第3章 グリアモス ―遺跡の黒猫― 2
「悪いね、グリアモスのお兄さん。お食事中に」
その人物が言う。
化け物の背中には、オレンジ色に輝く剣が突き刺さっていた。
怒りに燃えた化け物が、その人物に向かって手を振り上げる。
その人物は、化け物の背中に刺さった剣を素早く抜き取り、体を低くして化け物の手の攻撃から身をかわした。そして石畳を蹴り、宙に踊るように飛び上がる。
片手に高くかかげたオレンジ色に輝く剣。それはエヴァンレットの剣だった。
七都は石畳の上に力なく横たわったまま、その人物を眺めた。
ふわりとなびく栗色の髪。化け物を見据える紺色の目。まだあどけなさの残る少女の横顔。
あれは……。
(カディナ……!)
カディナは化け物の背中に飛び乗り、エヴァンレットの剣を化け物の背中にもう一度突き刺した。
だが、化け物はカディナを振り落とそうと暴れ回る。
黒い犬がカディナを乗せた化け物の周囲を回って、激しく吠え立てた。
「しぶといね。さっさと分解してしまいなさいよ」
カディナは化け物から飛び降り、その真正面に立った。
そして化け物の攻撃を余裕でかわし、くるりと回転する。
この前の、猫だらけになって二階の窓から転落した彼女とは、雲泥の差だった。
(カディナ。腕、治ったんだね……)
七都は、かすむ目で戦う彼女を見つめる。
きれいだ。動きに無駄がない。
化け物の攻撃が止まった。
カディナの手が真っ直ぐに伸ばされ、化け物の額にエヴァンレットの剣が突き立てられている。
カディナはその状態のまま動かなかった。
次の瞬間、化け物のシルエットがさらに膨張し、そのまま崩れ始める。
化け物の暗黒の体が、数万匹の小さな黒い虫のように分解した。
やがて黒い虫はさらに細かく分かれ、ざーという砂の音をたて、塵となる。塵は風に舞って消え去り、あとにはもう何も残らなかった。
黒い犬が吼えるのをやめた。
カディナは、石畳に横たわった七都に注意を向ける。
「あんた、だいじょうぶ?」
黒い犬が尾を振りながら、七都のそばに走ってくる。
耳元に吹きかけられる息があたたかい。頬に押し付けられる鼻は、ひんやりと冷たかった。
犬は七都の口元を何度も舐める。
それは猫のようにざらざらの舌ではなく、あまり馴染みのないつるりとした感触だった。
犬は苦手なほうだ。けれども「元気を出して。だいじょうぶ?」と気遣ってもらっているような気がして、七都は嬉しかった。
カディナは七都に近寄ったが、その足はぴたりと止まる。
「あんた……。この間の、ナナトとかいう魔神族の子……!」
七都は倒れたまま、ぼんやりとカディナを見つめ返すことしか出来なかった。
カディナは七都を見下ろした。そして眉を寄せ、七都の胸から目をそらせる。
「あー。ちょっと食われたね。ちょっとどころじゃないかな」
食われた?
何を?
「あいつがなかなか分解しなかったのは、あんたを食ってたせいか」
カディナは黙ったまま、空と同じ紺色の目で七都をしばし見つめた。
それから、おもむろにエヴァンレットの剣を七都の首筋に近づける。
その透明な氷のような刃は、七都の顎の下で止まった。
(そうか。彼女は魔神狩人で、わたしは魔神なんだ)
七都は目を細く開け、ワインレッドの透き通った目で空を見上げる。
(ここで彼女に殺されても、文句は言えない立場ってことなんだよね……)
「相変わらずエヴァンレットは光らないか……。おまけにヴァイスもあんたに好意的だし。信じられない態度だわ」
カディナが呟くと、七都の隣に寄り添うように行儀よく座っている黒い犬が、彼女を見上げた。
「ここであんたを殺せば、すごい手柄になる。ユードが言ってた。あんたはたぶん、魔貴族か王族のお姫様だって。私は下級魔神族しか倒したことないものね。こんな好運に遭遇することなんて、もう二度とないかもしれない」
七都は、目を閉じた。
彼女のエヴァンレットの剣……。
破壊できるだろうか。この状況で。でも、死にたくはない。
カディナは、続けた。
「だけど、私があんたを殺したってわかった途端に、ユードも容赦なくあの魔法使い姉弟に殺される。彼はまだあの屋敷にいるんだから。あのセレウスって魔法使いに恨まれて、一生付け狙われるのもいやだしね。あの魔法使い、あんた命って感じだもんね。それに今のあんたは、どう見たって、傷ついて助けを求めている子猫にしか見えないもの」
カディナは、あきらめたようにため息をつく。
