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第4章 魔神の血 10

 七都の願いが通じたのか、地下室の扉が開いて閉まり、階段を上がってくる足音が聞こえた。

 セレウスだ。

 セレウスが、はっと息を呑み、立ち止まる気配がした。

 だが、それっきり彼は動かなかった。


(どうしたの、セレウス? なぜ止めないの?)


 七都は回廊の反対側に、別の人物の気配を感じた。


(ゼフィーア!)


 彼女も、そこにいる。そこにいて、ただこの状況を眺めている。


(なぜ……?)


 自分の従妹が魔神族に襲われようとしているのに、それをただ黙って観察しているだけなのか?

 セレウスが何もしないのは、ゼフィーアに止められているせいもあるようだった。

 おそらくセレウスは、階段を上がった場所から、七都とセージをじっと見つめている。

 それが、はっきりと感じられる。

 二人そろってセージを見殺しにする気なのか?

 彼らは自分たちの従妹が大切ではないのか?

 なぜ何もしようとしない?


 七都は、暗黒の目でセージを眺めた。

 彼女の体を巡っているエディシルの、銀色のゆらめきが見える。

 彼女に口づけをすれば、それはたちまち自分の体の中に移動するだろう。

 あたたかい人間のエディシル。

 どこか心の片隅で、確かにずっと憧れていた人間のエネルギー。

 それを味わうのは、おそらく今まで経験したことのない、至福に満ち溢れているに違いない。

 七都はセージを抱きしめ、彼女の唇に自分の唇を寄せて行く。


「ナナトさま、やめてえ……」


 セージが、すすり泣いた。

 けれども、彼女の泣き声さえ、彼女の涙さえ、高揚感をさらに引き上げるささやかなアイテムにしかならなかった。

 あのグリアモスと同じだ。

 七都は、ぼんやりと思う。

 グリアモスが自分にしたことを、今度は自分がセージにしようとしている。

 そして、本当の自分がどこかで、暴走していく自分を冷静に眺めている。

 猫たちが、毛を逆立てて鳴き続ける。

 おそらく彼らは、自分たちが何に向かって鳴いているのか、わからないに違いない。

 魔神の本性を現した七都に反応して、ただわけもわからず興奮し、不安を感じて鳴いているだけなのだろう。


 その時――。

 突然七都は、強い力でセージから引き離された。


「それは、あんたの意志ではないだろう?」


 聞き覚えのある声が、七都のすぐそばから降ってくる。

 ユードの声だった。

 ユードは、左腕を七都の首にぐっと巻きつけ、手のひらで包み込むように、七都の肩を押さえつけている。

 彼は振り返った七都を見下ろしたが、七都の暗黒の目から、わずかに視線は逸らせた。


「迫力の目だな。自分を見失っている魔神の目だ。人間と穏やかに話がしたかったら、その目は封印しておくほうがいいぞ。この前は、その目をまともに覗きこんで不覚を取ったが、二度と同じヘマはせん」


 七都は暴れようとしたが、ユードの左腕と胸の間に挟み込まれ、さらに首を締め付けられる。


「エヴァンレットの剣がここにあったら、迷うことなく刺し貫いているところだ」


 ユードは七都を押さえながら、床にうずくまって泣きじゃくっているセージを見る。


「これが、憧れていた魔神さまの正体だ。さっさと安全なところに帰れ。魔神さまがここにいるうちは、この館には出入りするんじゃない」


 セージはよろよろと立ち上がり、回廊を走って行った。


 七都の肘が傷ついた右手に当たり、ユードは苦痛で顔を歪める。


「自分を抑制できなくなって暴走するのは、魔神たち自身も恐れるやっかいな特徴だ。自分たちをも滅ぼしかねないからな。だが、あんたは、人間の血が混じっているのだろう? 魔神族の本能に流されるな。自分の中の魔神を自分で制御しろ」


