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迷宮の日々5

 ハイマスターの屍の傍らに立ち、人間の焼ける匂いを嗅ぎながらひとりごちる。

左腕と引き換えの勝利、左腕と引き換えの命拾いだ。

強敵に打ち勝ったはずなのにいつもなら体中に満ち溢れているはずの達成感がなかった。

血が流れ過ぎたのかもしれない。

マントを引き裂いて傷口を覆う。

麻酔代わりの脳を支配しているアドレナリンが引けば苦しみ牙をつきたてにやってくるだろう。


失った腕は、別の思い出につながっていた。

喪った左腕の先にはリッツがいる。

伸ばした手が決して届くはずがなかった彼女につながっていた。


クルセイダーロードの率いる群れを討滅したあの日。

当然のようにドロップする宝箱をこれまた当然のようにリッツはいつものように罠を解除しようとしていた。

敵のランクからして大したものが入っているとは思わなかったが、<盗賊>の存在意義がーと声を張り上げる彼女を止める理由は無かった。

階層からしてみれば、リッツのレベルで解除できない罠ではなかったはずだ。

平凡な戦闘と平凡な報酬、それだけだったはずだ。

何が違っていたのか。桁外れにランクの違う罠だったのかもしれないし、彼女の単純なミスかもしれない。あるいは<迷宮>が何もかも終いにしようとしてしていきなり難易度を上げたのかも知れない。


宝箱が発する歯車がハマる音、リッツの指が反射的に引っ込められかすかに震えた。

青白い光が照射され彼女を包んだ。

ランダム転移。それは<迷宮>内のどこかにランダムに転送される罠の一種だ。

運が良ければ魔物の只中に放り出されて人並に死ねる。運が悪ければ石の中。最悪なら…。

最悪のくじを引いた<盗賊>がどうなったかは誰も知らない。

フロア404とかいう<迷宮>ですらない何処かで半永久的にシステム管理からすら外れて消滅するという与太話から

位相がずれたゴーストとして<迷宮>を彷徨う存在に成り下がるといった怪談まで枚挙にいとまがない。

<盗賊>のなかにはランダム転移トラップによってのみ<迷宮>から脱出できるという信仰を持つものがいるという。

PTを道連れに石の中に飛び込んでミンチの含まれる玄武岩になりたがる<盗賊>はそう多くないことが救いだった。

罠を解除しそこねて虚ろな彼方へ去っていこうとしたリッツ、伸ばした左腕は遂に届くことはなかった。

あの時、伸ばした手が届いていたらどうなっただろうか。


感情から誠実さを差っ引けば想いは言葉に成り下がる。

僕は彼女に対する想いを言葉にはしなかった。

位相がずれた存在には触れることは出来ない。そしてそれは罠が発動したその時から決定された事実となる。

僕がどれだけ触れようとしても彼女は既に触れることの出来る存在ではなくなっていたはずだ。

彼女も理解していたはずだ。だけど底抜けに脳天気な明るさが作る笑顔に、事実がもたらした影はこれっぽちもなかった。

いつもの笑顔、自分ではなく誰かを気遣うことの出来る強い意思の宿った微笑み。

リッツは僕なんかよりよほど強い心の持ち主だったのだ。

むしろ必死の形相になって空を切るように手を振り回す僕を安心させるように微笑んでくれた。

徐々に色を失って、輪郭がぼやけていき背後の景色に溶けるこむように透けていく。

まさに死なんとする、死よりも厭わしい何かに引きずられていくリッツの何一つ声にならない声、唇だけが動いていた。

発せられたそれを僕は知らない。彼方へ飲み込まれた音を拾うには位相がずれすぎていたからだ。

正確に甦った記憶の中でも、言葉は音にはなれなかった。


あれから随分と<迷宮>を探しまわったが、どこにもリッツを見つけることは出来なかった。

いつしか異相ゴーストとなったリッツを見かけるようになり、そんなお前が

ゴーストのようだとからかわれたものだ。


そんなゴーストすら徐々に見えなくなって、いつしか<迷宮>で独りきりだった。

高所から落ちる感じと共に長く長く落下してまさに叩きつけられ砕け散り粉々となって吹き消されたようだった。

これで失うものはもう何もない。

いつも失うことを恐れていたが、なんてことはない、最初から何一つ持ってはいなかったのだから。


「死にたくない」

突如として色のついた彼女の声。モノクロームに沈んでいた日々がよみがえる。

それはリッツの言葉だったかもしれないし、死んだ誰かのモノかもしれない。

ずいぶんと多くの人の最後に立ちあった。だけどとうとう最後には慣れてしまった。

人はいつかは死ぬのだ、と。


マップの踏破率95%。残りは、最下層最深部のみ。

<迷宮>もこれで終わるのだ。


最後の扉の前に立つと、それは招くように解錠された。

<迷宮>は君を歓迎しているよ。


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