第1章 開かない扉 3
央人は、通路のはるか奥まで七都を案内した。
仕切られたパーテーションで作られたその通路の突き当たりには、建物の外枠とガラスの壁がすぐそばにあった。
そこは小さなテラスのようなスペースになっていて、感じのいいテーブルと椅子がいくつか置かれている。
「いつもは、OLさんたちがここでお昼を食べてるんだけどね。きょうは外食の日とかでみんな出て行ったから、使い放題だ」
央人は紙袋をテーブルの上に置き、果林さんが作った二つのお弁当を取り出す。
七都は、椅子に座った。
後ろを振り向くと、ガラスの向こうとはいえ、すぐ足元まで真下の景色が迫っていた。
「お父さんと話がしたかったの。向こうの世界に行く前に」
七都は、父に言った。
「そうか。それでわざわざ来てくれたのか」
央人は、既におかずを頬張っていた。牛肉の竜田揚げだ。
テーブルは果林さんの作った料理で、お花畑のようになっている。
「いつもながら、色取りも栄養のバランスも完璧だ」
「センスあるよね、果林さん。どうやったら料理がいちばんおいしそうできれいに見えるかってこと、とてもわかってる」
「今度は、学校に行く計画を立ててるみたいだな」
「知ってたの、お父さん」
「学校のパンフレットの上にナチグロが寝ていた。無理やり取ろうとしたら睨まれたから、パンフレットの詳細は覗けなかったが、何のパンフレットかはわかった。それにしても、この弁当、冷えてるな。電車のエアコンがききすぎてたのかな」
七都は、鶏のからあげを口に入れる。確かに冷たかった。
さっきのエレベーター内の温度は、やっぱり本当に下がったのかもしれない。
お手やわらかにと、あの人は言った。
すると、温度を下げたのは七都自身なのか?
「お茶はあったかいぞ。飲むか?」
央人は、紙袋から保温機能付きの水筒を取り出した。
エアコンのきいた空気の中に、熱いお茶の湯気がふわふわと上がる。
真夏に冷たいお茶ではなく熱いお茶を用意して、さりげなく入れておく果林さんは、さすがだと七都は思う。
「お父さんは、向こうの世界に行ったことあるの?」
七都は、お茶を一口飲んで訊ねた。
お茶のあたたかさにほっとする。
「ないよ。残念ながら」
央人が言った。
「……ないの?」
七都は、少し拍子抜けする。
なんだ。そうなんだ。
「悪かったな。ないとも。正直なところ、もちろん行ってみたいというのはあったよ。美羽がドアを開けるたびに見えるんだからね、向こうの景色が」
「でも、行かなかったの」
「こっちの人間を向こうに連れて行くのは、掟破りみたいだ。それこそ、見張り人たちに検挙されるんじゃないかな」
「掟破り。ルール違反ってことね」
「そうとも言う」
七都に言い直された央人は、咳払いをする。
「彼らは、その気になればこちら側の世界を支配したり、征服したりも出来るだろうに、しようとはしない。それほどの科学力も超能力も持っているに違いないのに。きっちりそういうルールを作って、見張り人も置いたりして、自分たちの行動を抑制し、分をわきまえている。基本的にいい人たちなんだろうな」
いい人か。
そういえば、ナイジェルもいい人だったな。メーベルルも。
突然、懐かしさがこみあげる。
だが父は、その『いい人たち』が向こうでは『魔神』などと呼ばれて魔物扱いされ、人間から恐れられ且つ嫌われていることを知っているのだろうか。
「お母さんから、向こうの話は聞いた?」
七都は、再び訊ねてみる。
「だいたいね」
央人は、答える。
そのだいたいとは、どれくらいのだいたいなのだろう?
