風のゆくえ~薄暮の独白~
〜プロローグ〜
ふわりと、風がよぎる。
ほのかな甘い花の匂いを纏いながら、何処からかやって来て、また何処かへと去ってゆく春の温かな風。
そんな風の匂いに誘われるように、星明かりに包まれた闇の中で、小さな影がゆらりと動いた。
懐かしい匂い。
いつか大切な友と並んで歩いた湖のほとり。
あの日も同じように、温かな風が甘い匂いを纏っていた。
彼は今どうしているだろう。
最後に別れてからもうどれ位時間が経ったのだろう。
もう随分遠い昔の事のようであり、昨日の事のようにも感じる。
きっとまた会える。
そう約束したのだから。
もう一度、あの湖のほとりを共に歩こうと。
お互いもう若くはないが、最後にそれくらいの夢を叶えるくらいは許される。
友はそう言って笑った。
あの笑顔を忘れた事は無い。
あの約束を忘れた事は無い。
いつかもう一度。
その日が一体いつなのかは解らないけれど、必ずその日はやって来る。
そう信じながら、黒い瞳は静かに空を見上げた。
月の無い闇の中で、無数に散りばめられた星たちは、まるで泣いているかのような頼りなさで、儚げに明滅を繰り返す。
やがて空が零した涙が一つ、南の空を静かに流れ、消えていった。
〜春〜
「―――誰かをお待ちなんですか?」
不意に聞こえた問いかけ。
まだ僅かに冷たさの残る緩やかな風が、散り始めた桜の花びらを纏いながら緩やかに湖面をなぞる。
そこに生まれる波紋はまるで、風が自らが通り過ぎた軌跡を遺しているかのようだと、私には思えた。
そんな光景をひとしきり見つめた後、私はゆっくりと声の主を振り返る。
そこに静かに佇んでいたのは、この時勢には珍しい着物姿の少年だった。
夕陽に照らされ輝く少年の銀色の髪はとても美しく、群青とも紺青ともつかぬ深い蒼の着物に良く映えている。
「……えぇ。友人を待っておるのですよ」
薄く閉じた瞼の裏に視える、懐かしい友人の姿。
随分会っていない為、その姿は最後に会った日のまま、時が止まっている。
「長年を共に過ごした、大事な……とても大事な友人です」
「……そうですか。早く、来ると良いですね」
微笑みながらそう言う少年から眼前の湖面へと視線を戻すと、夕陽は先程より随分大地に近付いていた。
おそらくあと数分もすれば、完全に地平線の向こうに消えてしまうのだろう。
今この瞬間にも失われ続けている、この世界の鮮やかな色達を道連れにしながら……
「……そうですなぁ……早く来て欲しい気持ちと、のんびり来て欲しい気持ちと、半々ですかなぁ……」
「ご友人に、早く会いたくは無いんですか?」
「もちろん、早く会いたいですよ。だがしかし……あいつにはゆっくり寄り道をして貰って、会えた時にはその土産話を沢山聞かせて欲しいのです」
あいつと最後に話をしたのはいつだっただろうか。
いや。
いつも私が一方的に話をするばかりで、あいつはそれを横でただじっと耳を傾け聞いてくれていた。
「いつも、傍で私の話を聞いて貰ってばかりでしたからなぁ……今度は、私があいつの話を聞いてやりたいのですよ」
「きっと、ご友人も貴方に話したい事が沢山あると思いますよ」
「どうでしょうなぁ……いざ会ったら、また私ばかりが話してしまいそうでねぇ……またいつも通りになってしまいそうな気もしますが……」
自分の悪い癖に思わず苦笑いをしながら話す私に、少年もまた、笑いながら「大丈夫ですよ。話すのも聞くのも、きっと貴方に会ったらどちらでも嬉しいはずですから」と、言ってくれた。
目に映る木々はとうにその色を失い、緩々と近付いて来る宵にその身を預け始めている。
「……もう、こんな時間ですね」
「えぇ、夕暮れはあっと言う間に過ぎてゆきますからなぁ……もう少し眺めて居たかったが、また明日の楽しみにしましょう」
私の言葉に頷くと、少年は「それじゃあ、また」と言って、闇の奥へと静かに立ち去って行った。
たったそれだけの僅かな間に、気付けば世界はすっかり太陽を失い、空はその残照によって深い深い蒼に染まっている。
