迷宮の日々
迷宮最深部、中央玄室。
<迷宮>探索が始まって3000時間と少し。
モンスターに噛みちぎられた左腕の付け根から止めどなく血が滴り落ちる。
視界は白と黒が高速で切り替わるモノクロ映画のラストシーンのようだった。
灰色に近くなったところで意識が途切れそうになる。
だが皮肉なことに耐え難い痛みがそれを防いでくれている。
膝の震えがとまらず、刀にもたれかかることでかろうじて立てている有り様だ。その様はカカシのように頼りない。
随分と情けない。
心配させてしまう仲間がいないことだけがソロの気楽さか。
唯一の武器である刀はところどころが刃こぼれし、握りにもべっとりと血で濡れ赤黒い。
大量の自分の血と、もっと大量の自分以外の者の血に塗れてすっかりナマクラになっている。
これも休みなく戦い続けた結果だった。
どんな名刀でもこうなるともうただの棒でしかない。戦闘になったら鈍器として使うしかないだろう。
何となしに天井を見上げた。暗いばかりで希望も何もないがんどうとした天井を。
ここまで来れた。
ここまでしか来れなかった。
<迷宮>の日々は振り返れば屍者の想いを引き摺って彷徨った経路だったのかも知れない。
血で描かれ叫びで埋められたマップを手にし、泣きながら先へ進むしか無かったのだから。
振り返れば屍者ばかりだっただろう。ボクは独り怨嗟と無念を背負い込んで、それでも最後まで生き残ってしまった。
仲間と一緒に逝ければどれほど楽だったろうか。
今は4/5になってしまって、左腕の分だけ、僕の魂は減っている。
あの世に赴くならば屍者になんて言おうか、謝ったら許してくれえるだろうか。
そんなファンタジーな妄想を展開し憮然とした。人の本性は簡単には変えられないってことの証明だろう。
あの世なんてありはしない、人は生きて死ぬまでが人生だ。
バックアップや二周目は存在しない。
世界のどこだかわかりもしないこんな場所でも保身と欺瞞が最優先になるとは、いつまでたっても治らない悪い癖だ。
周辺を見回して、回復出来そうなポイントは見つからなかった。
だが見渡すことでこの部屋が随分と巨大なことに気づいた。
巨大な炎をたたえる燭台は骨のようなもので出来ているように見えた。
ここは個人的には部屋、というよりはただのだだっぴろい空間、作りかけの工事現場のようなそっけない感じを受ける。
ここが最終決戦場だとするなら、とんだ手抜き工事だ。
更に注意して視線を巡らすと30メートル程度先にうずくまっている影が見える。
巨大な錫杖を左手に携え、魔力の込められた金糸で編まれた緑のローブを着込んだ骸骨。
強大な魔力を誇り、プレイヤーの絶望となるために冥き彼方より訪った永遠を跨ぐ者。
死を統べ死者の国に君臨する、人智を超えた永遠の存在。
死神。典型的というか様式美というか。実にありふれた設定だ。
一目見てわかるほど端末の設定データ通りだった。
こいつこそが<迷宮>の支配者。僕らの理不尽の根源。
気圧されたわけじゃないさと心中で唱え目を細めて髑髏の顔を覗きこむ。
表情からはなにも読み取ることが出来ない。
なんら感情を漏らさない造形は、システムが僕らに向ける無関心の現れだった。
神はアリを観察しているガキだ、何も考えちゃいない。
本当はこんなところまで来るつもりはなかった。もっと上層階で楽をしていればよかったのだ。
だが理由を知りたかったのだ。
僕らをこんなところに閉じ込めて殺し合いをさせるさぞ崇高な理由があるはずだと信じていいたのだから。
髑髏はこっちの思惑なんてお構いなしに静謐を保ちこちらを見やっている。
グラス一杯に注がれた液体がぎりぎり形を成している瞬間に感じるものと同質の緊張感を漂わせながら。
こいつはこうやってラスボス然として僕らが殺し合うのを見ていたのか。
僕らの殺し合いを、殺される様を、生きたまま溶けていく有り様を、虚無に連れ去られる光景を。
埒もないことを思い、かすれた笑い声が漏れた。
