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第1章 開かない扉 2

 七都は、ふだん通学で利用している私鉄の電車に乗った。いつもと同じ葡萄色の電車だが、今回は違う駅で降り、地下鉄に乗り換える。

 電車の窓から、黒と灰色と人工の光に照らされた地下の景色が流れて行くのをしばらく眺めたあと、駅名を確かめて座席から立ち上がる。

 エスカレーターから降りると、地上は眩い真昼の光で満ちていた。

 コンクリートとガラスで出来たビル群が、水晶の結晶のようにそそり立っている。

 ビルの底では、人々が穏やかに歩いていた。

 日傘を差した制服姿のOLたちの集団、談笑しながら歩く、Yシャツが眩しいくらいに白いサラリーマンたち。

 あちこちにカラフルなパラソルが広げられ、その下ではお弁当が売られていたり、移動カフェの車が停まっていたりする。

 まだ正午には少し早いが、周囲は昼休みっぽい雰囲気に包まれつつあった。

 もちろん、そんな賑やかでゆったりした風景は昼休みが近いからで、それ以外の時間のそのあたりは、もう少し無機的で閑散としたビジネス街の顔を見せているのだろう。


 やっぱり、高校の制服でも浮いてる……。

 七都は、人々の視線を感じた。

 何でこんな時間にこんなところに高校生がいるの? という疑問が込められた視線。

 確かにこのビジネス街には、高校生はいないに違いなかった。どこかでバイトをしている子とかは別にしても、ここを歩いているのは七都ぐらいだろう。

 場違いだということは、なんとなく感じる。

 私服だったらもっと目立っていて、反感を買ったかもしれない。高校生の夏の私服は、やっぱり完璧にリゾート着という感じなのだから。

 だって、今夏休みなんだもん。

 そりゃあ、皆さんは、夏休みはお盆くらいでしょうけど、高校生は、ずううっと八月の終わりまで夏休みなんですよお。

 七都の答えが伝わったわけではないだろうが、人々は、ああそうか夏休みか、という納得したような表情を浮かべ、それからうらやましがるような表情になり、最後にその顔つきは、遠い日の高校生だった頃の記憶を思い出すような、懐かしい表情に変化するのだった。


 ビルの一つを七都は見上げた。

 そのあたりの建物の中では新しいほうの、ガラスの箱のようなビル。

 白い枠の中に薄緑のガラスがはめられたきれいなその建物は、央人の会社のグループで、ほぼ占められている。

 玄関ポーチには木が植えられ、花壇もあった。ニチニチソウ、ベゴニア、カンナ。

 夏の花々がビルの谷間を彩り、その横では赤いおしゃれな移動カフェの車が、イラスト入りのかわいい看板を出している。


 七都は、ビルの中に入った。

 エアコンのきいた内部の空気が、夏の太陽の下を歩いてきた肌を冷やしていく。

 中は、巨大なアトリウムになっていた。

 外のきらめく夏のビジネス街の景色が、ガラス一枚を隔てただけなのに、別の世界であるかのような感じがする。

 磨かれた床。建物を支える太い柱。鼻孔から入ってくるのは、冷やされてはいるがどことなく化学的な匂いが混じった、静かな空気。

 ビル内は、まだ昼休みの雰囲気にはなっていなかったが、それでも、既にリラックスした社員たちが数組、のんびりと連れ立って歩きながら七都とすれ違い、建物から出て行った。

