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第2章 再び、向こう側の世界へ 1

 次の日――。

 果林さんは料理教室に出かけ、七都はひとりで昼食を済ませた。

 メニューは、タンドリーチキンとほうれん草のカレー、グリーンサラダ、手作りのナン。

 デザートはヨーグルトで、冷やされたチャイも冷蔵庫に入っていた。


 昨夜は、眠れなかった。

 明日扉が開くかもしれないと思うと、目がますます冴えてきた。

 それから、もちろん、父と果林さんのことも。

 やるせない感情がぐるぐると頭に渦巻いて、目から滴になって、何度もこぼれそうになった。

 あの二人については、七都がどうこう出来る問題ではないのだ。だから、よけいにせつなくなるのかもしれない。

 父は、七都が朝起きたときには、既に会社に出かけていた。きのう帰ってきたのも、七都が寝てからだ。

 テーブルの上の、セレウスのガラスコップ。その中に生けてあるハーブが、独特のすっきりした香りを周囲に振りまいている。果林さんがミントの葉も追加したらしい。

 父は今朝もそれをかざして、しばらく眺めてから出て行ったのだろうか。

 そして果林さんは今朝も、その様子をやりきれない気持ちで見つめていたのだろうか。

 ナチグロ=ロビンは、きょうは朝からずっとリビングにいた。

 テレビは一切見ないでソファに座り、グルーミングに余念がない。

 もしかしたら、やっぱり、きょう繋がるのかもしれない。このリビングと、向こう側の魔王の神殿の遺跡。あのアイスグリーンのドアを一枚隔てて――。


 七都は自分の部屋から、用意しておいたTシャツとジーンズ、メーベルルのマントを持ってきた。そして、ナチグロ=ロビンの隣に腰を下ろす。


「ねえ。きょう、あのドアは、向こうに通じるの?」


 ナチグロ=ロビンに訊ねてみたが、当然彼は答えず、丁寧にグルーミングを続けていた。

 七都は、深くソファにもたれた。

 昨夜眠れなかったので、朝からなんとなく体がだるいし、頭もふわふわした感じになっている。

 食欲もあまりなかったが、昼食は無理やり口に押し込んで、一応全部平らげた。向こうに行けばエネルギーがたくさんいる。食べていないともたない。


 七都は、衣類を膝に乗せた。

 七都より1サイズ小さい服と2サイズ小さいスニーカー。新品だが色あせたようなブルージーンズと、紺色にひまわりのイラストが入った半そでのTシャツ、黒のスニーカー。そしてメーベルルのエンジ色のマント。

 こちらから持って行くのは、この衣類だけにする。

 前回は高校の制服で行ったから、必然的に生徒手帳も持って行ってしまった。

 結局、手帳にはさんであった付箋が役に立ったわけだが、役に立ったのは、相手がこちらの言葉がわかるナチグロ=ロビンだったからだ。

 あの手帳はなくしたら困るものだから、向こうへは持っていかないほうがいいだろう。

 普段だったら、出かけるときは、バッグにいろいろなものを入れて持って行く。

 だが、行く先は、こちらの環境とは全然違うのだ。もちろん、こちらのものを持っていったってかまわないけれど、携帯電話も鏡もハンカチも日焼け止めクリームも、全部向こうに行った途端、ガラクタになってしまいそうな気がする。

 こちらから持って行って、役に立つものもあるのかもしれないが、アイテムが多すぎてどういうふうに役立てるのか、考えるのも面倒だし、考える時間もない。

 それで、結局、服以外は何も持っていかないことにした。いるものがあったら、向こうで調達すればいい。

 セレウスは親切だから、きっと用意してくれるに違いないと、七都は楽観的に思ったりする。

 あの魔法使い姉弟に、今回も甘えてしまおう。どちらにしろ、カトゥースは用意してもらわなければならないことになる。

 それに、このジーンズとTシャツにメーベルルのマントは、全然合わない。マントはともかく、その中の服は、向こうの人たちに奇異な目で見られるのはわかりきっている。

 ゼフィーアのいらない服、もらえるだろうか。頼めばくれるかもしれない。あの屋敷の様子からすると裕福そうだし、たくさん衣装を持っているに違いないのだから。体つきも身長もだいたい同じくらいだから、彼女の服なら着られるだろう。

 ただゼフィーアは、ひらひらぴらぴらのドレスしか持ってなさそうな感じもしないではないが。


 リビングの時計は、午後一時少し前を指している。

 長針が六から十二までを指す間に、きっと扉は向こう側に開く。

 七都は、目を閉じる。 

 途端に眠気が、ふわっと上半身を包みこむ。

 七都は、夢を見た。


 

