表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/35

第3章 グリアモス ―遺跡の黒猫― 2

「悪いね、グリアモスのお兄さん。お食事中に」


 その人物が言う。

 化け物の背中には、オレンジ色に輝く剣が突き刺さっていた。

 怒りに燃えた化け物が、その人物に向かって手を振り上げる。

 その人物は、化け物の背中に刺さった剣を素早く抜き取り、体を低くして化け物の手の攻撃から身をかわした。そして石畳を蹴り、宙に踊るように飛び上がる。

 片手に高くかかげたオレンジ色に輝く剣。それはエヴァンレットの剣だった。

 七都は石畳の上に力なく横たわったまま、その人物を眺めた。

 ふわりとなびく栗色の髪。化け物を見据える紺色の目。まだあどけなさの残る少女の横顔。

 あれは……。


(カディナ……!)


 カディナは化け物の背中に飛び乗り、エヴァンレットの剣を化け物の背中にもう一度突き刺した。

 だが、化け物はカディナを振り落とそうと暴れ回る。

 黒い犬がカディナを乗せた化け物の周囲を回って、激しく吠え立てた。


「しぶといね。さっさと分解してしまいなさいよ」


 カディナは化け物から飛び降り、その真正面に立った。

 そして化け物の攻撃を余裕でかわし、くるりと回転する。

 この前の、猫だらけになって二階の窓から転落した彼女とは、雲泥の差だった。


(カディナ。腕、治ったんだね……)


 七都は、かすむ目で戦う彼女を見つめる。

 きれいだ。動きに無駄がない。

 化け物の攻撃が止まった。

 カディナの手が真っ直ぐに伸ばされ、化け物の額にエヴァンレットの剣が突き立てられている。

 カディナはその状態のまま動かなかった。

 次の瞬間、化け物のシルエットがさらに膨張し、そのまま崩れ始める。

 化け物の暗黒の体が、数万匹の小さな黒い虫のように分解した。

 やがて黒い虫はさらに細かく分かれ、ざーという砂の音をたて、塵となる。塵は風に舞って消え去り、あとにはもう何も残らなかった。


 黒い犬が吼えるのをやめた。

 カディナは、石畳に横たわった七都に注意を向ける。


「あんた、だいじょうぶ?」


 黒い犬が尾を振りながら、七都のそばに走ってくる。

 耳元に吹きかけられる息があたたかい。頬に押し付けられる鼻は、ひんやりと冷たかった。

 犬は七都の口元を何度も舐める。

 それは猫のようにざらざらの舌ではなく、あまり馴染みのないつるりとした感触だった。

 犬は苦手なほうだ。けれども「元気を出して。だいじょうぶ?」と気遣ってもらっているような気がして、七都は嬉しかった。

 カディナは七都に近寄ったが、その足はぴたりと止まる。


「あんた……。この間の、ナナトとかいう魔神族の子……!」


 七都は倒れたまま、ぼんやりとカディナを見つめ返すことしか出来なかった。

 カディナは七都を見下ろした。そして眉を寄せ、七都の胸から目をそらせる。


「あー。ちょっと食われたね。ちょっとどころじゃないかな」


 食われた?

 何を?


「あいつがなかなか分解しなかったのは、あんたを食ってたせいか」


 カディナは黙ったまま、空と同じ紺色の目で七都をしばし見つめた。

 それから、おもむろにエヴァンレットの剣を七都の首筋に近づける。

 その透明な氷のような刃は、七都の顎の下で止まった。


(そうか。彼女は魔神狩人で、わたしは魔神なんだ)


 七都は目を細く開け、ワインレッドの透き通った目で空を見上げる。


(ここで彼女に殺されても、文句は言えない立場ってことなんだよね……)


「相変わらずエヴァンレットは光らないか……。おまけにヴァイスもあんたに好意的だし。信じられない態度だわ」


 カディナが呟くと、七都の隣に寄り添うように行儀よく座っている黒い犬が、彼女を見上げた。


「ここであんたを殺せば、すごい手柄になる。ユードが言ってた。あんたはたぶん、魔貴族か王族のお姫様だって。私は下級魔神族しか倒したことないものね。こんな好運に遭遇することなんて、もう二度とないかもしれない」


 七都は、目を閉じた。

 彼女のエヴァンレットの剣……。

 破壊できるだろうか。この状況で。でも、死にたくはない。

 カディナは、続けた。


「だけど、私があんたを殺したってわかった途端に、ユードも容赦なくあの魔法使い姉弟に殺される。彼はまだあの屋敷にいるんだから。あのセレウスって魔法使いに恨まれて、一生付け狙われるのもいやだしね。あの魔法使い、あんた命って感じだもんね。それに今のあんたは、どう見たって、傷ついて助けを求めている子猫にしか見えないもの」