今更どうでもいいことだった。
こいつが迷宮の全ての怪物を従える役目を設定された最後の敵であることは確かだった。
正真正銘の最後。ここより先には何もない。ここがこの世界の最果て。
此処から先は底なしの彼方に向かって落ちゆくのみ。
<迷宮>の日々の最終地点。
憎悪とも感謝ともつかないどす黒い何かが吹き上がり溢れだすのを感じた。両目から涙があふれた。
その滲んだ涙を死者の王は静かに見据えている。
死者の王に向かってアクションを取ろうとした瞬間、目眩がしてよろめいて壁にもたれかかる。大きな塊が頭部に直撃したかのような目眩だった。
ボクの体は壁に投げつけたトマトの様にそのまま崩れ落ちた。流血が壁に真紅の跡を残した。
取り落とした刀の残骸が乾いた音を響かせる。
それは声を出せない肉体の代わりの抗議の声をあげている様に部屋中に響いた。
全身から力が抜け、時折痙攣して腹部が捩れ、口から血を吐き出す。
体が冷たくなっていくのを感じた。このままじっとしていればそれなりに安らかに逝けそうだと確信するほどに。
そして左腕はサメに噛み付かれているようだったものがその痛みすら感じなくなっている。
これは、いい兆候じゃないな。
まさに死神の前で避けがたい死の予兆を感じ取ったのだ。
このまま死ぬのなら何のためにここまで来たというのだろう。
これは独りになってしまったあの日から何度も自問したものと同じだ。
あの時も答えはなかった。今もない。
答えのない問のために、ここまで来たというのに死者の王は身動き一つせず答えも言わない。
ただじっと空っぽの目でこちらを見ているだけだ。
おかしいじゃないか、ラスボスといえば戦闘の前には決め台詞の一つも言うものだろう?
こちらの疑問なんかおかまいなしとばかりに、死者の王の髑髏に穿たれた空っぽの眼窩には底のない闇が無限に広がっている。あれで魂を捉え吸込むのだろうか。
ボクはため息を吐き出すと同時に足を伸ばし、ゆっくりと天井を見上げた。
それは巨大なことを除けばなんてことのないいつもの迷宮の天井だ。
今までと同じだ、そっけなく合理的でどうしようもなく気が滅入る。
初めてここに来た時も同じことを思ったのだ。
そんなに昔の事じゃないのに、随分時間が経ったように感じる。
あれから沢山の事があったんだ。
歯車が噛み合わない学園生活を、
迷宮での日々を、
死んでいった仲間との別れを、
奇跡だと持て囃された日々を、
全てを振り払おうとしてあがき、最初からなにも持っていなかったことに気づいた瞬間を。
それら全ては過ぎ去って、二度と戻らない時間。
涙と共に流れ去った日々。
ある瞬間を精一杯生きて、ある瞬間は後悔に溢れている。
過去は全て還ることのないものに満ちている。
それはほんの数秒だったかもしれない。だが記憶の一つ一つを噛みしめ、覚悟を決めるには十分だった。
死者の王は、座り込んで動かないこちらを飽きもせずに見据えている。
体中から流れだした血は徐々に広がり、血だまりはそのうち泳げそうなほどになるだろう。
やがて王がゆっくりと右手を掲げるのが見えた。たったそれだけの動作で<迷宮>が揺れ、空気が震える。
続いて手のひらから広がるように空中に巨大な火球が出現した。
途方も無い熱量に躰の表面が灼け、髪の毛が燃える嫌な匂いが漂いだす。放出される光が部屋のすべてを照らしだした。魔力に物を言わせたそれは火球というよりは空中に設置された今まさにひっくり返らんとする溶鉱炉だ。
あんなものを喰らえばひとたまりもない。
ボクは骨すら残さず消滅し、それどころか<迷宮>のフロアごと焼きつくすかも知れない。
その光景を思い浮かべ、その結末は感動すら覚えた。何よりその見事さに惹かれた。
人生を費やし尽くした日々の最後に与えられる特別な存在からのボーナスに思えたからだ。
痛みも後悔もあっという間に燃え尽きる甘美な死に方、選ばれた者への豪華な火葬。
