第5章 宙行く機械の船 3
闇の魔王の船が去ってしまうと、町の人々は待ちかねたように、ぞろぞろと通りに姿を現し始めた。
船のことなどなかったかのように、穏やかな雰囲気で談笑し、思い思いの場所に出かけて行く。
時間は、まだ宵の口。これから食事を取る人も多いかもしれない。娯楽に興じる人々もいるだろう。
町は、いつもの賑やかさを取り戻したようだった。
とはいえ、屋根に上った七都にとっては、それはもちろん、都合の悪いことだった。
船を追ってきたときのように、もう屋根の上を優雅に飛んだりは出来ない。たちまち見つかって、正体がばれてしまう。
七都は、猫のように屋根の上に座ったまま、町の通りを見下ろした。
取りあえず下に降りて、歩いて帰るしかなさそうだ。
(ゼフィーアとセレウスの館ってどこだっけ。同じレアチーズケーキ色の建物ばかりだから、探すのに苦労するかもしれないかな。でも、猫がいっぱいいるから、わかるよね)
七都は、楽観的に考えることにする。
(ああ、でも、ちょっと疲れた。船を追いかけて、いっぱい飛んだから……)
七都は体育座りをして、膝に頭をもたれさせる。
館に帰ったら、またカトゥースの花をたくさん食べなくてはいけない。
カトゥースの熱いお茶も、もらわなくては。
髪が、ゆらゆらと風になびく。
いい気持ちだ。遮るものが何もない、青く染まる果てしない空間。
こうやってずっと、月の光を浴びながら、ここにいたい。
月の光なら、おもいっきり浴びられる。少しだけ、元気になれるような気がする……。
七都は、目を閉じる。
「そんなところにおられたら、非常にまずいですよ」
下からセレウスの声が聞こえた。
七都は、ゆっくりと目を開ける。
「そういうところに上る女性は、魔神族か魔女くらいです」
馬に乗ったセレウスが、七都の真下にいた。
声はすぐ近くで聞こえたような気がしたが、結構遠いところに彼はいる。何かそういう魔法を使っているのかもしれない。
「あまりにお帰りが遅いので、闇の魔王さまに連れて行かれたのかと心配しました」
「迎えに来てくれたの? ありがとう。実は、ちょっと困ってたんだ」
七都は微笑んで、立ち上がる。
セレウスは、ダークグリーンのマントを羽織り、白い馬に跨っていた。額には、V字形の銀色の輪。腰には剣。
彼にとってはごく当たり前そうな、さりげなさを感じさせる出で立ちだったが、堂々とした風格もあった。
やっぱり、なんだかんだ言っても、セレウスはきれいだし、かっこいいかもしれない。
七都は、改めて彼をまじまじと眺める。
「似合うね、セレウス。白い馬が、とても。髪が赤いせいかな。白馬に乗った王子様だ」
「何ですか、それは。私は王子ではありませんよ」
セレウスが、眉を寄せる。
「じゃあ、白馬に乗った魔法使いね。白馬に乗った王子様っていうのはね、わたしがいた世界での、女の子みんなのあこがれの象徴みたいなものだよ。女の子はみんな、白馬に乗った王子様を心のどこかで待ってるの」
「あなたが待っておられるのは、機械の馬に乗った魔王さまなのでは?」
セレウスが言った。
「ナイジェルのこと?」
七都が訊ねると、セレウスは、町の明かりできらめく緑色の目で七都を見上げた。七都の反応を窺うかのように。
「そうだね。そうなのかもしれない。まるっきり、否定は出来ないな」
七都が答えると、彼は心持ち俯いた。
けれども、すぐに顔を上げ、七都を見つめる。
「降りられますか? そこまで行ったほうがよろしかったら……」
「待って」
七都は、屋根のへりに立った。
高い。
意識してまともに下を見ると、くらくらしそうだった。
「セレウス。ここから飛び降りたら、わたしを受け止められる?」
セレウスは、にっこりと笑った。
「受け止めてみせますとも」
「じゃあ、お願い」
七都は屋根を蹴る。そして、セレウスに向かって、飛んだ。
両手を広げたセレウスが、近くなる。
七都の体は、急降下した。
風が強い。頬を張っていく。
あ。ちょっとスピード出すぎかな。
やばいかも……。
七都は、セレウスと馬の首の間あたりに落下した。
馬が驚いて、後ろ足だけで立ち上がる。
セレウスは、七都をしっかりと抱き止めた。
けれども、馬にそのまま跨っていられる状況ではなかった。
セレウスは、七都ごと馬から振り落とされる。
落ちる……!!
七都は、セレウスに抱きしめられたまま、思わず目を閉じた。
だが――。
静かだった。
たたきつけられるはずの地面も、体には触れてはこない。
(え……?)