まるであの少年の着物のような、美しい紺青色。
あいつも何処かで、同じようにこの空を見上げているのだろうか。
〜夏〜
「こんにちは」
烈日に向かって、蝉達がその儚い命を燃やすようにして叫び声をあげる。
その声に重なるようにして聞こえたのは、いつか会ったきりだったあの銀髪の少年の声だった。
「おや、君は……」
「お久しぶりです。近くを通ったので来てみたんですが……またお会い出来て良かった」
以前会った時には夕暮れ特有の光の強さによって分からなかったが、改めて見た少年の瞳の色は、その銀色の髪に良く似合う美しい紫色をしていた。
光の加減によって赤紫にも、逆に青紫にも見える硝子玉のような……宝石のようや不思議な瞳。
その紫の瞳に穏やかな笑みを湛え、じっとこちらを見つめたままで少年は静かに問うた。
「……ご友人には会えましたか?」
「……いいえ。あいつはもう暫くゆっくりして来るのでしょう。気長に待たせて貰いますよ」
そう言って笑う私を、少年は変わらぬ笑みを浮かべながら、小さく「そうですか」とだけ呟いた。
ザワザワと、木々を揺らす生温い夏の風。
葉擦れの音に混じって遠くから聞こえる子供たちの笑い声。
そんな楽し気な子供たちの声に寄り添うように、微かに犬の鳴き声も聞こえる。
彼らの飼い犬なのだろうか。
ここからはその姿を確認する事は出来ないが、キャンキャンと鳴く少し高めの声から想像するに、恐らくは小型の犬だろう。
忙しなく鳴き続ける蝉の声が響く暑夏の午後。
耳に届く音は蝉の声に飲まれ、陽炎のように遠く揺らめいているように感じられる。その所為か、攻撃的な暑さとは反対に流れる空気は何処までも静穏だ。
「穏やかな時間ですなぁ……」
誰に宛てた言葉でもなく、ただ、自然に口から零れ落ちたような呟きだった。
しかし、隣に立つ少年はそんな独り言のような私の言葉にも感慨深くその瞳を閉じ「そうですね……」と、応えてくれる。
「……もしもお時間があればで良いのですが……この老いぼれの話し相手になってはくれませんかな?」
それは、ほんの気まぐれのような思いつきだった。
穏やかな時間の心地よさに、今暫く微睡んでいたかったのか……それとも、単純に人恋しかっただけなのか。
自分にも良く解らなかったが、そんな私の唐突な申し出にも、少年は変わらぬ笑顔で答えてくれた。
「えぇ。俺で良ければ」
「ありがとうございます……では、少し話しましょうか」
ずっと昔から変わらず此処に在る、古びた木造のベンチ。私はそれに腰をかけたままでゆっくりと話し始める。
子供の頃の事。家族の事。嬉しかった事。少年は私の他愛ない話に耳を傾け続けてくれていた。
決して笑みを絶やす事なく、時に頷き、時にじっと黙って。
誰かにこうして話を聞いて貰うのは随分久しぶりのような気がする。
「……きみは、この辺りには良く来るのですか?」
「はい。此処に住んでいる訳ではありませんが……ちょっと縁があって。時々立ち寄るんです」
「そうですか……なら、この湖に住む白鳥の事は知っていますか?」
「白鳥……?」
私の問いかけに、少年は今日初めて笑み以外の表情を浮かべてみせた。
首を傾げ大きく瞬きをするその表情は、これまでの穏やかな笑みに比べて随分と年相応な表情で、逆に私が笑ってしまいそうになる。
とは言え、少年自身に年齢を聞いた訳では無い為、外見からの勝手な憶測でしか無いのだが。
「普通、白鳥は冬の訪れと共に日本にやって来て、春が来る前に旅立ってしまう渡り鳥ですが……この湖には、数年前から、一羽だけ飛び立つ事の出来ない白鳥が居るのです」
湖と呼ぶには若干の抵抗を感じるような、比較的小さな湖。
その真ん中に浮かぶ小さな浮き島の上に見える、白い塊を指で指し示す。
「見えますかな?あそこに居るのがその白鳥です」
「……飛び立てない渡り鳥……羽を痛めてしまったんでしょうか……?」
浮島の片隅で微睡む白鳥をじっと見つめながら呟く少年の言葉に、私は静かに頷いてみせた。