 七都は、しばらくその建物内の景色をぐるりと眺めたあと、半分に切ったバウムクーヘンによく似た形の受付に行って、父の所属部署と名前を言った。

 受付の女性社員は、七都が高校生だからといって、決してぞんざいな態度は取らず、丁寧に応対し、それから電話をかけて確認を取った。

 厚めの膝掛けをかけている。ずっとここに座っていると冷えるのだろう。ガラスの向こうは真夏なのに、矛盾している。


「十六階までお越しくださいとのことです。エレベーターは右手、奥にございます」


 受話器を置いた彼女が、にっこりと笑って七都に言う。


「ありがとうございます」


 七都はお礼を言って、二人分のお弁当が入った紙袋を抱え、エレベーターに向かった。


 エレベーターは、左右両側にずらりと並んでいて、七都は面食らった。

 しかも、誰もいない。

 誰かがいれば、何も考えず、後についていくことも出来るのに。

 それでも、適当に選んでボタンを押すと、程なくポーンという軽い鉄琴のような音がして、江戸時代の行灯のような形をしたランプの一つが点灯する。

 扉は音もなく開いた。七都は、あわててそのエレベーターに飛び乗る。

 誰も乗っていなかったが、七都の後に男性社員が一人、乗り込んできた。

 七都は、奥に移動する。

 男性社員は扉に近いところでくるっと回転し、操作ボタンパネルの前に立った。


「何階ですか?」


 彼が訊ねた。

 しまった。ボタンを押すのを忘れていた。


「じゅ、十六階です。すみませんっ!」


 七都は、あせりまくる。

 本当は、先に乗った自分がそうしなければならなかったのだろうか、なんて思ったりする。

 ビジネス街のこういうビルのこういうエレベーターに乗るのさえ、普段家と学校の往復が一つの狭い世界になっている高校生にとっては、ちょっとした冒険だった。

 未知の場所だし、全然勝手がわからない。通常なら来ることもない場所だ。

 社会人になっている頃には、普通に働いているかもしれない場所なのだが。


 男性社員は十六階のボタンを押し、それから、彼の目的である十一階のボタンも押した。

 七都は、彼のうしろ姿を眺める。

 年齢は、二十代前半から半ばくらいだろうか。七都よりもはるかに背が高く、細身。

 黒のパンツに、白地に涼しげなストライプの入ったシャツ。髪は黒く、長く伸ばしているのを首の後ろで一つに結んでいる。背中にしょっているのは、灰色の図面ケース。

 デザイナーさんか、そういったアートっぽい仕事をしている人なんだろうな、と七都はぼんやりと思う。


「お困りのようですね」


 その男性社員が言った。


「え?」


 七都がエレベーターにうろたえていたことを言っているのだろうか?

 無様なところを見られたかも。ボタンを押すのも忘れたし。

 だが、そうではなかった。


「扉は、開きませんか?」


 彼が、再び言った。


「えっ?」


 そして七都は、彼がエレベーターの扉のことを言っているのではないということを理解した。

 お弁当が入った紙袋を、七都はぎゅっと抱きしめる。


「お宅のリビングの扉は、こちらからは、ある一定の時間にならないと向こうとは通じないように設定されています。向こうからは、いつでも開けられるようにはなっているんでしょうけどね」


 彼が言った。


 ……誰?

 この人、だれ?

 七都は、彼を凝視する。

 エレベーター内の温度が下がって行く。

 七都は、それを頬やうなじ、手の甲に触れる空気で感じ取った。

 彼は、ゆっくりと七都のほうに顔を向けた。

 整った顔立ち。夏にしては青白すぎる肌。口元は微笑んではいたが、目には鋭い光があった。

 もちろん知らない人だ。


「こちらからいつでも開けられるようになっていたら、いろいろと問題があるんですよ。あなたは平気かもしれませんが、たとえばあなたの飼い猫は、扉を開けていきなり向こうから太陽の光が差し込んできたら、避けようもなくたちまち溶けてしまうでしょう。実は私もそうなんですけどね。だから向こうに行くときは、たとえそこが夜だとわかっていても、いつも躊躇してしまうのですよ」


 この人、魔神族だ。

 七都は、悟った。

 そして、ますます強く紙袋を抱きしめ、目を見開いて彼を見つめる。

 体が固まっている。

 エレベーター内の温度も、とめどもなくどんどん下がっていく。

 凍り付きそうだ。


「そ、その、一定の時間って、いつ?」


 七都はやっと声を出し、質問を彼に投げかける。

 喉の奥が氷の結晶で覆われてしまったように冷たく、痛かった。


「たぶん、あなたが以前、向こうに行ったのと同じ時間帯。ごくわずかな時間ですよ。お気をつけて」


 彼は答えて、微笑んだ。


「体感温度は北極並みですね。お手やわらかに。では」

 

 エレベーターがポーンという音を奏で、『11』のボタンの明かりが消えた。扉が静かに開く。

 彼は七都に向かって、手を奇妙な形に交差し、腰を引いて頭を下げた。

 見たこともない挨拶だった。

 しかも、社会人が高校生に対して行うには、あまりにも丁寧すぎるものだった。

 彼が降りたあと、扉が閉まる。

 七都は、抱えていた紙袋を下ろして、片手の指先に引っ掛けた。そして、エレベーターの壁にもたれかかる。

 操作パネルに点った『16』の丸いオレンジ色の光が、冷たいエレベーターの中で、唯一温かみのあるものに感じられた。

 あの人、魔神族だ。間違いなく。

 わたしのことを知ってる。ロビンのことも。リビングの緑のドアのことも。

 誰?