「お母さんは、向こうのどこにいるの? 風の城ってところにいるの?」
「それは知らない」
「なんで向こうに行っちゃったの?」
「それも知らない。でも、『呼ばれた』って言った」
「呼ばれた? 誰に?」
「不明」と、央人。
「わたし、向こうに行ったら、お母さんに会えると思う?」
「思うよ。いつか、きっと。同じ世界にいて会えないわけがない」
「もし、お母さんに会ったら。お父さんが再婚したってこと、言ってもいいの?」
七都は、父の顔を見つめた。
央人は黙り込み、お茶を飲む。
その表情からは、何も読み取ることは出来ない。
「再婚しろって言ったのは、美羽だ」
央人が言った。
「私一人で七都を育てるのは無理だから、誰かいい人がいたら、迷わず結婚してほしいと。そう言った」
「でも、それ、お母さん、本心から言ったのかな」
「不明」と、央人が呟く。
「わたしだったら、いやだと思う。だって死ぬわけじゃないんだから。お母さんは生きてて、わたしたちのことをずっと思ってる。向こうの世界のどこかで。誰か新しい人が入ってきて、わたしたちと生活してるって想像して、とても悲しい思いをしてるかも」
「そうかもしれない」
央人は、じっと天井を見上げた。
もちろん、天井そのものを眺めているわけではなく、何か七都にはわからない別のやりきれないものが、彼には見えているのかもしれなかった。
「ごめんなさい。お父さんを責めるつもりはなかったんだけど」
そうだ。果林さんに育ててもらった自分に、そんなことを言う資格なんかないのだ。
七都は、悲しくなる。
「いいよ。美羽の代わりに、きみが彼女の言いたいことを言ったのかもしれないし」
「もし……。もしもだけど。お母さんに会ったとき、もしお母さんが家に帰って来たいって言ったら?」
「ありえない」
央人が答えた。どこか熱に浮かされたように。
「美羽は、帰ってはこない。彼女がそう言った。そう言って泣いていた。だから、きっとそうなんだろう」
魔神族は、泣かない。
ナイジェルの言葉がよみがえる。
なのに、母は泣いた。それがどれほどの意味を持つのか、想像もつかない。
「でも、何か状況が変わって、帰って来られることになったら?」
「そうなったら? 答えを言うと、私はもうこの料理を食べられなくなる」
央人は、果林さんが作ったお弁当を静かに眺めた。
七都は、両手を握りしめる。
せつなかった。
ぐっと力をこめて頑張らないと、たぶん意識もしないうちに、目の際あたりに熱い液体が湧き上がりそうだった。
父は、やはり母のことが忘れられないのだ。
果林さんと結婚して随分たった今でも。
果林さん……。
果林さんは、もちろん、そのことを知っている。
「私が心から愛し、そばにいてほしいと思っているのは、美羽だけだ」
央人が言った。
いいよ、お父さん。もう、改めて言わなくても。
わかってるよ。果林さんも、わたしも。
七都は口に出して言いたかったが、言葉を飲み込む。
「果林には、結婚する前に何度も言った。でも、彼女はそれでもいいと。言い訳になるかな。だけど、私たちには彼女が必要だったし、これからも必要だ。そうじゃないかい?」
果林さんがいなかったら、確実に、とても困った。
今のような精神的に豊かな生活なんて、出来てはいないに違いない。
父は育児ノイローゼになったかもしれないし、七都は施設に行かなければならなかったかもしれない。あるいは、親戚に預けられたかもしれないのだ。
そして、これからも果林さんがいなかったら、とても困る。二人とも、間違いなく途方に暮れてしまうだろう。
でも、それ、果林さんを都合よく利用してるってことじゃないの?
