第5章 宙行く機械の船 2
回廊に出ると、船の音はさらに大きく響いていた。
周囲の空気を突き抜け、大地に反射するかのようだ。
七都は、空を見上げた。
黒い巨大なフライングディスクのような物体が町の斜め上空に浮かび、それがゆっくりと近づいて来る。
その腹部は、宝石をばらまいたような、色とりどりの賑やかな光であふれていた。
夏の初め頃に家族で出かけた時、山の上から見た街の夜景。それをひっくり返して、貼り付けたようだった。
「本物のUFOだ……。すごい……」
七都は、船を仰いだ。
闇の船は、まるでその存在を明確に示すかのように、あるいはねめつけるように、低空飛行で町の真上を通過して行く。さまざまな耳障りな音を引き連れて。
中庭の噴水が赤や青の光に染まって、ちらちらと輝いている。
「待って……」
七都は船を追いかけて、中庭を走った。
それから、思いっきり地面を蹴ってみる。
七都の体はふわりと宙に浮かび、反対側の回廊の屋根に、簡単に着地した。
さらに七都は、もっと高い屋根の上に移動する。
「飛べる! 上下だけよりは、進歩だ」
七都はゆっくりとリズムをつけ、幾つもの放物線を描いて、屋根を舞った。
闇の船は、すぐ手が届きそうなところを動いて行く。
もちろん、実際はもっと上空を飛んでいるに違いないが、そんな錯覚が起きてしまう。
館の屋根の上に立って、七都は、チーズケーキを並べたような町を眺めた。
町は山のようになっているので、その最も高い建物は、より船に近づけるところにある。
七都は、町のいちばん高台にある館をめざして、飛んだ。
セレウスの言ったとおり、町には人の姿がなかった。
人々は建物の中に閉じこもり、音に耐え、闇の船が通り過ぎるのを、息を潜めて待っているのだろう。
当然、屋根伝いに飛んでいく七都の姿も、目撃されることはない。もし見られたら、魔神であることが一目瞭然だ。たちまち正体がばれてしまう。人間が、ぽんぽんと屋根を飛べるわけがないのだ。
ゆえに七都にとってその状況は、とても都合のいいことでもあった。
七都は船を追い抜いて屋根を移動し、最も高い位置にある建物のてっぺんにたどりついた。
ここで終わりだ。もう先には行けない。
七都は、空を仰ぎ見る。
真正面に闇色の船が迫ってくる。
なんだろう、このせつないような、悲しい気持ちは。
もちろん、この船を見るのは初めてだ。
なのに、こんなにも懐かしく感じる。
これは、魔の領域からやってきた船。
闇の魔王――闇の一族の船かもしれないが、七都と同じ魔神族の船だ。
そんなふうに考えるだけで、胸が痛むような気がする。
どこに行くの?
どこかに行って、そしてまた、魔の領域に帰るのでしょう?
わたしも連れていって。
わたしはここにいるの。ここにいるんだから。
船を見上げながら、自然にそう思ってしまう自分が悲しい。
昼間、自分は半分人間だって、そう確認したのに。
魔神の本能は、抑えなければって。
エディシルを人間からもらうのはやめようって決めたのに。
でも、わたしは、半分は魔神族。
この船が来たところに属する。
魔神族に焦がれるのは、仕方がないことなのだろうか。
複雑な思い。
引き裂かれそうだ……。
七都の髪が、船が起こす風で乱れた。
ゆっくりと船は、七都の頭上を通り過ぎて行く。
まるでここが海底で、巨大な魚が上を泳いで行くようだった。
七都は、手を伸ばす。
もちろん、その手は届かない。
七都の両手の間に、一つの輝く窓が移動してくる。
その窓の中に、ひとりの人物がいるのが、はっきりと見えた。
「あ……。そんな……」
七都は、呻く。
その窓の向こうには、美しい女性が立っていた。
輝く金の髪を形よく結い上げ、宝石を飾っている。
その目は透明な銀色。その顔は整った彫像のようで、陶器のように白い。
「メーベルル!?」
七都は、自分の目を疑った。
だが、その女性は、紛れもなく彼女だった。
七都が記憶に刻み付けた、魔貴族の女性……メーベルル。
決して忘れはしない。あの眼差し。あの姿。
気高く麗しい、彼女の容姿。
ただ、七都の記憶の中のメーベルルは、勇ましい鎧を身につけていた。
機械の馬を操り、笑う猫の仮面をつけ、剣をかざしていた、闇の騎士。
船の中の彼女は、裾の長い白いドレスをまとっている。
髪には透き通ったベール。胸のあたりにも宝石が輝く。
おそらく、ナイジェルが何かの祝宴で見かけたという、華やかな貴婦人の姿だった。
「そんなはずない。彼女はもう、いないのに……」
メーベルルは、ユードにエヴァンレットの剣を浴びせられ、その体は夜明けの太陽の光に焼かれて、一瞬のうちに塵と化し、消えて行ったのだ。七都の目の前で。
彼女は、記憶の中にしか存在しない。再び生身の姿を現すなどということは、あり得ない。
七都は、通り過ぎて行く貴婦人をじっと仰ぐ。
その貴婦人は、窓に手を置き、外の景色を眺めていた。
もちろん、窓の外は暗黒に違いない。室内があんなに明るいのだから。
たぶん窓のガラスが映すのは、外の闇を背景にした彼女自身の姿。
町も、建物の屋根に上った七都の姿も、見えるはずがなかった。
それとも、魔神族の目には、違って見えるのか……。
彼女は、悲しそうな顔をしていた。
メーベルルも亡くなるとき、こんな顔をしたのだろうか。
とても悲しい顔。見る者はすべて、心を痛めるに違いない、そんな顔……。
七都も、胸がずきりと痛む。
メーベルルが死んだのは、七都を守ろうとしたからなのだ。
やはりその罪悪感は、消し去ることは出来ない。
メーベルルによく似たあの貴婦人は、おそらくメーベルルと血の繋がった、彼女の身近な人に違いない。
彼女の最後のメッセージを受け取った、彼女にとってとても近くて大切な人。
七都は、推測してみる。
だって……本人であるわけがない。
だからあの人は、メーベルルが亡くなったことも知っている。
もしかしたら、悲しそうな顔をしているのは、メーベルルが亡くなったことを嘆いているからなのかもしれない。
七都は両手を胸に当て、心の中で彼女に話しかけてみる。
あなたにお会いしたいです。
いつか、会えますか?
きっと……きっと、会えますよね。
そんなに遠くはない未来に、きっと……。
闇の魔王の船は、七都の上を流れるように通り過ぎる。
同時に、メーベルルそっくりの貴婦人を閉じ込めた窓も、移動して行く。
七都は、窓を目で追った。
貴婦人は、窓に映ったおぼろな影になる。
影は薄くなり、すぐに窓の白い明かりしか見えなくなった。
やがてそれは、他の明かりと同じように、船を飾るあまたの光の輝きの中に紛れてしまう。
船は、たくさんの音を引き連れて、町から去って行った。
七都は、それが小さくなって視界から消え去るまで、風に吹かれて屋根に突っ立ったまま、いつまでもいつまでも眺めていた。