 なぜ知ってるの?

 魔神族って、この世界にもたくさん来てるってこと?

 だが――。

 七都の母の美羽も、この世界に来ていた。向こうとの混血である七都もこの世界にいる。

 他の魔神族がこちら側にいても不思議はないし、七都のような子供たちだって、もっとたくさん存在するのかもしれない。ナイジェルもそうだったのだから。


 『16』の丸いオレンジ色の光が消え、軽やかな鉄琴の音がして扉が開いた。

 明るい光の中に、央人の姿が現れる。


「やあ。わざわざすまなかったね」


 央人は、七都ににっこりと笑いかけた。


「お父さん。お父さあん……」


 七都は、思わず央人に抱きついた。

 果林さんがアイロンをかけて仕上げたYシャツの、微かなラベンダーの香りが言いようもなく懐かしく、手のひらを通して感じられる父の体温は、安心するくらいにあたたかかった。


「おいおい。家でもしないようなことをわざわざ会社でするのかあ?」


 央人が、戸惑ったように言う。

 七都は、はっとして顔をあげた。

 これから食事に出かけるらしい人々が、二人の周囲にはたくさんいた。

 みんな固まって、目が点になっている。

 や、やばい。

 もしかして、『援交の女子高生が押しかけてきて、上司(もしくは同僚・部下)がものすごく困っている図』になってる?

 七都は、素早く央人から離れた。


「む、娘です。娘ですからっ。父がいつもお世話になっていますっ!!!」


 七都が何度もお辞儀をすると、雰囲気がなごんだ。

 『なんだ、阿由葉課長のお嬢さん?』『K学院に行ってるんだ。頭いいんだね』『かわいい~』という囁きが聞こえ、人々は何事もなかったかのように、ぞろぞろとエレベーターに乗り込んでいく。

 そして、「うわ、寒っ!」とか「なんじゃ、こりゃぁ」とか、「温度下げすぎ!」「苦情だ、苦情!」などという人々のたくさんの文句ごと、エレベーターの扉は閉まった。


「お父さん、エレベーターに変な人がいたの」


 七都が言うと、たちまち央人の顔が険しくなった。


「なに? チカンか? 大丈夫か? 警備員さんに知らせないと」

「違うよ。チカンじゃなくて」

「チカンじゃない?」

「その……向こうの世界の人だったみたい」


 央人の顔つきが、穏やかになる。


「そうか……。まあ、いるだろうね。きみに接触してきても、おかしくはない。ああ、お昼はあっちで食べよう。いい場所があるんだ」


 央人は、紙袋を七都からもぎとって、通路を歩いて行く。


「接触してきても、おかしくはないって? あの人、だれ? お父さん、知ってる? 十一階で降りたよ。扉のことを教えてくれた」


 七都は、央人を追いかけて、横に並んだ。


「ここで働いてるかどうかはわからない。もしかすると、きみに接触するためにそこにいたのかもしれない。見張り人かな」

「見張り人?」

「美羽は、そう呼んでたよ。前に、うちに何人か遊びに来たことがある。きみが生まれる前だけどね。そのとき私は、彼らと話はしなかったが、美羽に頼まれてコーヒーは出したな」

「じゃあ、わたしも見張られてるの、その人たちに?」

「たぶん、向こうからこっちに来てる全員が見張られてるよ。というか、軽くチェックされてるという感じかな。それが彼らの仕事らしいから。こっちの世界で悪さをするやつが出てこないように、警戒している。警察とか、パトロールみたいなもんじゃないかな。そんなに気にすることもない。普通に暮らしていれば、特に問題もないだろう。そりゃあ、七都が世界征服をもくろむっていうんなら、彼らとまともに戦わなければならないだろうけどね」

「世界征服なんて、もくろみませんからっ!」

「だろ?」

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