お父さんも、そして、わたしも。
「彼女もわたしたちを必要だと思ってくれているなら、このまま彼女との生活を続けて行く。今までと変わりなく。これからもずっと。それだけだ」
「お母さんは帰ってこないっていう前提で?」
「美羽は、帰ってこない。ただ……」
「ただ?」
「私の臨終のときには帰ってくる。そういう約束をした」
央人は、うつむき加減で下を眺める。
今度はおそらく床を突き抜けて、父はその彼方に何かを見ているのだろう。
彼の目にも、眼鏡のレンズにも、当然何も映ってはいなかった。
「臨終って……。死ぬ間際? お父さんが死ぬ間際に、お母さんは向こうの世界から帰ってくるってこと?」
「どういう帰り方かは、わからないけどね。彼女の姿は、私だけにしか見えないかもしれない。私の頭の中だけの幻となって、帰ってくるのかもしれない。どんな形にしろ、彼女とは会えることになっている。人生の終わりに」
「それまでは会えないの?」
「たぶん。だが、会えるということが確実にわかっているから、私は寂しくはないし、前向きに生きていける」
「前向き? そんなの、わたしには、ネガティブにしか思えない。死ぬ間際にしか会えない人のことを思いながら生きていくなんて」
「きみはまだ若いから、わからないかもしれないけどね。人はみんな死ぬんだよ。それは避けられないことなんだ」
「そんな、悲しくてやりきれないこと言わないでよ」
「悲しくてもやりきれなくても、事実だ。この世界に生きとし生けるもの、誰もその運命から逃れられない。それなら死ぬときに、誰かに『いい一生でしたか?』って訊かれて、『いいえ』とか『後悔だらけです』なんて答えたくはない。胸を張って清らかな心で、『いい一生でしたよ』って答えられたら最高だ。だから私は、最後に美羽が来てくれたとき、彼女に笑って『いい一生だったよ』って言えるように、頑張って日々を生きていく。ポジティブ以外の何ものでもないだろ」
「お父さんが死ぬなんて、想像もしたくない」
「いいよ、想像しなくて。まだ当分、少なくとも、あと五十年か六十年は、しぶとく生きて死なないから」
央人はそう言って、青のり入りの卵焼きを口に押し込んだ。
「でも、そのこと、果林さんには言わないほうがいいよ」
七都は、父に言う。
「たとえば、お父さんが不治の病とかになって、果林さんが一生懸命看病したのに、結局最後は果林さんじゃなく、お母さんがやってきて、お父さんの臨終を看取るってことでしょ。お父さんが最後に呼ぶのはお母さんの名前で、決して果林さんじゃない」
「そうだな」
央人は、呟く。
父が否定しないことが悲しい。
「お母さんが帰ってくるのは楽しみ? そのときは、お父さんの人生の最後なのに」
「ああ、とても楽しみだ。そのときのことを想像すると、何もこわくはない。彼女は私を抱きしめるだろう。そして私は彼女の腕の中で、穏やかに安らかに、生を終える」
央人は、夢見るように言った。
父と母が交わした約束は、それほどまでの力があるのだ。
それは、父の人生の糧。日々の生活のエネルギーの源にさえなっている。
誰にも壊せない、固い固い約束。
奇妙で、不思議で、二人にしかわからない決め事。
だけど、死ぬ前にやってきて、抱きしめるなんて。
なんか外国の伝説の中に、そんな精霊だか妖精だかが出てくる話ってなかったっけ。
やっぱり、つまりお母さんは人間じゃないんだよね。魔神なわけなんだ。
「果林さんは、お父さんにとって、何?」
七都が質問すると、央人は夢から醒めたような表情をする。
それも、ちょっと残酷な質問だっただろうか。
聞いてはいけない問いだったのだろうか。
でも……。
はっきり聞いておかないと、もし向こうでお母さんに会ったとき、わたしが困る。
お母さんを慰めたり、あきらめさせたりするのは、わたしの役目にならないとも限らないんだもの。
七都は、父の答えを待った。
「今の『妻』だよ。戸籍でもそうなってる」」
央人が答えた。
「そういうことじゃなくて……」
「果林は、果林。それ以外のなにものでもない」
