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第4章 魔神の血 8

「ユード、随分回復したね。彼も普通に歩けてたもの」


 七都は、再びセレウスの腕を持って、彼と並ぶ。


「あなたの姿を見た後、顔に<惚れ直した>って書いてありましたよ」


 セレウスが言った。


「まさか。わたしには相変わらず、苦虫を噛み潰したような顔にしか見えなかったけど」

「何ですか、それは。しかしながら、ナナトさま、すれ違いざまに彼を襲って、エディシルを召し上がればよろしかったのに。この前のように」


 セレウスが、呟く。


「わたしは、あの時、あなたをお止めしたことを少し後悔しています」

「なんてこと言うの。わたしは、誰からもエディシルはもらわないって決めたんだから」

「だから、それでは、そのひどい怪我はそのままですよ。風の都に行かれるのでしょう。きちんと治しておかなければ。ユードは怪我をしているとはいえ、驚異的な回復力を持っています。エディシルもおそらく、すばらしいものであるに違いありません」

「それは感じる。でもわたし、カトゥースをこれでもかっていうくらいたくさん食べるから、だいじょうぶ」


 セレウスは、難しい表情をして、首を横に振る。


「カトゥースはね、ナナトさま。言わばお菓子みたいなものですよ。嗜好品というか。人間は、お菓子や嗜好品だけを取っていては、病気になってしまいます。それと同じことです」

「でも、エディシルは多少含まれているんでしょ。なら、カトゥースでいいよ。それで十分。わたしは、自分の糧を得るために誰かを傷つけるなんてこと、絶対にしたくない。たとえそれがユードであっても」

「強情ですね」


 セレウスが、ふっと溜め息をつく。


「では、これから、新鮮なカトゥースを存分に召し上がって下さい」

「もちろん、そうするよ」


 七都とセレウスは、館の地下、カトゥース畑へと続く階段を降りた。




 目の前に広がる淡い青色の空間の中に立ち、七都は手を伸ばして、深呼吸をした。


「ここに来ると、ほっとする。なーんか、とても癒される」


 七都がしみじみと呟くと、セレウスは、にっこりと笑った。

 天井の青い明かりに照らされて、虹色に輝く無数のカトゥースの花。その上には、透明な蝶たちが妖精のように飛び回る。

 蝶たちは七都を見つけ、さっそく髪にとまり始めた。七都の髪は、透明な素材で作った蝶の髪飾りをたくさん付けたようになる。

 七都は、一本のカトゥースに手を伸ばし、花に触れてみた。

 煙のようなエディシルが七都の指に吸い込まれ、乳白色の半透明な花はたちまちチョコレート色になり、しおれて炭色の残骸と化してしまう。


「やっぱり、そうやって召し上がるのですね」


 セレウスが言った。


「この間、いきなり花を口に放り込まれたので、びっくりしましたけど」

「い、言ってよ。びっくりしたのなら。その食べ方、おかしいって」

「何か、新しい食べ方かな、と思ったもので」


 七都は、セレウスの屈託のない笑顔を眺めて、軽く吐息をつく。


 だけど……。

 この前ここに来たとき、そんなふうに指摘されても、ただ戸惑うだけだったかもしれない。

 何も知らなかったから。あの時。

 あれからまだそんなにたっていないのに。遠い遠いところへ来てしまったような気がする。


「風の都にも、カトゥースはあるのかな」


 七都は、呟いた。


「もちろん、あるでしょう。カトゥースは、魔の領域ならどこにでもある花だと聞きますよ。カトゥース以外にも、いろんな花々が咲いているはずです。ただ魔の領域の外では育たないので、知られてはいないだけで」

「そうだね。花がカトゥースだけなんてわけないものね。魔の領域って、どんなところなんだろ」

「私は行ったことはありませんが……。でも、魔神族の方にとっては、快適な場所だと思いますよ。領域全体に太陽を遮断する魔法の防壁が張られているので、あの中では、魔神族は昼間でも外に出ていられるのだとか。七つの都もそれぞれ個性があって、とても美しいということです」