 カディナは、あきらめたようにため息をつく。

 そして彼女は、エヴァンレットの剣を丁寧に鞘に収め、七都のそばに屈み込んだ。


「立てる? お姫さま」


 七都はカディナが差し出した手を握り、上半身を起こす。

 熱いくらいに、あたたかすぎる手だった。

 呼吸が再び出来なくなり、七都は顔を歪める。

 カディナは七都の肩を抱いて、背中をそっと撫でた。


「無理か。けれど、町まであんたを引きずって行くわけにも行かないし。ここに置いといてあの魔法使いを呼んできてもいいけど、その間にまた別の下級魔神族がやってこないとも限らない。人間に見つかって魔神族だってばれたら、やっぱり無事では済まないしね。血が出てないんだから、必ずばれるよね。……仕方ないな」


 カディナはくるりと方向を変え、七都の前にかがんで背を向けた。


「さ、ここにつかまって」


 カディナの華奢な背中に、七都は遠慮なく体を預ける。

 助かりたい。助からなければ。

 体は動かなかったが、その望みは強く湧き上がってくる。

 七都の両手を首に巻きつけると、カディナは力強く、すっくと立ち上がった。


「よかった。あんた軽いね。この分なら町まで背負って行けそうだ」

「カディナ。ありがとう……」


 七都はカディナの背中にもたれて目を閉じ、呟く。


「喋らないほうがいいよ」


 カディナはポケットから袋を取り出し、その中に石畳に落ちていた透明の黄色い石――自分が退治した下級魔神族のよだれをしまいこんだ。


「これは貴重な証拠だから、持って行かなきゃね。町に着いたら、門番に渡さなくちゃいけないの」


 そしてカディナは、石畳の上に横たわっている老人の遺体を眺めた。


「私がもっと早く来たら、あの人も助けられたのかな。でも、仕方ないよね。これもあの人の運命。寿命だったと思うことにしなければ」


 そうだね……。

 そう思わないと、たぶんこの世界ではやっていけないのかもしれない。

 七都は心の中で思った。

 だがあの老人の悲惨な死に様は、これから夢の中に何度も登場するだろう。

 あの血の色、血の量。打ち捨てられたように動かなかった彼の骸……。

 たぶん一生、七都の記憶の中に刻まれる。


 カディナは、七都の体をしっかりと背負う。


「首に噛みつかないでよ」

「噛みつかないよ……」


 そんなこと、絶対にしない。

 たとえ魔神族の食べ物が人間だとわかっても。

 人間の少女がおいしいご馳走だって言われても。

 そんな気になんて、毛頭なれない。


「でも、カディナのうなじはきれいだね」


 七都の素直な感想に、カディナは顔をこわばらせる。


「悪い冗談だよ。それに、うなじを褒められたって嬉しくないから」


 七都は、カディナの体温の高い白いうなじに頬を押し付けた。

 魔神族が人間に憎まれ、恐れられてきたのは当たり前だ。

 人間を襲って食料にしている、吸血鬼の一族なのだから。

 だから魔神狩人が存在するのだろう。

 彼らは、人間にとって恐ろしい怪物である魔神族を退治する。自分たちを守るために。

 ……ティエラがわたしにおびえるのも、セージを守ろうとしたのも、そういう理由なんだ。

 人間は、魔神族にとっては食料……。そういうことなんだ……。


<七都さんは、肝心なことがわかってないよ>


 ロビンが言いたかったのは、たぶんこのこと。

 でもわたしは、どこかでわかっていたのかもしれない。

 怖くて、恐ろしくて、そのことを考えないようにしていた。無意識に目を逸らし、耳を塞ぎ、知っていたのに、知らないふりを続けようと思っていた。そうなのかもしれない。


 カディナは、ゆっくりと遺跡の丘を下り始めた。

 『ヴァイス』という名前らしい黒い犬は、二人にぴったりと寄り添ってついてくる。

 やがて前方に、蝶がふわりと現れた。

 蝶はカディナを案内するかのように、ひらひらと飛び回る。

 それは魔の領域から飛んでくると言われる、あの透明な蝶だった。

 黒い犬は、蝶をうっとうしそうに眺める。


「うわ、蝶だ。私、蝶苦手なんだよね」


 カディナが、おもいっきり顔をしかめた。

 七都はカディナの背中で、目を閉じたまま、くすっと笑う。

 そうなんだ。

 わたしも蝶、嫌いだよ。元の世界では。

 一匹だけだった蝶は次第にその数を増やし、群れとなって二人の周りを飛び交った。

 七都の長い髪に、蝶たちがとまり始める。髪だけではなく、肩にも腕にも。手の甲にも。

 精巧な美しい装飾品のように、蝶たちは七都の体を飾った。


「まったく。なんだって私が、こんな蝶だらけの魔神族をしょって、町まで歩いて行かなきゃなんないのよ」


 カディナが呟いた。


「私は魔神狩人なのよ。今やってることって、絶対おかしい。怪我をした魔神族を無防備で背負ってるなんて。こんな危ないことなんてない。魔神狩人が決してやっちゃいけないことなのに」