 銀色の淡い光が漂う空間。

 空間の上には、透明なドームの天井があった。その向こうには、レースのような装飾で縁取られた、ラベンダー色の空が広がっている。

 空間の真ん中には階段が伸びていて、その天辺に置かれているのは、美しい彫刻がされた背もたれの長い椅子。

 それは、いつものあの夢。だが、今回は前よりもクリアに見える。

 見えなかった細部も、よりはっきりとした形と色を現している。


 椅子に座っているのは、一人の少女だった。

 足元にまで届く長い髪は、緑色を帯びた黒髪。見開かれた目は、透明なワインの色。

 白いドレスに赤紫のマントをまとい、椅子に座っている。額には輝く金の冠。

 少女は、微動だにしない。人形のように、ただ座っている。

 少女の胸元、心臓のあたりに、何かが浮かんでいた。

 美しい細工がされた、金属の固まり。飾りではない。それは、剣の柄だった。

 少女の胸に剣が深く突き刺さり、その剣の柄が宙に浮いているように見えるのだ。


 七都は、叫んだ。自分でも驚くような金切り声だった。

 自分の叫び声で目が覚め、ソファから飛び起きる。

 ナチグロ=ロビンが毛を逆立てて、七都を見つめていた。


「ご、ごめん。びっくりしたんだね」


 七都は震える手を伸ばし、ナチグロ=ロビンを撫でる。

 彼は何事もなかったかのようにグルーミングに戻ったが、その尻尾は、いつもの三倍くらいに膨らんでいた。


「なに、今の夢……」


 七都は、頭を抱える。

 心臓が激しく鼓動していた。苦しくなるくらいに。頭は冷静なのに、胸の震えがおさまらない。


「あれは、誰?」


 緑がかった黒髪に、ワインレッドの目。

 それは、七都の向こうでの姿。そして、七都の母もおそらく同じに違いない、その姿だった。

 向こうでの自分の姿は、水鏡に映ったものしか見ていない。だがあの少女は、間違いなく水鏡の中の七都によく似ていた。

 あれは、わたし? お母さん? それとも、別の誰か?

 ぞっとするような恐怖が、七都の全身を押し包む。

 あの女の子――。胸に剣を刺されてた。

 わたしとそっくりな、あの少女……。

 もしかしてあれは、わたしの未来?

 七都は、自分の胸に手を当てる。

 そう。ちょうど、このあたりだった。怖いくらいにリアルだ。

 剣の質感が、まざまざと思い出せる。あまりにも現実めいている。

 でも――。

 わたしじゃなかったら……お母さん? お母さんは、今、あの状態ってこと?

 階段の上の椅子に座っていて、胸に剣を突き刺されている?

 あの少女は……死んでいるのだろうか。目を見開いて、動かなかった。

 剣を胸に突き立てられて、無事で済んでいるわけがない。

 そして、あの剣――。

 一つの疑問が、七都の中に湧き出てくる。

 もしかしてあれは、エヴァンレットの剣ではないのか?

 剣の柄と少女の胸の間に垣間見えた剣身が、オレンジ色に光っていたような気がする……。

 少ししか見えなかったが、確かにあれは……。


 七都は、時計を見上げた。

 長針は三を指している。午後一時十五分。

 緑のドアに変化はない。

 七都はドアを見つめ、両手を握りしめる。

 あのドアを開けて向こう側へ行けば、今の夢が近づいてくるような気がする。

 あれが現在を意味しているのか、それとも過去のことなのか、未来に起こることを示しているのかはわからない。単に、七都の不安を夢の中で具現化したものなのかもしれない。

 だが、恐怖を感じる。向こうに踏み出せば、どんな人と出会おうと、どんな状況を乗り越えようと、結局はあの夢の状況に向かって、まっしぐらにたどり着いてしまう。そんな、とてつもない不安。今までに感じたこともない不安が、七都を覆い尽くす。

 いつか――。自分の胸に、あのエヴァンレットの剣が突き立てられるのだとしたら?

 あの少女が、自分の死んでいる姿だとしたら?


「ロビン。何だかわたし、怖気づいちゃった」


 七都が言うと、ナチグロ=ロビンはグルーミングをやめて、金色の目で七都を見上げた。


「ね。向こうに行くの、やめようか」


 そうだ。別にこちらの世界を選んだっていいわけなんだから。

 わたしが向こうに行かなければ、お父さんと果林さんだって、これ以上ぎくしゃくしなくて済むかもしれないし。

 扉が向こう側と繋がっても、向こうにさえ行かなければ、何も起こらない。

 今までと同じように。今までと変わりなく、普通の高校生として過ごしていく。

 ナイジェルが向こうの世界を選んだように、わたしはこの世界を選ぶ。

 そのほうが、きっと全部うまくいく。


「そうだよ。夏休みだって、勉強はしなくちゃいけないんだもの。向こう側なんかに行ってる場合じゃない。二学期になったら、授業はますます難しくなるんだから」


 ナチグロ=ロビンが、はっとして顔を上げ、窓の向こうを注視した。

 耳も外を向いている。彫像のように彼は動かなかった。


「どうしたの?」


 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

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