第7章 別れ、そして出発 2
その深夜――。
日中は塗り重ねたような厚い灰色で覆われていた空も、雲が切れ、輝く月が顔を出した。
魔神狩人二人がいなくなった魔法使いの館は、月の光に照らされ、どことなく寂しげに静まり返っている。
明り取りのガラスも淡い乳白色に染まり、やわらかな銀の光を通していた。
七都はその下で部屋を片付けた。
ベッドを整え、テーブルと椅子をきちんと配置し直し、枯れたカトゥースは一箇所に集める。床には塵一つ落ちていないよう点検する。
それから七都は、ゼフィーアが用意してくれた旅の服に着替えた。
メーベルルのマントをその上からまとい、額にアヌヴィムの魔法使いであることを示す銀の輪をはめる。最後に、メーベルルの剣を腰に差した。
七都は、姿見の前に立つ。
「うん。結構、似合ってる」
七都は自分の姿を鏡に映して、満足げに頷いた。
子供の頃、父と一緒にやったゲームに、こういう格好のキャラクターが登場したような気がする。
ゲームはわたしよりもお父さんが夢中になってしまって、果林さんに怒られていたっけ。
七都は思い出し、くすっと笑った。
この館を今夜出て行くことにする。七都はそう決めた。
このままいつまでいたって、胸の傷は回復しない。
それに、ここにいればいるほど、魔法使いたちとの別れがつらくなりそうだ。
だったら、出発するのは早いほうがいい。
一応十分動けるし、傷の痛みも感じない。
夏休みだって残り少なくなってくる。有効に使わないといけない。
出来れば、夏休みが終わるまでに家に帰らなければ。
そのためには、ここで時間をたくさん使うわけにはいかない。
ゼフィーアとセレウスには悪いけれど、黙って出て行こうと思う。
きっと、わかってくれるよね。そうする理由。
カトゥースのお茶は、夜になる前にセレウスがポットにいっぱい入れて、テーブルに置いてくれていた。
あとで台所にそっと入って、前に用意してくれたような携帯できる容器を探してみよう。で、それに入れ替えて持っていこう。
けれど、そのカトゥースを飲んでしまったら、やっぱり蝶を食べるしかないかな。
七都は、鏡の中の顔をしかめてみる。
たぶん、あの蝶には不自由しない。
カトゥースはそのへんには咲いていないけど、蝶は夜になると飛んできて、わたしに止まってくれるんだし。
我慢して食べようか。人間のエディシルを食べるよりは、まだましだもの。
七都は、溜め息をついた。
それからしばらく鏡を眺め、おもむろに長い髪をつまんでみる。
「いっそ男の子みたいに、髪を短く切っちゃおうかな。きっと邪魔だよね」
そのとき、誰かが部屋のドアをたたいた。
七都は、飛び上がる。
ゼフィーアが、幽霊のように静かに入ってきた。
「その美しい髪を切るなんて、お願いですから、やめてくださいませ」
ゼフィーアが、憮然として言った。
「あ……。ゼフィーア……」
「そういう格好をした髪が長いアヌヴィムの少女も、魔神狩人の少女も、結構いますよ。カディナも、中途半端に髪が長かったでしょう」
「そ、そうだね……。じゃ、切るの、やめようかな」
「そうしてくださいましね」
ゼフィーアは、テーブルに、陶器の入れ物を置いた。紐がついていて、肩からかけられるようになっている携帯用の容器。
前に七都が出発するときに、カトゥースを入れてくれた容器と同じものだった。
「この中身は……カトゥースのお茶?」
「これから出て行かれるのでしょう。どうぞ、お持ちください」
ゼフィーアが微笑む。
「ありがとう。ゼフィーア、わかってたの?」
「なんとなく、今夜あたりに出発されるのではないかという気はしていました」
そういうのも、魔法?
七都は、横目でゼフィーアを見る。
ゼフィーアは七都の後ろに回り、七都の髪を手櫛で梳いた後、あっという間にざっくりとした三つ編みにしてしまった。
「塀を飛び越えて行くおつもりだったんでしょうけど。ちゃんと屋敷の前で見送らせてくださいね」
ゼフィーアが言う。
「うん……。あ、でも、セレウスに気づかれないように出たいんだけど」
セレウスに会ってしまったら、やっかいだ。七都は思った。
なんだかんだ理屈をつけられて、押し切られてしまうかもしれない。
セレウスも、時々こわいところあるし。
「だいじょうぶです。弟は眠っていますから」
「起きてこない?」
「薬で眠らせています」
ゼフィーアが言った。
「薬?」
「彼の飲み物に薬を入れました」
「え……」
七都は、あんぐりと口を開ける。
入れましたって……。
ゼフィーア、さらっととんでもないことを言う。
弟の飲み物に、黙って平然と薬を入れちゃうんだ。
やっぱりゼフィーア、セレウスよりも数段こわいかも……。
「あら、いやですわ。ナナトさまのカトゥースには何も入れてませんよ。これにも、むろん今までの分にも」
ゼフィーアが、くすくすと笑う。
入れられてたら、たまったもんじゃない。
七都は、半ばあきれてゼフィーアを見つめた。
「じゃあ、セレウスが眠っているうちにお別れを言いたいんだけど。いい?」
「もちろんです。どうぞ」
七都はゼフィーアに案内され、回廊を通って、セレウスの部屋に入った。
黒を基調にした、落ち着いた感じの趣味のいい調度品が並んでいる。
すっきりと片付いた部屋は、シンプルすぎるくらいだった。
白いゆったりとした服を着たセレウスは、椅子にもたれかかるようにして眠っていた。
その何げないポーズも、様になっている。
七都は、セレウスの肩に手を乗せた。
あたたかい。服を通して彼の体温が伝わってくる。
「セレウス。わたし、行きます。ごめんなさい。あなたを連れては行けません」
七都は、彼の整った横顔に話しかける。
目は固く閉じられていた。
最後に彼の緑色の目を見られないのが、少し残念だった。
「あなたの気持ちはとても嬉しいし、あなたがいてくれたら、心強いとは思うよ。だけど、わたしにとって、あなたにいてもらう理由って何だろうって考えた場合ね。いてくれると都合がいいからとか、便利だからとか、そういう理由しかないの。そういうのって、よくないと思う。たとえばわたしが、あなたのことが大好きだからそばにいてほしいって、だから一緒に来てって言えたのなら、まだよかったのかもしれない。だけど……だけど、そうじゃないもの」
ゼフィーアは黙ってドアのそばに立ち、七都とセレウスを見つめていた。
「それにやっぱり、あなたを危険な目には遭わせられないよ。あなたを襲いたくないしね。他の魔神族にあなたを襲わせたくもない。あなたはこの町に、この館にいて。わたしは風の城にしばらく滞在したら、あとはあの緑の扉を通って、また家に帰る。その前に、必ずここに寄るから。またあなたに会いにくるよ」
七都は、セレウスの顎に手を置いた。それから彼に自分の顔を近づけ、彼の頬に唇を軽く押し付ける。
一瞬、ゼフィーアが顔をこわばらせた。
だが彼女は、七都がキスをしたのがセレウスの頬であることを確認すると、安心したようだった。
「じゃあ、またね」
七都は、立ち上がった。
ゼフィーアはドアを開け、七都を通し、それからドアを後ろ手に閉めた。
「では、行かれますか?」
「うん」
七都は、大きく頷いた。