そして彼女は、エヴァンレットの剣を丁寧に鞘に収め、七都のそばに屈み込んだ。
「立てる? お姫さま」
七都はカディナが差し出した手を握り、上半身を起こす。
熱いくらいに、あたたかすぎる手だった。
呼吸が再び出来なくなり、七都は顔を歪める。
カディナは七都の肩を抱いて、背中をそっと撫でた。
「無理か。けれど、町まであんたを引きずって行くわけにも行かないし。ここに置いといてあの魔法使いを呼んできてもいいけど、その間にまた別の下級魔神族がやってこないとも限らない。人間に見つかって魔神族だってばれたら、やっぱり無事では済まないしね。血が出てないんだから、必ずばれるよね。……仕方ないな」
カディナはくるりと方向を変え、七都の前にかがんで背を向けた。
「さ、ここにつかまって」
カディナの華奢な背中に、七都は遠慮なく体を預ける。
助かりたい。助からなければ。
体は動かなかったが、その望みは強く湧き上がってくる。
七都の両手を首に巻きつけると、カディナは力強く、すっくと立ち上がった。
「よかった。あんた軽いね。この分なら町まで背負って行けそうだ」
「カディナ。ありがとう……」
七都はカディナの背中にもたれて目を閉じ、呟く。
「喋らないほうがいいよ」
カディナはポケットから袋を取り出し、その中に石畳に落ちていた透明の黄色い石――自分が退治した下級魔神族のよだれをしまいこんだ。
「これは貴重な証拠だから、持って行かなきゃね。町に着いたら、門番に渡さなくちゃいけないの」
そしてカディナは、石畳の上に横たわっている老人の遺体を眺めた。
「私がもっと早く来たら、あの人も助けられたのかな。でも、仕方ないよね。これもあの人の運命。寿命だったと思うことにしなければ」
そうだね……。
そう思わないと、たぶんこの世界ではやっていけないのかもしれない。
七都は心の中で思った。
だがあの老人の悲惨な死に様は、これから夢の中に何度も登場するだろう。
あの血の色、血の量。打ち捨てられたように動かなかった彼の骸……。
たぶん一生、七都の記憶の中に刻まれる。
カディナは、七都の体をしっかりと背負う。
「首に噛みつかないでよ」
「噛みつかないよ……」
そんなこと、絶対にしない。
たとえ魔神族の食べ物が人間だとわかっても。
人間の少女がおいしいご馳走だって言われても。
そんな気になんて、毛頭なれない。
「でも、カディナのうなじはきれいだね」
七都の素直な感想に、カディナは顔をこわばらせる。
「悪い冗談だよ。それに、うなじを褒められたって嬉しくないから」
七都は、カディナの体温の高い白いうなじに頬を押し付けた。
魔神族が人間に憎まれ、恐れられてきたのは当たり前だ。
人間を襲って食料にしている、吸血鬼の一族なのだから。
だから魔神狩人が存在するのだろう。
彼らは、人間にとって恐ろしい怪物である魔神族を退治する。自分たちを守るために。
……ティエラがわたしにおびえるのも、セージを守ろうとしたのも、そういう理由なんだ。
人間は、魔神族にとっては食料……。そういうことなんだ……。
<七都さんは、肝心なことがわかってないよ>
ロビンが言いたかったのは、たぶんこのこと。
でもわたしは、どこかでわかっていたのかもしれない。
怖くて、恐ろしくて、そのことを考えないようにしていた。無意識に目を逸らし、耳を塞ぎ、知っていたのに、知らないふりを続けようと思っていた。そうなのかもしれない。
カディナは、ゆっくりと遺跡の丘を下り始めた。
『ヴァイス』という名前らしい黒い犬は、二人にぴったりと寄り添ってついてくる。
やがて前方に、蝶がふわりと現れた。
蝶はカディナを案内するかのように、ひらひらと飛び回る。
それは魔の領域から飛んでくると言われる、あの透明な蝶だった。
黒い犬は、蝶をうっとうしそうに眺める。
「うわ、蝶だ。私、蝶苦手なんだよね」
カディナが、おもいっきり顔をしかめた。
七都はカディナの背中で、目を閉じたまま、くすっと笑う。
そうなんだ。
わたしも蝶、嫌いだよ。元の世界では。
一匹だけだった蝶は次第にその数を増やし、群れとなって二人の周りを飛び交った。
七都の長い髪に、蝶たちがとまり始める。髪だけではなく、肩にも腕にも。手の甲にも。
精巧な美しい装飾品のように、蝶たちは七都の体を飾った。
「まったく。なんだって私が、こんな蝶だらけの魔神族をしょって、町まで歩いて行かなきゃなんないのよ」
カディナが呟いた。