「恐らくは。近距離を移動するだけならば多少羽を痛めてもじきに治り、再び飛べるかもしれないが……何千、何万キロの移動ともなれば難しいのでしょうねぇ……」
たった一羽でこの地に留まり続ける白鳥。
あの白鳥の胸には、どんな情景が浮かんでいるのだろうか。
かつて訪れた遠い大地か。
それとも、共に旅をした仲間たちか……
「―――置いてゆかねばならぬ者と、見送る事しか出来ぬ者と……どちらがより辛いのでしょうなぁ……」
ポツリと胸の奥に浮かんだ言葉は、気付いた時には既に声となって私の口から零れ落ちていた。
「あぁ、いやすみませんな。こんな話をしようと思った訳では無いのですが……歳をとるとどうも感傷的になってしまうようで……」
「どちらも」
思わず笑いながら言う私の言葉を半ば遮るようにして、少年はそれまでとは全く異なる凛とした声を響かせた。
「……きっと、どちらも同じくらい、辛いと思います……」
強い陽射しに僅かに伏せられた、瞳の奥に一瞬見えた翳り。
会ったのはたった二回。
それもほんの僅かに言葉を交わした程度の相手だ。
だがしかし、少年はどこか自分と似た者なのだろうと思った。
「どちらも、大切な誰かと別れる事に変わりはありませんから……」
そう言って寂し気に笑う少年の眼には、恐らくは白鳥ではなく、別の存在が視えているのだろう。
私と少年は、浮島にポツリと見える白い影―――白鳥を見つめ、暫くの間その場に佇み続ける。
青空に向かって響き続けていた蝉の声はいつの間にか、暮れゆく茜色の空に寄り添うような、静かなひぐらしの声へと変わっていた。
〜秋〜
「綺麗な唄ですね」
誰も居ない湖のほとり。
澄み渡る高い空の蒼と、湖を鮮やかに彩る木々の紅と黄金が織り成すコントラスト。そんな秋色に包まれながら、私はいつの間にか懐かしい唄を口ずさんでいた。
いや。もはや唄と呼ぶには歌詞は朧げで、辛うじて音程が合っている程度の鼻歌と言った方が正しいのかもしれない。
「ははは……若い頃に良く聴いた唄がふと浮かびましてね。いつの間にか唄っておりましたわ」
「話しかけようと思ったのですが、最後まで聴きたくて、しばらく勝手に聴き入ってしまってました」
笑いながらそう話す銀髪の少年は、紫掛かった深い紅……葡萄色の着物に、黒い羽織りという相変わらずの和装姿で、舞い散る葉の雨の中に静かに佇んでいた。
「唄とは不思議なものですねぇ。誰が唄っていたのか、歌詞も良く覚えていないような曖昧な記憶だと言うのに……何故か、当時の記憶が鮮明に浮かんで来るのですから」
遠い昔に聴いた唄。
特別好きだった唄ではなく、ただ、当時街で良く耳にした程度の。そんな唄だ。
しかしその唄と共に脳裏に次々と浮かんでは流れ、消えていく記憶の破片たちはやけにはっきりとしていて……
その鮮麗さが、今は物悲しく感じてしまう。
「……僕はあまり唄を沢山は知りませんが……一曲だけ、とても好きな唄があります」
「ほぉ……何と言う唄ですか?」
いつもはただじっと私の話に耳を傾け、頷いてくれるばかりの少年が自身の事を語るのは珍しく、私は正直驚いた。
「……唄の名前は分かりません。ただ……いつも、気付くと隣で唄ってくれていたんです」
そう語る少年の瞳は僅かに翳りを帯びていて……
恐らく、あの日白鳥を見つめていた時と同じように、彼の記憶の向こう側に在る遠い幻影が視えているのだろう。
「……良ければ、聴かせては頂けませんかな?」
「下手くそな唄で良いなら」
そう言って苦笑いをする少年に、私は同じく笑いながら頷いてみせた。
まだ何処か幼さを残した、青年と呼ぶには少し早い、やや高めの唄声が木々の彩りを映し込んだ水面に静かに響く。
優しくも儚げなその唄は、私の知らないものではあったが何処か心地よさを感じる唄で、私はただじっと少年の唄に聴き入っていた。
そう言えば、私もよくあいつに唄を聴かせていた気がする。
春は桜を。夏は月を。秋は紅葉を。冬は雪を見ながら、この場所で……
