第6章 魔神狩人のキス 3
これは――。
シルヴェリスでもリュシフィンでもない、おそらく他の魔王が付けたキスのあと。
幾分ぼやけた輪郭のそれは、七都の額にあるリュシフィンの印と同じくらいに、古いものだった。
では、これが付けられたのは、彼が子供の頃……?
「ユード。あなたは、何者なの?」
七都は、呟いた。
だが、その一瞬をユードは逃さなかった。
七都が気づいたときには、ユードは七都の上にいた。
七都の体の下には地面があり、手からはメーベルルの剣が消えている。
ユードの体の重みが、七都を中庭に固定していた。
七都の背中からいきなり落とされた銀猫は、ユードに向かってシャーッという唸り声をあげ、毛を逆立てた。
「戦っている最中に考え事をするなど、もってのほかだ」
ユードは言って、構えた剣を七都の胸に、すうっと垂直に下ろす。
「あ……っ!!」
そこは、七都が夢で見たあの玉座の少女が、エヴァンレットの剣を突き刺されていた、その位置だった。
七都はそのことを思い出し、気が遠くなる。
「そこまでだ、魔神狩人。剣を置け!」
ユードの背後にセレウスがいて、握りしめた剣の冷たい刃を、ユードの首筋にぴたりと当てていた。
ユードがおとなしく剣を地面に放り投げると、セレウスはユードの喉に剣をそえたまま彼を促し、七都から彼を引き離す。
「ナナトさま?」
セレウスは、人形のように目を見開いて横たわる七都を覗き込んだ。
「だいじょうぶ。疲れただけ……」
七都は、胸の上に手を乗せた。
グリアモスに付けられた傷以外、新しい傷は増えてはいない。ドレスにも穴などなく、そのままだった。
ユードは、七都の胸に達する直前で、剣を止めたらしい。
七都は、安堵する。
ユードが持っていたのは、エヴァンレットの剣じゃないのに。夢を意識しすぎだ。
七都はセレウスの腕をつかんで、起き上がった。
「ユード。もう気が済んだでしょ。行こう」
カディナが言った。
それから彼女は、ゼフィーアのほうを向く。
「私の剣、返してくれる?」
「館を出たところで、お返ししましょう」
ゼフィーアは、微笑んだ。
「この館の中で、魔神狩人であるあなたに、エヴァンレットの剣を持っていただくわけには参りません。危なくて仕方がありませんから」
「ふん。だから、持ったからと言って、何もしないよ」
「きっとあなたは、そうなのでしょうけれどね。魔神族の方に対する、私たちの礼儀です。ナナトさまには、ここでは、ごゆるりと過ごしていただかねばなりませぬゆえ」
ゼフィーアは、相変わらず、見る者のすべてがうっとりするくらいの愛くるしい微笑みを浮かべながら、言った。
七都は、ユードの前に立つ。
彼は、灰色の目を七都に注いだ。
戦っていたときの鋭さは消えていた。けれども、表情は読み取れない。
「行くの、今から?」
「お別れというわけだ、魔神の姫君」
ユードが言った。
「でも、またどこかで、きっと会っちゃうんだろうけどね。わたしがこの世界にいる限り」
「そういうことになる」
「やっぱり、あなたも、それからカディナも、とてもいい人たちだと思うよ。二人とも、結局わたしに何もしなかったね」
「それは、おそらく、あんたに人間の部分を感じるからだ」
ユードが、静かに言った。
「そうなの?」
「あんたは、魔神族の常識からは、かけ離れているからな」
「まあ、つい最近まで人間だったからね。元の世界に戻れば、やっぱり人間だしね」
七都は、呟いた。
「だが、次に会ったときは……。あんたは、風の魔王リュシフィンの妃か。もしかすると、水の魔王シルヴェリスの妃かもしれないかな」
七都は、ユードをじろっと睨む。
「わたしの進路を勝手に決めないでくれる?」
「どっちにしろ、その時のあんたは、今のあんたじゃない。おそらく人間のエディシルの味を知っているだろう。空腹になれば、食事は何の迷いもなく出来るようになっているだろうし、魔力も、もっと使えるようになっている。剣も、今よりはましに使えるかもしれんな」
「わたしはわたし。変わらない。魔力や剣が上達したとしても、人間のエディシルは、食べない」
「そうか?」
ユードが、いきなり七都に歩み寄った。
カディナが「あっ!」と口に手を当て、セレウスとゼフィーアが硬直する。
ユードは七都を抱きしめ、七都の唇に自分の唇を重ねた。
「気でも狂ったか、魔神狩人!!」
セレウスが、剣を引き抜いて叫ぶ。
ゼフィーアが、セレウスを手で制した。
ユードの温かい唇。
その向こうには、この上もなく甘美なエディシルが渦巻いていた。
セージのものよりも力強く、量もはるかに豊富。
それは超人的なスピードで、ユードの体の傷を回復させようとしている。
唇を少しでも開けば、おそらくそれは七都の体の中に勢いよく入って来る。そして、七都の傷も回復させるだろう。
七都の目の奥に、暗黒が現れる。
それは次第に膨れ上がった。