 ユードの腕をはずそうとしてもがく七都の両手首を、ユードは左手だけで、まとめてつかんだ。

 押さえられるか? 左手のみで。

 もし、ここで魔力を使われたら……。

 ユードは、視界の端に入った魔法使い二人を睨みつける。

 回廊の右と左に立ったまま、動かない姉弟。同じ四つの緑色の目が、ユードと七都を見つめている。


 ゼフィーアとセレウスは、完全に静観することを決め込んでいるようだった。

 もっとも、魔神族と魔神狩人のこのような争いに、アヌヴィムが首を突っ込んでくるはずもない。

 七都は、目の前にあったユードの左腕に噛み付いた。

 ユードは、うめき声をあげる。

 尖った歯が皮膚を鋭く裂いて、血が溢れ出す。

 七都の口の中に、血の甘い味が広がった。

 そして血と一緒に、銀色がかった薄青い煙のようなものが、ユードの腕から流れ出る。

 エディシル……。

 七都は、それをじっと眺めた。

 それは、血とは分かれて、ユードの腕の表面をふわふわと漂った。

 それにかぶりつきたい衝動が、七都の体の奥底から、凄まじい勢いで湧き上がってくる。

 だが、眼前の血の赤が、その衝動をかろうじて引き止めた。

 鮮やかな赤い血は、七都の歯で裂かれた傷口に溜まり、やがて幾筋もの線を引いて、流れ落ちて行く。

 それは、あの遺跡でグリアモスに殺された老人と同じ、血の色だった。

 同じ赤い色の、人間の血……。


「あ……」

「戻ったな」


 ユードが、初めて七都の目を覗き込む。

 七都の目から暗黒は消え去り、普段の透き通った赤紫の目が見開かれていた。


「食事をするときは、自分の意志できっちりと取るんだな」


 ユードが言った。


「魔神狩人の言葉とも思えない」


 七都は、呟く。


「カトゥースでも、アヌヴィムでも、魔王でも、それはあんたの好みだろうが、だが、関係のない人間には手を出すな」


 ユードを見上げる七都の目の縁から、透明な小さな丸い石が、ぱらぱらとこぼれた。


「涙……?」


 ユードが、七都の目とこぼれる石を凝視する。

 昔――。

 よく似た顔の少女が、涙を流していた。緑がかった黒髪と、紫がかった赤い目をした、美しい少女。

 遠い昔、ユードのそばにいたその少女が流したのは、透明な石ではなく、熱い液体の本物の涙だった。

 ユードは、記憶の底に沈めていた映像を一瞬思い出す。


「ナナトさまを放せ、魔神狩人」


 セレウスがユードの前に立った。

 その手には、冷たくきらめく剣を握っている。


「その涙の石も、くすねようなどと思うなよ」


 ゼフィーアが、静かに近づいてくる。

 彼女が手を広げてかざすと、手のひらの上に、七都が床にこぼした透明な涙の石が残らず集まった。


「おまえたち。血の繋がった身内よりも、この魔神の姫君のほうが大事なのか? あの少女をこの魔神に捧げようとしたな。恐ろしい連中だ」


 ユードが、並んで立った魔法使いたちを睨む。


「私たちは、アヌヴィムの一族。魔神族の方がなさろうとすることには逆らえません」


 ゼフィーアが微笑んだ。


「それに、捧げるなどと、大仰なことを。ナナトさまに一度ぐらいエディシルを提供したからといって、死にはしませんよ、魔神狩人どの。セージは軽々しい憧れのみで、自らアヌヴィムになりたいなどと公言しています。魔神族にエディシルを食べられたからといって怖がるようでは、アヌヴィムになどならないほうがよいのです」


 その時、カディナが回廊を走ってくる。


「ユード、お水をもらってき……」


 カディナの手からガラスの容器が滑り落ち、水と一緒に砕けて飛び散った。鋭く乾いた音が回廊に響き渡る。


「あんたたち、何をしてるのよっ!」

「さ、ナナトさま。お部屋に参りましょう」


 ゼフィーアが、七都にやさしく声をかける。

 セレウスはユードから七都を受け取り、抱え上げた。

 カディナは、去っていく三人をしばし眉を寄せて見つめ、それから、ユードに向き直った。

 ユードの左腕からは血が滴って、床に赤い染みを作っていた。


「噛まれたの、あの子に?」

「ああ。結構痛かったな。また傷が増えてしまった」

「た、食べられたってこと? その、彼らが言う、いわゆるエディシルを」

「いや。その前に、自分で制御したようだ。もし食われてたら、まださらに何日か、この家に滞在しなければならんところだった」

「部屋に戻ろう。手当てする」


 カディナはユードの左腕の傷を眺めて、溜め息をつく。


「やっぱり、魔神は魔神なんだ。いくらきれいでも、かわいくても。あのお姫様を背負って、ここまで無事に何もされずに来られたのは、奇跡だ」

「彼女なりに、おまえを襲わぬよう抑制していたのだろう。今回は眠りから覚めたところで、空腹だったのかもしれない。あのセージっていう娘は、エディシルが最も美味だと言われる年齢だしな」

「……変にあの子を擁護するんだね」

「気のせいだ」


 魔神狩人の二人は、二階へと続く階段をゆっくりと上がる。

 取り残された猫たちだけが、所在なげに中庭と廊下を歩き回った。

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