そっと目を開けてみる。
七都は、宙に浮かんでいた。セレウスと一緒に。
馬は、離れた場所にいる。何度か首を大きく振ったあと、セレウスと七都を眺めた。
「これは、あなたの魔法?」
セレウスは七都を抱きしめる。七都の頭を、そして肩を。
怖くなるくらいだった。
こんなに強く誰かに抱きしめられたことは、ないかもしれない。
彼の体温を全身で感じる。心地のよい、あたたかすぎる体温。
だがそれは、魔神族にとっては危険な温度だ。空腹なときには、間違いなく反応して襲ってしまう、そういう体温。魔神族の感覚にきちんと刻み付けられ、設定されたかのような。
そんな気さえしてしまう、すこぶる快適な人間の体の温度だった。
今は空腹を感じているわけではなかったが、七都はセージを襲ったときのことを思い出しそうになる。
セレウスに大切に思われ、その腕に包み込まれていることには、安心感があった。
けれども、彼との間には取り去ることの出来ない壁があるのも、七都は感じてしまう。
彼は人間。そして、自分は魔神なのだ。
きっとこれがあるから、魔神族と人間が愛し合うなどということは、稀なのだろう。七都は、思う。
でも……。お母さんはお父さんに対して、そういう衝動って感じなかったのだろうか。
ふと、素直な疑問が湧き上がったりする。
お父さんは、この世界の人間じゃないものね。
あまり『おいしそう』じゃなかったってことなのかな。
「セレウス、苦しい……」
七都は、セレウスの胸に顔をうずめたまま、呟いた。
セレウスは、七都を抱いた腕の力を緩めた。
二人は、ゆっくりと地面に着地する。
「なんとか無事に、あなたを受け止められて、よかった」
セレウスが、呟いた。
「でも、ちょっと頼りなかったですね」
「ううん。ちゃんと受け止めてくれたよ、セレウスは」
馬が、近づいてくる。
セレウスは七都を馬の鞍に乗せ、それから、その後ろにひらりと跨った。
馬は、ゆっくりと歩き始める。
七都は、肩に、背中に、そして頭のてっぺんにも、セレウスのごく近い眼差しを感じた。
何となく、決まりが悪い。そんなにじろじろ見なくてもいいのに……。
「ナナトさま。こうして、魔の領域まで行きませんか?」
セレウスが、言った。
「え?」
七都は、思わずセレウスを振り返る。
すぐ後ろに彼の胸があり、顔も近くにあった。七都は、慌てて前に向き直る。
「馬でなら、歩いて行くのよりは、確実に安全に、しかも早く着きますよ」
「それは、あなたも一緒に行くってことを意味してる?」
「子供の頃、私に魔法を授けたのがあなたの母上らしいと聞いてから、ずっと考えていたのですが……。あなたの母上は、なぜ私にそういう力を下さったのか」
「理由がわかったの?」
「おそらく、あなたを守るためではないのかと。あなたを守る誰かをあなたの身近に置きたかったのです。あなたが扉を開けて、こちらの世界に戻ってきたときのために。それで、私を選ばれた。魔神族の血を引いたアヌヴィムの子供であると判断した上で」
「もしそうだとしても……。お母さんに従うことはないと思う。お母さんは勝手にそうしただけなんだし」
「私は、あなたを守りたいのです」
「あなたの気持ちは嬉しいよ、セレウス。でもね、わたしは一人で風の都まで行く。一人で来るようにって、ナチグロ=ロビンに言われたしね」
七都は前を向いたまま、セレウスに言った。
「しかし、それは無茶な話ですよ。ナナトさまは怪我をしておられるし、お一人では無理です。それに結局、風の都の入り口に一人で立てばいいわけでしょう? それまで誰と旅をしようが、ナチグロ=ロビンさまにはわかりませんよ」
「そういうズルは、してはいけません。わたしのポリシーに反します」
セレウスは、<何ですか、それは?>という質問を呑み込んだようだった。
「では、せめて魔の領域の手前までお送りしましょう」
「だめ。正直に言うとね、あなたと一緒に旅は出来ないの」
「それは、なぜですか」
「とても危険だもの」
「危険……ですか……?」
気の遠くなるくらいの溜め息と一緒に、彼が呟いた。
「それは、つまり……私があなたに……」
「違う。あなたがわたしにどうこうっていうんじゃなくて、逆。わたしがあなたを襲ってしまうから」
「私は、あなたに襲われても……」
「だからね。その態度が許せない。あなたのその、襲ってくださいって態度。あなたがそんな態度じゃ、早かれ遅かれ襲うしかなくなる。わたしは、あなたにそういうことはしたくないの。だから、一緒に長期に及ぶ行動はしない。それに第一、ゼフィーアが認めないと思う。あなたがわたしとこの町を出て行って、魔の領域に近づくなんて」
「女性たちは、身近なものが旅に出ることはいやがるものですよ」
セレウスが言った。
「姉にしろ、叔母のティエラにしろね」
「あなたは、この町にいたほうがいいよ」
七都は、セレウスを振り返る。穏やかな緑色の目が、七都を見つめ返した。
いたたまれない。
七都は、目をそらす。
だって……。だって、あなたは、もうすぐ魔法が使えなくなる。
魔法使いじゃなくなくなっちゃうんだよ、セレウス。
「いえ。わたしは、いつかこの町を出て行きます」
セレウスが、静かに言った。
「アヌヴィムの魔法使いとして?」
「そうですね。出来れば……」
自分の境遇を知ってか知らずか、セレウスは、呟いた。
七都は、セレウスのあたたかい体温を背中に感じながら、黙り込む。
馬は、通りをゆっくりと進んだ。
行きかう人々は、白い馬に乗ったセレウスと七都という、あでやかで麗しいひとかたまりの存在を、あっけにとられたようにしばらく眺め、それから慌ててセレウスに挨拶をするのだった。