少年の後ろに見える、色付いた銀杏の葉が造り上げた黄金の路。
ヒュウと音を立てて旋風が駆け抜けると、風の後を追うようにして無数の金の葉が舞い踊る。
散りゆく葉が鮮やかに色付くのは、最期に自分の姿を誰かの眼に、心に焼き付けたいからなのだろうか。
路の片隅に見え隠れする、いつか土に還るであろう茶色く朽ち果てた葉の残骸を眺めながら、私はそんな事を考えていた。
〜冬〜
「積もりそうですね」
太陽を遮る、厚い雲が舞散らす白い結晶体。
それらが世界を白く染めて行く様を眺めながら、私はいつものように其処に居た。
そんな私に声をかけながら、近付く足音。
「そうですなぁ……この降りようでは、夜までに随分と積もりそうですなぁ」
白い白い、真綿のような大粒の雪。
地面に落ちて消えてしまうものもあれば、辛うじてその姿を残し、次に落ちてくる塊の足場となるものもある。
しんしん。深々と。
静かに舞い降りては少しずつ積もりゆく雪。
やがて消えてしまうそれらが生み出す、真っ白な景色。
それは儚いからこそ美しいのだろう。
「……友人と最後に別れた日も、こんな雪の降る日でした」
もう一度、あの湖のほとりを共に歩こう。
お互いもう若くはないが、最後にそれくらいの夢を叶えるくらいは許される。
そう告げて、私はあいつと別れた。
―――雪は、先程より更に勢いを増して降り続ける。
白い、白い世界。
いつかも、同じようにこんな真っ白な世界を見た気がする。
ただ冷たく……淋しく……
そんな白い世界を―――
「……正直に申し上げますとなぁ……あいつと此処で落ち合う約束など、してはいないのです」
私は、少年に顔を向ける事なく呟いた。
「ただ……此処で待っていたら、あいつがいつか来てくれるような気がしましてなぁ……」
大粒の雪が、ふわりと落ちては消える。
その繰り返しを、ただじっと見つめる。
まるで桜の花びらのように舞う白い雪の向こう側に、懐かしい姿が視えた気がしたが、それは一瞬の後に輪郭を失って消えてしまった。
ああ。
本当は、解っているのだ。
きっとどれだけこんな所で待っていても、あいつは来ないのだと。
それを受け入れられずに、在りもしない希望に縋ってこの場所に捕らわれているだけなのだから―――
「……大丈夫ですよ」
キンと、耳鳴りすら感じるような音の消えた世界。
そんな真っ白な世界で、少年の声だけが確かな輪郭を持って響く。
「ご友人は、必ず来ます」
何の根拠もない、気休めのような言葉。
なのに何故、こんなにも胸がいっぱいになるのだろうか。
信じたいと。
信じられると、思えてしまうのだろうか。
「……ありがとう……」
私の言葉に、少年は初めて会った日と変わらぬ穏やかな笑顔でこちらを見つめていた。
笑う彼の呼吸に合わせて、白い息がその姿を現しては消えていく。
「ありがとう…………」
もう一度呟くと、その言葉と共に小さな小さな雫が一つ、私の頬を伝い、やがて膝上で握りしめた拳へと落ちた。
その雫が冷たかったのは、雪を纏った風に冷やされてしまったからだろうか。
私の吐く息は―――色付く事なく、透明なまま、凍てつく空気に静かに溶けていった。
〜四季〜
―――季節が巡る。
春、夏、秋、冬……
4つの季節を繰り返し、繰り返し生きて……
一年が、五年が、十年が過ぎて往く。
永遠に続くような錯覚すら覚えるこの単純な繰り返し。
しかし、人は、動物は、総ての生き物は……命が尽きるまでに、数える程度の回数しか繰り返す事は出来ないのだ。
それを短いと思うか長いと思うかはそれぞれに違うだろう。
けれどきっと、最期に思う事は同じではないのだろうか。
これで、終わりか―――
誰かに触れる事も。
空を見上げる事も。
風の匂いを感じる事も。
この世界に居られる事も。
もう、これで終わりなのか。
それは、解放かもしれない。
それは、絶望かもしれない。
それは、悲しい事かもしれないし、嬉しい事かもしれない。
それでもきっと、皆同じ事を思うのだろう。
自分の目が開いているのか閉じているのか。それすらも解らない。