「そうなの。なんか楽しみになってきたかも。そうだ、セレウス。あとで地図を見せてもらってもいい?」

「地図、ですか?」

「そう。この世界の地図。魔の領域までの行き方を大まかに知りたいの」

「かしこまりました。用意しましょう」

「あと、魔の領域の地図なんて……ないよね……?」

「残念ながら、そういうものはありません」

「あ、そうだ。もしかして、これ、入ってたりして」


 七都は、首にかけていたナビを手のひらに乗せた。そして、ナビに語りかける。


「魔の領域の地図って、出る?」


 ナビは、無反応だった。

 金色の機械の円盤の上で、黒い針が困ったように震える。


「カーナビじゃないものね。そこまで期待しちゃいけなかったかな。それか、言い方が悪かったのかもしれない。地形的なデータは入ってるはずだもの」

「……その魔法の猫の目は、生きてるんですか?」


 セレウスが眉を寄せ、七都の手のひらの上の物体を見下ろす。


「そんなわけないじゃない。これは、ただの機械。魔法なんかじゃないよ。ナイジェルが乗って帰った馬も、機械だったでしょ」

「私には、魔法と機械の違いがよくわかりません」


 セレウスが言う。


「機械は、魔神族がつくった便利な道具で、魔法は魔神族の超能力とか、そんな感じじゃないのかな」

「ますます、よくわかりません」

「いいよ。わからなくても。わたしも魔神族の知識があまりないから、あなたに迂闊には教えられないし」

「よくないです。いつかわかるように努力しなければ。私は、アヌヴィムの魔法使いなのですからね」


 ゼフィーアの言葉を、七都はふと思い出す。

 セレウスの魔法使いとしての能力は、この先それほど持たない。やがては、ただの人間に戻ってしまう。

 セレウス本人は、そのことを知っているのだろうか。


 一匹の蝶が、ふわふわと七都に近づいた。

 七都が手をかざすと、蝶は、七都の指に静かにとまる。

 だが、指にとまった瞬間、蝶は銀色の粉になって分解した。

 まるで七都の指に当たって、シャボン玉が壊れた。そんな感じだった。

 七都は、指をかざした状態のまま、硬直する。


「ナナトさま?」

「蝶が……消えた。分解した」

「え?」


 セレウスは、七都の手首をつかんで、小刻みに震えている白い指を見つめる。


「蝶を……食べましたね」


 セレウスが呟いた。

 七都は、目を見開く。


「な……」

「召し上がられた。そういうことでしょう。蝶のエディシルを。だから、蝶は消えてしまった」


 七都は、地面の上に座り込んだ。

 そして、ただ呆然と、蜘蛛のように全部の指を開いて、それを凝視する。


「ずっと不思議に思ってたんですよ。この蝶たちは、なぜナナトさまになつくのか。姉上やセージ、それにもちろん私にも、この蝶たちは無反応です。決して近づいて、体にとまろうなどとはしない。けれど、ナナトさまには反応が違う。なぜなのか」

「なぜ……?」

「この蝶はカトゥースと同じなのだと思います。おそらく良質のエディシルを持っていて、魔神族にそれを提供しているのです」

「じゃあ、わたしにとまるのは……」

「あなたにエディシルを提供するため」

「だって……そんなことしたら、死んでしまうのに? 一瞬で」

「魔神族に、本能的に惹きつけられるのかもしれません。蛾が火に惹かれて近づき、その身を焼かれて灰になるように。蝶たちは魔神族に惹きつけられてその体にとまり、エディシルを提供して、跡形もなく消え去る……。この蝶たちは、カトゥースと同じ、魔の領域に属するもの。そういう役目を負わされるために、魔の領域で飼育されているのかもしれません」


 七都は、立ち上がった。

 そして、くるりと向きを変え、扉に向かって走る。


「ナナトさま?」

「気分が悪い。部屋に帰る」

「では、あとでカトゥースをお届け致しますので!」


 セレウスが、七都の後ろ姿に向かって、叫んだ。


「ごめんなさい。そうして」


 扉が閉まったあと、七都の髪にとまっていた蝶たちが、突然いなくなった主人を捜し求めるように、扉近くの空間を乱れ飛ぶ。

 セレウスはしばらくその光景を見つめたあと、カトゥースの花を切り始めた。

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