「カディナ。あなたって、いい人だね……」


 七都は呟いた。


「黙っといてよ」


 カディナが言った。だが、七都は彼女に訊ねる。


「なんで魔神狩人なんてやってるの?」

「……生きるため」


 カディナが答えた。


「食べるため、服を買うため、あたたかいベッドで眠るためよ。あんたはお姫様だからわかんないかもしれないけど」

「違うよ。お姫様なんかじゃない。うちだってそんなにお金持ちじゃない。お父さんは家族を養うために、朝早くから夜遅くまで働いてるよ。わたしの学費だって家のローンだって、家計を圧迫してるもの……」

「なんかよくわかんないけど。あんたは別の世界では人間なんだってね。人間のままでいればいいのに」


 カディナが、自分にたかりそうになった蝶を追い払いながら、言う。


「わたしが人間だったら、たとえばカディナ、あなたと友達になれた?」

「それは不可能。だって、あんたが魔神族になってここに来てなければ、あんたとは会えていないもの」

「それもそうだね。じゃあ、もともと無理な話なんだね……」

「人間は、魔神族にとっては食料でしょ。ずっと昔からそうだ。だから私たちは、あんたたちを狩る。襲われて食べられたくないもんね」

「でも、人間と魔神族が愛し合うこともあるって聞いたよ……」

「めったにないことだけどね」


 空は真珠色を帯びてきている。山の向こうのあたりには淡い青が浮かび上がっていた。

 夜明けは近い。


「カディナ。もう腕は治ったの?」

「ゼフィーアが治してくれた。別に頼んだわけじゃないよ。朝起きたら治ってた。怪我をしたのはあの屋敷の猫を助けようとしたせいで、魔神狩人も魔神族も全然関係のないこと。そういう理由だからみたい。従ってゼフィーアは、ユードの怪我は治す気は全くないみたいね。もっともアヌヴィムに簡単に怪我を治されたりなんかしたら、ユードの自尊心はズタズタかも」

「その後、ユードは?」

「脅威の回復力を見せてる」

「そう……」


 カディナは、町へと続く道を七都を背負って歩いて行く。

 二人の正面には、レアチーズケーキをゆるやかな三角に並べたような町が広がっていた。

 町のてっぺんあたりの塔が輝いている。たくさんの白い宝石を埋め込んだかのように。

 間もなく新しい太陽の光が、朝の空気の中にはじけ始めるだろう。

 蝶たちは誰かに合図をされたみたいに、七都の体からいっせいに離れ、青い景色の中に消えて行く。


 カディナは、町の門の前で立ち止まった。門は、まだ閉まったままだ。

 カディナが足で門を蹴ると、門番が窓から顔をひょいと出す。


「やあ、魔神狩りのお嬢ちゃん。無事に帰ってきたのか」


 カディナは袋を取り出し、逆さにした。

 袋から、透明の黄色の石がぼとりと二つ、地面に落ちる。


「グリアモス、つまり下級魔神族のヨダレだ。ご依頼どおり仕留めたよ。報酬をちょうだい」

「そら」


 門番は、カディナに小さな布袋に入った硬貨らしきものを手渡した。


「しけてるね。これだけ?」

「下級魔神族一匹だろ? それくらいが相場だよ」

「仕方がないな。まあ、これで手を打とう。……遺跡に下級魔神族に襲われた男の人の遺体がある。旅人だと思う。間に合わなかった。あと、頼むよ」

「わかった……」


 門番は神妙な顔つきになる。


「ところでその女の子は?」


 門番がカディナに背負われて、ぐったりしている七都を見下ろす。


「下級魔神族にやられたの。ゼフィーアの屋敷に連れて行く」

「この間、ゼフィーアさんのお屋敷にいた子だろ。ティエラさんと一緒に歩いていたし、セレウスさんとも歩いていた」

「よく知ってるね」


 カディナは、じろりと門番を睨む。


「だてに門番やってないからな。それにきれいな女の子が現れれば、すぐに町の男たちの噂になるのさ」

「じゃあ、私の噂は?」

「そうだな。あんたは、もっとましな格好をして化粧でもすれば、噂になるかもな」


 カディナはおもしろくなさそうにふんと鼻を鳴らし、七都を背負って開かれたばかりの町の門を通った。

 暗黒のシルエットとなった黒い犬も、二人に続いて門を抜ける。

 町は静けさに包まれ、まだ眠りについていた。

 門の両側に灯された明かりも、未だ青黒い空気の中で煌々と輝いている。

 けれども、明るい朝の気配は、確実に夜の名残りの薄闇を追い払い、町を目覚めさせつつあった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=735023674&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