自嘲気味の笑みを死者の王に向ける。
「さすがラスボス、ソロで挑むのは無謀だったか」
だからこそ。
ささら立つ刀を取り寄せ、杖代わりにして立ち上がる。
足に力を入れろ、歯を食いしばれ、爪を立てて踏ん張れ。
体が引き裂かれる感覚に、心臓が脈打つたびに左肩の付け根からは血が吹き出す。
床に新たな真紅の地図を描き、それが火球の熱にあてられて泡を吹きだす。
それでも構わずに顎も砕けろとばかりに奥歯を噛み締めて、飛び去ってしまおうともがく意識を繋ぎとめた。
頭のなかから声が聞こえていた。勁い自制心に満ちた声が。
「生き死には運命だ、誰だって死ぬときは死ぬさ。だから最後まで足掻いてやろうや」
絶望と向かい合って最後まで足掻き、呪われた運命を堂々と受け入れた男の声だった。
仲間を裏切り、生きながら食われ、手足をもがれる苦痛と逃れ得ぬ死への恐怖の中で死んだ男の声だった。
自分に向けた嗤いが頬をつたい、腹の底から音になって漏れる。
「そうだな、折角ここまで来たんだ。せめて一矢報いてやらなきゃな!」
やれる全てをやりきれば、後は運命が勝手にやってくれる。
両足で強く床を叩きつけ踏みしめる。担ぐように刀を王に差し向ける。
右手一本の滑稽な姿だが、今なら太陽すら射落とせると思った。
支えるように上げられていた死者の王の右腕が無造作に振り下ろされ、
溶鉱炉がひっくり返されて灼熱の中身が降り注いだ。
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青ざめた巨大な悪魔の魂を揺さぶる咆哮に<迷宮>壁が震え、冷凍ブレスが正面から食らった。
まるで吹雪だ。
たちまち迷宮を凍りつかせる。
体の力が抜けていき、心臓の鼓動が叩き上げられる。吐く息すらも凍りつく。
こいつは早く殺さないと仲間を呼ぶ。
この状態で仲間を呼ばれたら死は免れない。
しかも象牙並にでかい一抱えもある牙がぞろっと並んでいるのを見ると、余りぞっとしない死に方をすることになる。
悠長に構えている暇はない。
悪魔は一抱えもある腕を振り上げこちらに叩きつけてきた。
恐竜並みの鉤爪は触れただけで肉を引き裂くだろう。
アドレナリンが吹き出すのを感じる。
恐怖を凌駕する感情が溢れだす。殺し合いは生物全てを支配する原初の掟だ。
凶悪な巨大な鉤爪を眼前に捉える。
えぐるように振り回されたそれをきっかり15cmで見切り飛び退って避ける。
と、そのまま右足で床を蹴り上げ反動で飛び込んだ。
この瞬間を待っていたのだ。
こいつはブレスの後、呪文ではなく必ず直接攻撃をしてくる。そこが隙だった。
悪魔の巨大な身体の、ちょうど首の下に滑りこむ。死中に活を求むのだ。
鋼並みに硬い青ざめた皮膚に覆われたこいつを殺すにはこれしかない。
何度も死にかけて見出した方法だ。
「うおおおおぉぉぉっっ!!」
雄叫びを上げ、真下から刀をつき上げ悪魔の喉笛を突き刺す。
悪魔の喉から青色の液体が吹き出しもろにひっかぶる。
塩素系の刺激臭、体が灼ける強烈な痛み。
戦車の発砲音のような吠え声を轟かせ、巨体を左右にのたうちまわらせる。迷宮が揺れ埃が舞い散る。
重機がよろめいているようなものだ、巻き込まれたらただじゃすまない。
転げだすようにその場を離れる。
足がもつれ凍りついた床に体が叩きつけられる。
全身が凍傷と酸の火傷。特に打ち付けた右肩がやばい。
これが現実ならみじめに泣きだしてるな。
しかし痛みはない。高揚感と集中力が痛みを遮断しているのだ。
これで仕留めれていなければ完全にアウトだ。
刀はあいつに刺さったままだ。
武器もなく戦うなんて自殺行為。逃げるにしても同じだ。
命に関わる選択を心中に浮かべつつ、のたうちまわる悪魔を見守る。
<忍者>ならともかく、<戦士>クラス。しかも貧弱な人間ベース。
それが最下層を徘徊する悪魔属を素手で相手にする?
自殺したけりゃもっと簡単な方法を選ぶ。
ならどうする?
