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第7章 別れ、そして出発 3

 館の前の石畳の通りは、月の光で満ちていた。

 それは七都の目には、相変わらず昼間ほどの明るさに思える、たっぷりとした光の量だった。

 ゼフィーアは、目の前に立った七都を、緑色の宝石のような目で真っ直ぐに眺める。


「あなたを送り出すのはとても心配なのですが、仕方がありませんね。本当はあなたには忠告してさしあげたいことが、山ほどあるのですが」

「そんなにわたし、危なっかしい?」


 七都は、訊ねた。


「申し上げるまでもありません」


 ゼフィーアは、ふっと溜め息をつく。

 それから少し険しい表情をして、七都に言った。


「見知らぬ世界に投げ出されて、不安なのはわかります。でも、自信のない、弱々しくかわいらしい態度は、恋人の前だけになさいませ。もしあなたが上に立つ定めのお方なら、そのような態度は下のものたちを迷わせますし、甘く見られる要因にもなります。たとえ自信がなくとも、毅然として物事に臨んで、決断なさいますように」

「わかった。でも、やっぱり、そんなに自信なさげに見えるんだ?」

「見えますね。けれど今度この館に立ち寄られたとき、きっとあなたは、今よりもずっと、自信に満ち溢れた気高い魔神族の女性になっておられるはず」

「そうかな……」

「私は、ユードがあなたに言ったことは正しいと思います。今度この館に戻って来られたとき、ナナトさまは今のナナトさまではないはず。ご自分が何者なのかもわかっておられるでしょうし、風の都のことも知っておられる。もちろん、リュシフィンさまとのご関係も判明しているでしょう。そして、魔の領域に行かれるわけですから、あなたの中の魔神の血が目覚めて騒ぐのは避けられないことです。ユードがあなたに口づけをしたのは、他になんらかの感情が混じっているにせよ、おそらくは、変わっていくあなたへの別れの意味もあったのでしょう」

「わたしは……変わりたくない。だってそれ、今よりももっと魔神族らしくなってるってことなんでしょ?」


 七都は、呟いた。


「変わることは、悪いことではありませんよ。生きとし生けるものは、変化し続けるのです。人間も魔神族も。永遠に変わらないのは、心に刻まれた思い出……過ぎ去った日々や、通り過ぎて行った人々の記憶だけです。でも、ご自分を見失わなければ、だいじょうぶですよ。変わることなど怖くはありません。たとえどんなに変化しようとも、ナナトさまはナナトさまに違いないのです。私は、変わっていくナナトさまを見るのがとても楽しみですよ」


 ゼフィーアが微笑んだ。


「人間のエディシルを取らないとお決めになったのなら、それを貫き通されるのもよろしいかと存じます。そしていつか時が来たら、あなたの納得の行く形で、人間からエディシルをお取りになればよろしいでしょう」

「結局、そうするしかないってことなの?」

「いいえ。その時も、決めるのはナナトさまご自身ですから。納得出来ないことは、される必要はありません」

「そうだね……」


 七都はうつむき、すぐに顔を上げる。


「いろいろありがとう、ゼフィーア。あなたがここにいてくれて、本当によかった。あなたも、とてもいい人だったね」


 それから七都は、いきなりゼフィーアに両手を回して、抱きしめた。


「あ……」


 ゼフィーアが、目を見開く。


「あなたがわたしに言ってくれた沢山のこと、決して忘れない。あなたはちょっと怖いところがあるけど、でも、わたしは好きだよ。その、変な意味じゃなく……。人間としてね」


 七都は、彼女に言った。

 けれども、七都の腕の中で、彼女の体全体がこわばるのがわかる。

 思いがけないくらいの緊張と戸惑い。いつも冷静なゼフィーアからそういうものが伝わってくるのは、少し意外なことだった。


「ゼフィーア。やっぱりあなたでも、魔神族にこんなことをされるのは、抵抗があるんだ」


 やはり、アヌヴィムの魔女も人間。

 人間に対して、魔神である自分がこういうことをしてはいけなかったのかもしれない。

 七都は、後悔した。


「私が魔神族の方に抱擁されるのは、欲望を満たしていただくときだけです」


 ゼフィーアが七都に抱きしめられたまま、目を閉じて、静かに言った。


「欲望? 食欲。食事のとき?」

「他にも欲には種類はありますよ。ナナトさまには刺激が強すぎますね?」


 ゼフィーアは、くすっと笑う。


「うん。もうそれ以上言わなくていい」


 七都はゼフィーアを抱きしめるのをやめて、彼女の白い顔を遠慮がちに眺めた。


「でも……。アヌヴィムって、そういう役目も負わされているの?」

「そのアヌヴィムのご主人の意向によります。基本的には、人間は食欲を満たすもの。つまり食料ですから、そういうことをされる方は、ごく一部でしょう」

「わたしは食料だなんて思ってないし、これからも思わない」

「結構ですね」


 ゼフィーアは頷いた。


「わたしも、ナナトさまのこと、好きですよ。魔神族としての常識がないところも、変に真面目で几帳面なところも、素直な割には頑固なところも、いらつくほど自信なさげなところも、考え方が甘いところも、無謀なところも、行き当たりばったりのところも、困り果てている子猫のようなところも、全部好きです」

「なんか、随分な言い方されてるような気がするけど……」

「けれども、アヌヴィムには心を許してはなりません。特にアヌヴィムの魔法使いには」


 ゼフィーアが言った。


「え?」

「アヌヴィムは、自分の主人の意向には従わねばならぬのです。例えば、もしナナトさまと私の主人が敵対したなら、私はナナトさまと戦わねばなりません。ですから、どんなに親しくなろうとも、ご自分のアヌヴィム以外のアヌヴィムには、心をお許しになりませんように」

「あなたのご主人は、確か火の魔貴族だったよね?」

「はい。次回もその方のもとに参る所存です」

「その人とわたしが敵対するってこと、起り得るの?」

「決してないなどとは、誰にも言い切れませんから」

「……あなたとは、戦いたくないな」

「私も、ナナトさまとは戦いたくないですね」


 ゼフィーアは、微笑んだ。


「とにかくナナトさまは、信頼のおける側近をお作りになるべきです。アヌヴィムも含めて。あなたが風の姫君なら、そういうことも考えなければなりません」

「そうだね。本当にわたしが姫君ならね」


 七都は、呟いた。


「じゃあ、わたしは、行く。セレウスによろしく。二人とも、元気でね」

「はい。どうかご無事で。あ、ナナトさま。最後にもう一つ、言わせていただけますか?」

「どうぞ?」

「道を歩くときは、頭を上げて堂々と美しく、自信を持ってお歩きなさい。決してうつむいてはなりません」

「わかった。そうする」


 七都は笑って、こくんと頷く。


 そして七都は、朝、二人の魔神狩人が下りて行った坂道をたどった。

 振り返ると館の前でゼフィーアが、とても優雅な所作で、七都に向かって深々とお辞儀をしているのが見えた。

 七都は彼女に向かって手を上げ、それから再び歩き始めた。

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