「私は魔神狩人なのよ。今やってることって、絶対おかしい。怪我をした魔神族を無防備で背負ってるなんて。こんな危ないことなんてない。魔神狩人が決してやっちゃいけないことなのに」
「カディナ。あなたって、いい人だね……」
七都は呟いた。
「黙っといてよ」
カディナが言った。だが、七都は彼女に訊ねる。
「なんで魔神狩人なんてやってるの?」
「……生きるため」
カディナが答えた。
「食べるため、服を買うため、あたたかいベッドで眠るためよ。あんたはお姫様だからわかんないかもしれないけど」
「違うよ。お姫様なんかじゃない。うちだってそんなにお金持ちじゃない。お父さんは家族を養うために、朝早くから夜遅くまで働いてるよ。わたしの学費だって家のローンだって、家計を圧迫してるもの……」
「なんかよくわかんないけど。あんたは別の世界では人間なんだってね。人間のままでいればいいのに」
カディナが、自分にたかりそうになった蝶を追い払いながら、言う。
「わたしが人間だったら、たとえばカディナ、あなたと友達になれた?」
「それは不可能。だって、あんたが魔神族になってここに来てなければ、あんたとは会えていないもの」
「それもそうだね。じゃあ、もともと無理な話なんだね……」
「人間は、魔神族にとっては食料でしょ。ずっと昔からそうだ。だから私たちは、あんたたちを狩る。襲われて食べられたくないもんね」
「でも、人間と魔神族が愛し合うこともあるって聞いたよ……」
「めったにないことだけどね」
空は真珠色を帯びてきている。山の向こうのあたりには淡い青が浮かび上がっていた。
夜明けは近い。
「カディナ。もう腕は治ったの?」
「ゼフィーアが治してくれた。別に頼んだわけじゃないよ。朝起きたら治ってた。怪我をしたのはあの屋敷の猫を助けようとしたせいで、魔神狩人も魔神族も全然関係のないこと。そういう理由だからみたい。従ってゼフィーアは、ユードの怪我は治す気は全くないみたいね。もっともアヌヴィムに簡単に怪我を治されたりなんかしたら、ユードの自尊心はズタズタかも」
「その後、ユードは?」
「脅威の回復力を見せてる」
「そう……」
カディナは、町へと続く道を七都を背負って歩いて行く。
二人の正面には、レアチーズケーキをゆるやかな三角に並べたような町が広がっていた。
町のてっぺんあたりの塔が輝いている。たくさんの白い宝石を埋め込んだかのように。
間もなく新しい太陽の光が、朝の空気の中にはじけ始めるだろう。
蝶たちは誰かに合図をされたみたいに、七都の体からいっせいに離れ、青い景色の中に消えて行く。
カディナは、町の門の前で立ち止まった。門は、まだ閉まったままだ。
カディナが足で門を蹴ると、門番が窓から顔をひょいと出す。
「やあ、魔神狩りのお嬢ちゃん。無事に帰ってきたのか」
カディナは袋を取り出し、逆さにした。
袋から、透明の黄色の石がぼとりと二つ、地面に落ちる。
「グリアモス、つまり下級魔神族のヨダレだ。ご依頼どおり仕留めたよ。報酬をちょうだい」
「そら」
門番は、カディナに小さな布袋に入った硬貨らしきものを手渡した。
「しけてるね。これだけ?」
「下級魔神族一匹だろ? それくらいが相場だよ」
「仕方がないな。まあ、これで手を打とう。……遺跡に下級魔神族に襲われた男の人の遺体がある。旅人だと思う。間に合わなかった。あと、頼むよ」
「わかった……」
門番は神妙な顔つきになる。
「ところでその女の子は?」
門番がカディナに背負われて、ぐったりしている七都を見下ろす。
「下級魔神族にやられたの。ゼフィーアの屋敷に連れて行く」
「この間、ゼフィーアさんのお屋敷にいた子だろ。ティエラさんと一緒に歩いていたし、セレウスさんとも歩いていた」
「よく知ってるね」
カディナは、じろりと門番を睨む。
「だてに門番やってないからな。それにきれいな女の子が現れれば、すぐに町の男たちの噂になるのさ」
「じゃあ、私の噂は?」
「そうだな。あんたは、もっとましな格好をして化粧でもすれば、噂になるかもな」
カディナはおもしろくなさそうにふんと鼻を鳴らし、七都を背負って開かれたばかりの町の門を通った。
暗黒のシルエットとなった黒い犬も、二人に続いて門を抜ける。
町は静けさに包まれ、まだ眠りについていた。
門の両側に灯された明かりも、未だ青黒い空気の中で煌々と輝いている。
けれども、明るい朝の気配は、確実に夜の名残りの薄闇を追い払い、町を目覚めさせつつあった。