白い、白い闇が静かに辺りを包んでいく。
何処か遠くに響く、懐かしい声や音。
人の声。風の音。車の行き交う音。
色んなものがごちゃ混ぜで、何が何やら良く解らない。
けれど、音の波の向こうに、やけにハッキリと聞こえるものがある。
「……き……いだろう……?」
―――ああ。この声を、良く知っている。
「此処の桜は綺麗だろう」
優しく語りかける声。
ずっとずっと、聴きたかった声。
「お前に初めて会った日もなぁ、こんな綺麗な桜が咲いていたなぁ」
覚えてる。
「あれからお前とは随分長いこと一緒に居るなぁ」
全部ちゃんと、憶えてる。
「春も、夏も、秋も、冬も……いつも横にはお前が居たなぁ……」
そう言って頭を撫でる手のひらはすっかりシワだらけで……
だけど、とても、温かくて……
「……私はあと何回、こうしてお前と一緒に桜を見る事が出来るだろうなぁ……」
ずっと……居るよ
いつまでも、一緒に居るよ
だから―――
「なぁ……クロ……」
頭を撫でていた手のひらの温もりが、ゆっくりと消えていく。
「いつか……もう一度、あの湖のほとりを……」
優しく語りかける声が
少しずつ、少しずつ遠くなる。
「……………………」
やがて総ての音が消え去り、ただ、白い白い世界だけが残った。
もう聞こえない。
もう、何処にも居ない。
―――ああ
これで、終わりか―――
「―――今年もまた、綺麗に咲きましたね」
少年の声に合わせるようにふわりと流れた風が、宙を彷徨っていた薄紅の花びらを攫ってゆく。
鮮やかに、艶やかに、その儚く美しい姿を誇示するように咲き誇る桜の群れ。
来年も、再来年も、こうして咲き続けるのだろう。
「えぇ。どの季節も好きだが……やはり私は春が一番好きですなぁ……」
私の座る、いつもの定位置。
その横に佇む、銀髪の少年。
相変わらずの和装。
今日は、春によく合う藤色の着物を着ている。
「はい。僕も……春が一番好きです」
穏やかに、静かに、流れる時間。
ずっと以前にも、こんな時間を過ごしていた。
あいつと一緒に……この場所で―――
「この場所で、貴方と他愛ない話をしながら過ごす時間が……僕は大好きでした」
薄紅の花の群れから僅かに届く木漏れ日が、風に揺れる少年の髪をきらきらと輝かせる。
美しい、銀の髪。
もしも風に色があったなら、きっとこんな色なのではないか。そんな事を私はぼんやりと頭の片隅で考えていた。
「……でも、それももうお終いのようですね……」
思わぬ言葉に、私は視線を僅かに落として少年の顔を見つめる。
そこにいつもの穏やかな微笑みは無く、どこか悲し気な、泣き笑いのような笑顔があった。
「……それは……どういう……?」
私が問いかけようと口を開いた瞬間、唐突に吹き荒れた強い風が、私の言葉を、視界を遮る。
その時。
懐かしい、懐かしい、友の声が聞こえた。
「……ご友人が、来てくれましたよ……」
少年の声に、ゆっくりと瞼を開く。
硬く閉じられた瞼が開き、強い光が瞳に飛び込む。
眩さに白く染まった世界が、少しずつその輪郭を取り戻してゆく。
銀色に輝く髪。
藤色の着物。
そして―――
少年の足元に座る、大きな黒い犬。
幻かと思った。
いつかのように、瞬き一つで消え去ってしまう、そんな幻影なのだと思った。
けれど、何度瞬きをしようとも、その幻は決して消えること無く、ただじっと黒い瞳でこちらを見つめている。
「…………クロ……?」
恐る恐る名前を呼ぶが、私の喉から絞り出た声はもはや声と呼ぶにはあまりにも頼りない、吐息のような、掠れた雑音のような声だった。
けれど、そんな声であっても友は―――クロはまるで返事をするかのように、ワン、と一鳴きして、私の元へと走って来る。
両の足で立ち上がり、私の身体に体重をかけるクロの重さは、いつか抱き上げた日より幾分か軽く感じられた。
「……なんだお前……随分軽くなったなぁ……」
震える手で首を撫でてやると、クロは嬉しそうに目を細め、鼻を鳴らすようにしてクンクンと鳴いた。