「じゃあ、お母さんは?」
「美羽は、美羽」
「前の『妻』?」
「……」
央人は、黙り込む。
「もういいよ。よくわかった」
七都は、食べ終わったお弁当の蓋を閉める。
果林さんがいないところで、果林さんの作ったお弁当を食べながら、こういう話をしているわたしたちって、すごく残酷だ。
地獄に堕ちちゃうよ。お父さんもわたしも。あんないい人を裏切るようなことをして。
七都は、溜め息をつく。
もし。もしも――。
母が戻ってきたいと言ったら、果林さんは出て行かざるを得ないだろう。
いや、そうなる前に、果林さんは状況を敏感に捉えて、自分から出て行ってしまうかもしれない。
「向こうでお母さんに会ったら、何て伝えればいい?」
七都は、父に訊いた。
「……何も。ただ、元気でやってると。それだけでいいよ」
央人が答える。
七都は、頷く。
うん、たぶんわたしも、それしか言えないと思うよ。
「もしきみが向こうに行かないことを選ぶなら、何も起こらないかもしれない。こっちで、普通に高校生として暮らしていけばね」
央人が、ついさっき果林さんが呟いたのと似たようなことを言った。
「こちらの世界にずっといれば、果林だけを母親として、平和に穏やかに暮らして行くことが出来るかもしれない」
「そうしたほうがいい?」
「そうできるかい?」
央人は少し笑って、七都を見つめた。
「それは、たぶん無理だね。半分向こうの世界の人間であるきみは、向こうに行かなくてはならない運命だと思うよ。たとえ自分で望まなくても、向こうの世界のほうから、きみにかかわってくる。見張り人の存在もそうだし、きみがいつまでも無視していたら、向こうからお迎えが来ないとも限らない」
「お迎え?」
「リビングのドアを開けて入ってきたのは、美羽とナチグロだけじゃないしね」
央人は天井を見上げて、睨んだ。
「それは……見張り人さん?」
「見張り人グループは、別の彼ら専用のルートを使う」
「じゃあ、誰?」
「……かなりの美青年だった」
「向こうの人は、たいがい、かなりの美少年で、かなりの美少女で、かなりの美女で、かなりの美青年なんだよ」
「それは、うらやましい」
央人は、にやっと笑う。
「そのうち会えるよ。きっときみの前に現れる。だからね。きみにはつらくて、苦しいことになるかもしれないけど、しっかり向こうの世界を見ておいで。しかしまあ、果林の真似をすれば、『なんてシュールな会話』なんだろうね。ここは会社で、ファンタジーもメルヘンもオカルトも、そんなもののかけらさえない、おもいっきり現実真っ只中の殺風景な世界なんだけどね」
央人は空になった弁当箱を包み、紙袋の中に戻した。七都の分と水筒も手際よく入れてしまう。
昼休みも終わり近くになり、人々が会社に戻り始めていた。
食事を済ませた社員たちが、リラックスした満足げな様子で連れ立って帰ってくる。
奥のテラス空間にいる央人と七都を、ちらちらとパーテーションの影から垣間見る社員たちも出現した。
「でも、たぶん、美羽と初めて会ったときから、私の人生は『シュール』、つまり、非現実的、非日常的、超現実的なものになったんだと思うよ。だから、そういうものは全部受け止める」
央人が言った。
「今度、お父さんが家に帰ってきたとき、わたしは、超現実的に向こうに行ってしまっているかもしれない」
「うん。そうだね。気をつけて行っておいで」
七都は、央人が差し出した手を握った。
ナイジェルよりも、はるかにあたたかい手。
そして、ユードやセレウスの手とは、やはり温度も感覚もどこか違うその手は、心地よかった。
社員たちの、たくさんの視線を感じる。
仲のいい父娘と思われているのだろうか。
ふつう、こういう場面で握手はしないよね。
お昼を一緒に食べただけなんだもの。
七都は、苦笑する。
けれども、それから父に言う。真剣な顔に切り替えて。
「行ってきます」
七都は央人と別れ、エレベーターに乗った。
エレベーターには、今度は誰も乗り込んで来ることはなく、七都は何の支障もなく一階に降り、無事にそのガラスのビルを出たのだった。