自宅の門の聳える前で、おろおろと夫に話しかける。
「あなた、あなた。これは一体、どういうこと?美羽さんは、私たちの家族になったのではなかったの?」
「もちろん、その通りだよ。文子。落ち着きなさい。施設の職員たちの誤解が解ければ、彼女もじきに帰って来るとも」
「本当ですね?じきに。わたくしは、美羽さんとは、これからもっと仲良くなろうと、そう思っていますのよ」
何歳になっても少女のように、邪気と無縁の瞳を失わない妻に答える。
「…ああ。竜軌。書斎に来なさい。話がある」
竜軌は醒めた目で父親を見た。
「美羽さんを諦めなさい」
幾らか物憂い抑揚を感じさせる声で、肘掛け椅子に身体を埋めた孝彰は言った。
一個人としての感情より、常に一政治家であることを優先しようとする孝彰の発言に、竜軌は驚かなかった。自らはソファに座り、テーブルの上に足を組む。
「スキャンダルか?」
「そうだ。蟻が長年の努力で築き上げた信頼も、崩れる時は風より速い」
「朝林秀比呂を敵と見なすか」
「これが彼の差し金と言うなら。残念だよ。彼がお前の言う狼でないことを、私はまだ祈っていたのだが」
竜軌は孝彰の表情を観察する。孝彰が、秀比呂を本気で敵と認識する。それは竜軌にとって都合が良い。美羽を守るには喜ばしい状況だ。しかし現在、守るべき蝶は、悪辣な外敵の雌伏する荒野へと放たれてしまった。
――――――泣いていた蝶。
長く待たせることは出来ない。
「では俺が、新庄孝彰はストーカーの教授から里子を守ろうとしていると、記事に書かせよう。あちらのでっちあげとどちらが信用を得るかは、あんたと朝林のこれまでの業績と振る舞いで判断されるだろう」
「……私のイメージが好き勝手にあげつらわれるという訳か」
それは孝彰にとって不愉快なことだった。竜軌は衆目に神経質な父親の気性をよく理解していた。美羽を再びこの手にする為には、今、孝彰を安心させる材料を与える必要がある。そしてその材料を得る特異な能力を、竜軌は天から授かっていた。
「絵に描いたような大物政治家の汚職が明らかになれば、世上の関心もそちらに向く」
「そんな降って湧いたように都合の良い話があるかね」
「ある。教えてやる。だから美羽を戻す努力を怠るな」
孝彰が息子に対して畏怖の念を覚えるのはこんな時だ。
「……かねてより不思議だったのだが。お前は様々な情報、それも秘匿されているであろう機密事項までも、一体どのようにして知り得るのだ?」
「さあな。何ならペンタゴンのセキュリティシステムの情報も教えてやろうか」
「遠慮するよ。これ以上、心臓に悪いことを聞かせないでくれ」
竜軌が素直に答えるとは、孝彰も思っていない。
だからもう一つの不思議について、まだ信じ難いと言う声音を以て尋ねた。
「美羽さんが、それほど大事か。竜軌。お前が?」
「……あんたには解るまい」
珍しく感傷的な竜軌の物言いだった。部屋の壁の一点を見つめるように、遠くを見る眼差しで。
〝解るまい〟
その言葉の壁を、息子は自分の前にずっと置き続けて来た気がする。
実際、解らなかった。孝彰には、竜軌という人間を掴めなかったのだ。それが長年、父親としての負い目でもあった。
「お前が一人の女性を全力で愛する男とは思わなかった……。もっと別の、大きなものに価値を見出すとばかり」
「大きなもの、のイメージが乏しい。それがあんたの限界だ。俺はあれ以上に価値のあるものを持たない。今後も」