―――会いたかった。
会いたかった。
会いたかった。
会いたかった。
全身でそう伝えてくる友。
クロに最後に会ったのは、私の入院が決まった冬の日だった。
じっと私を見上げるクロに、必ずまた戻って来るからと。
いつかまた、共にこの場所を歩こうと告げ―――結局、翌年の春に私の命は終わりを迎えたのだ。
小さな約束は守られる事の無いままに。
気付けばいつからか私は此処に居た。
何故此処に居たのかは解らない。
ただ、クロにした約束が余程強く心に残っていたのかもしれない。
来る日も来る日も、もしかしたらクロが此処に来るかもしれないと信じて、待ち続ける事しか出来なかった。
行けるものならば自ら会いに行きたかった。
しかし、私はもはや此処から動く事は出来なかったのだ。
「ワン!ワン!!」
懐かしい声が、何度も私を呼ぶ。
私の目からはいつの間にか涙が幾筋も溢れていて、やっと見ることの出来たクロの姿もぐにゃりと歪んでしまう。
涙を拭う時間すらも惜しく、ただただ、クロを撫で続けていると、私の涙をクロが舐めてくれた。
ハッキリとした視界で、改めてクロをじっと見る。
真っ黒な身体より、更に深い黒い瞳。
その奥に、様々な光景が視えた。
私と出会った時の事。
私と友に過ごした毎日。
私と別れた雪の夜。
私が居なくなってからの、子供や孫達とクロが過ごした日々。
あらゆる景色が、万華鏡のように代わる代わるぼんやりと浮かんでは消えていく。
「そうか……それが、お前の過ごした時間なんだな……」
やがて視える光景が真っ白な世界へと移り変わり、それ以降は何も視えなくなった。
「……頑張ったなぁ、クロ……お疲れ様だなぁ……」
頭を、首を、力いっぱい撫でてやると、クロはその黒い瞳を閉じて私の胸に擦り寄るようにして鼻を押し付けて小さな鳴き声をあげた。
そんなクロを暫くぎゅうと抱きしめた後……私は再び顔を上げる。
視界の先には、はらはらと舞い散る桜の花びら。
暖かな薄紅色の陽射しの中、銀髪の少年は先程と同じ場所に佇んでいる。
ただ、その表情は先程よりずっと穏やかで、温かな笑顔だった。
「…………ありがとう……」
掠れた声で、その一言を少年に告げると、彼は困ったように笑いながら「僕は何もしていませんよ」と言った。
「いいえ。きみが……クロを此処に呼んでくれたのでしょう?」
そして、恐らく私を此処に呼んだのも―――
「……さぁ。どうでしょうね」
相変わらずの笑顔で、それだけを呟く少年。
彼が誰なのか。
もはや私にはそんな事はどうでも良い。
ただもう一度、クロに会う事が出来た。
その事実が総てなのだから。
「……それでは、私たちはゆきます」
抱きしめていたクロを離し、私は古びたベンチから立ち上がる。
その瞬間、僅かに軋むような音を立てて、ずっと其処に在り続けたベンチはその輪郭をゆっくりと喪ってゆく。
……ああ。このベンチも、とうに無くなっていたのか……
幾つかの季節を共に過ごしたベンチに、感謝の気持ちを手向けながら、私は足元に寄り添うように座るクロに目を向ける。
長年の友はじっと私の目を見つめ、総てを理解したように立ち上がる。
「……ありがとう。……また、いつか……」
光の下で笑う少年にそう告げると、私はクロの頭を軽く撫で、湖に沿ってゆっくりと歩き始めた。
老いた私の歩調に合わせるように、クロもまたゆっくりと隣を歩く。
春の陽射しが水面を照らし、きらきらと眩い光を反射する。
サワサワと揺れる桜の木から零れる木漏れ日が、まるで光のカーテンのようだ。
―――ああ。
これで、終わりか…………
いつか同じ事を思った気がする。
月の無い冷たい夜に、白いベッドの上で……
けれど、今は―――
……暖かいなぁ……なぁ、クロ……
……クゥン…………
〜エピローグ〜
「風舞さま」
彼らを見送った後。
何故かその場を離れられずにぼんやりと空を見上げていると、後方から自分の名前を呼ぶ声がした。
「……シズ。どうしたんだ?」