いざとなれば刀を取り戻すためにもう一度飛び込むしか無い。
だがそれも自殺行為のようなものだ。
小数点以下の生存確率を比較して、厳密な判断を投げ捨てる。
それしか手段がないのなら選択の余地なんてものは最初から無いんだ。
幸いなことに悪魔はゆっくりと崩れ落ちた。地響きを立て倒壊するビルのようだ。
断末魔の叫びは長く響き渡った。
死を擬態している可能性をもあり警戒して死骸に近づく。足の先で悪魔の頭を蹴る。一度、二度。
どうやら本当にくたばったらしい。
大きく安堵の息を吐き出す。
体に浴びた悪魔の血をぬぐいながら周囲を警戒する。
新手の気配はない。
どうやら奴が仲間を呼ぶ前に仕留めれたようだ。
自分の英雄的な戦闘を振り返り、かなり満足した気分に浸る。
伝説の狂戦士もかくやという立ち回りだ。
迷宮の探索録に名が残るかもしれないなんて考えて、頬がゆるんだ。
だがアドレナリンの作用が消失するとともに強烈な痛みがやってきた思い上がったボクを意識ごと現実に引きずり戻した。
少し、休まないと。
マップによれば扉の向こう側はターミナルポイントだった。
ブレスの直撃を受けたんだ、凍傷があるだろう。
治療しないと腐り落ちてしまう。
死にかけた割には意外と冷静でいられる自分に驚いた。
多少は成長したんだろうか。
それとも慣れきってしまったんだろうか。
戦闘は作業だとトモユキが言ってたっけな。だとすれば慣れたってことなんだろう。
命を賭け代に、圧倒的に不利なギャンブルをすることに。
トモユキのことを思い出して気分が暗くなった。仲間のことを思うたびに悲しい気持ちになった。それが当たり前のことだと言って慰めてくれる仲間はもういない。みんな死んでしまった。
英雄の万能感などもうかけらも残っていなかった。
いつもと同じ打ちのめされて惨めな気分だった。
ボクは半ば痺れた体を無理に動かしてよろめきながら扉に向かう。
ターミナルポイントに辿り着くまで魔物に遭遇しませんように、と祈りながら。
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祈りが通じたのか魔物と遭遇することはなかった。
ターミナルポインのある部屋には魔物は出ない。
ここでならゆっくりと休める。
睡眠の重要性は迷宮に彷徨うようになって様々な教訓とともに身に染み込んでいる。
寝不足は判断力を鈍らせる。
それはここでは即座に死に直結する。
端末を操作して残ポイントを確認する。
先ほど悪魔属を殺したことで膨大なポイントが振り込まれている。
一般の戦闘で得られるものとは桁が3つ違う。
苦労が報われた瞬間だ。
ポイントに見合う達成感。
それは命をかける言い訳になるほどかも知れない。
レベル2つ分ほどのポイントはジリ貧だった懐を潤し、傷ついた自尊心を繕ってくれた。
端末を見ながら指を確認する。
先ほどのブレスで凍りつき、壊死した箇所が早くも黒ずんできている。
凍傷で指が持っていかれたら終わりだ。
体力は戻せても、欠損を修復は出来ない。
武器を使えない<戦士>の末路は、魔物の餌になることだけだ。
端末を操作し、必要なものを入力する。
回復薬、新しい刀。
部屋の片隅にあるボックスががたんっと開く。
ひったくるように回復薬の取り出し、蓋を開けて一気に飲み干す。
えぐ味でもあればば薬だって思えるんだが、あいにく迷宮で口にできるものには全て味がない。
誰もが最初に戸惑うことだ。
ボクもそうだった。それももう慣れてしまった。
人間はどんなものにだって慣れてしまうのだ。
一息にすべて飲み干す。
ようやく一息ついた。
気が抜けたのか体が弛緩してきた。
ゆったりと壁にもたれて端末でマップデータを更新する。
ここは最下層、南東玄室らしい。
目指す目的地の中央玄室まではそう遠くないはずだ。
あの巨大な悪魔の攻略に10日かかっている。
思ったより時間を取られてしまった。
だが、報いはあった。
ポイントを使用して自分を強化し、装備も一新できた。なにより<迷宮>の先に進むことが出来た。
「千里の道も一歩から」
声とともに悪戯な目をした顔が浮かんだ。
トレジャーボックスの罠を外しそこね、空間の彼方へ消え去ったあいつ。
脳天気なだけが取り柄の<盗賊>だったけど、その明るさにどれほど救われたことか。
「千里の道も一歩から、さ」
だからここまでこれた。
刀をそばにおいて、壁に体を預ける。
目を閉じて、そのまま眠りについた。