振り向かずともその声の主が誰なのか解っている俺は、空を見上げたままでその声に応える。
「……お戻りが遅いので、お迎えに」
「そうか……ありがとう」
春の終わり特有の生温いような冷たいような風が、ふわりと頬を撫でる。
その風に誘われるようにしてひらひらと舞い散る桜の花びらの影が、月明かりに浮かんでは消えていくのをただじっと見つめながら、俺はポツリと呟いた。
「……おじいさんとクロ……次も、また一緒に居られると良いな……」
それはまるで独り言のような、祈りにも似た願い。
叶うかどうかなどは解らない。
けれど、言葉にする事で何処かに―――誰かに届くのではないかと、そんな気がしたのだ。
「……きっと、大丈夫ですよ」
空を見上げたままの俺の背中に、小さな声が届く。
「きっと、また一緒に何処かに辿り着けますよ」
「……ああ、そうであって欲しいなぁ……」
別々に終わりを迎えたけれど、最期にまた逢う事が出来た彼ら。
そんな彼らを羨ましいと思ってしまうのはきっと、彼らの姿に自分を重ねてしまうからだろう。
ひらひら。ひらひらと。
風に舞って散りゆく花びらの群れ。
その向こうに視える懐かしい面影。
―――風は、何処に行くのかな……
そう言った彼女の声が今も聞こえる。
闇に沈んだ湖を囲むように、赤い光がポツポツと生まれてゆく。
それは、桜の咲くこの時期にだけ灯される、湖に張り巡らされた幾百にも及ぶ提灯の炎。
ゆっくりと湖の周囲を巡るようにして灯される炎が、時折風に揺らめきながら、じわじわと湖と桜の輪郭を浮かび上がらせてゆく。
やや小さめの湖の中心に見える、浮島のシルエット。
そのすぐ近くに、白く浮かぶ影が一つ。
長い首を高く持ち上げ、季節外れの白鳥は静かに虚空を見上げる。
―――置いてゆかねばならぬ者と、見送る事しか出来ぬ者と……どちらがより辛いのでしょうなぁ……
いつか聞いた問いかけが、ふと脳裏に蘇る。
「……どちらも。同じくらいに……」
何度問いかけられても、やはり俺は同じ答えを口にするのだろうと思う。
「……さぁ、俺達も帰ろうか」
言いながら振り向くと、そこには笑顔で頷く小さなオレンジ色の龍。
人の手のひらに乗る程度の大きさしか無いその一角の龍は、背中の翼を使って音も無く、器用に宙を舞う。
背を向けてゆっくりと先へと進み始める小さな龍と共に、俺もまた同じようにゆっくりと一歩を踏み出す。
ありがとう
微かに揺れた桜の木の音に呼ばれるように、最後にもう一度だけ湖を振り返る。
見上げた空には、寄り添うようにして流れる二つの流星。
その残光が、湖面に緩やかな弧を描いていた。
はじめまして。
短く拙い、物語に遠く及ばないような、そんなお話を最後まで読んで頂き、ありがとうございます!
『風のゆくえ』というお話は、ずっとずっと昔。
まだマンガ家という夢を追って雑誌への投稿活動をしていた頃の自分が作り、初めて賞を頂けた作品でした。
その作品での主人公はこの小説に登場する銀髪の少年だったのですが、いつか彼の物語を再び描きたいと、お話を温め続けておりました。
彼の物語はまだ形にはなっていませんが、彼が見守ったささやかな挿話の一つとして、この薄暮の独白を書いてみました。
長く短い時間を寄り添うようにして共に生きた老人と愛犬のお話。
何が起こるわけでもなく、ただ淡々と季節が通り過ぎていく中で老人が胸の内を独白していくお話。
小説としてはきっと間違っているのだろうなと思いつつ、でも、老人とクロの想いをどうしても形にしたくてこうして文章にしました。
きっともしも1000人の方が読んだなら、999人の方がつまらないと感じるかもしれません。
でももしも、たった1人だけでも、このお話を好きになってくれたらとても嬉しいなあと、そんな気持ちで書きました(笑)
いつか銀髪の少年の物語もきちんと形に出来たらいいなあと思います。
ではでは、ここまで読んで下さり、改めてありがとうございました!!
貴方の過ごす四つの季節が、穏やかで優しいものでありますように...