第4章 魔神の血 6
「ゼフィーア? それ、本気で言ってるの?」
「いやですわ。戯れ言ですよ、ナナトさま」
ゼフィーアはすぐに笑ったが、七都は彼女の無邪気な笑顔にぞくっとする別の表情を見たような気がした。
七都はゼフィーアに、どことなく空恐ろしいものを感じる。遺跡の地下で初めて会ったときからそうだ。
ごくたまに、狂気とまでは言えないかもしれないが、何か影のようなものが、ほんの一瞬だけ彼女には現れるように思える。プライドを傷つけられたからといって魔王に突っかかるなどということも、アヌヴィムの魔女がすることではない。してはならないことだ。
七都はこの世界のことはまだよくわからないとはいえ、それはなんとなく理解できる。そしてもちろん、魔神族がアヌヴィムの魔女を怖がっていてはいけないということも。
ゼフィーアは相変わらず穏やかな微笑みを浮かべ、七都の不安げな視線を無視して、自分の作業を続けた。
髪を梳き終えると、ゼフィーアは、手際よく七都にドレスを着せた。
薄紅色の軽やかな衣装に、七都は包まれる。
「装飾品も、お付けしましょうね。これは、魔神族がつくったものですから、私なんかよりはるかにお似合いになるはずですよ」
ゼフィーアは七都の額に、透明な水晶のような石がきらめく飾りを付けた。
それから、同じ石のイヤリングを七都の両耳に飾り、幾重にもなったシンプルなデザインの銀のネックレスを首にかける。ナビはそのネックレスによってさらに引き立ち、存在感を増した。
それからゼフィーアは、七都の肩を半透明の白いショールで覆った。ショールには、上品な細かい花の模様が入っている。
「さ、出来ました。鏡をご覧になられます?」
七都は、姿見の前に立ってみる。
鏡の中には、この上もなく美しい少女がいて、こちらを見つめていた。
透明な葡萄酒色の目。陶器のような白い肌。櫛で丁寧に梳かれた緑がかった長い黒髪は、ゆるやかな曲線を描いて、肩から床へと落ちている。
水鏡よりよく映るその姿見で、七都はこの世界での自分の体を確認した。
体のラインは華奢だったが、貧弱なものではない。必要なところに必要な分量の膨らみや滑らかさは、美しく確保されている。
元の世界の七都よりは小柄だとはいえ、バランスが取れていて、非の打ち所がなかった。
コンプレックスとは無縁の体。ダイエットとか補正とか矯正とか、女性たちが心を痛めるあらゆる悩みとは、おそらく縁がない体だ。少女としての完璧な美で、その体は成り立っていた。
まとっている薄紅のドレスもアクセサリーも、その姿を際立たせ、鏡の中の少女は、この世界に完全に溶け込んでいる。
胸の醜い怪我はドレスの中に隠れ、肩にあったとゼフィーアが言った傷も、ショールのせいもあってか、ほとんどわからなかった。
セーラー服やTシャツとジーンズを着るよりは、当然、こちらのほうが似合っているに決まっている。
だがこれで、元の世界のものは、一切手元からなくなってしまった。
首にかけているナビは元の世界から持ってきたものだとはいえ、本来はこの世界に属するもの。魔神族が作ったものだ。寂しさと不安を七都は感じた。
それから七都は、額の髪を上げてみた。
滑らかな、陶磁器のような白い額。当然のことながら、ほくろやシミの一つもない。
魔王が付けた『印』というのは、いったい……。
(別に、何もないけど……)
けれども、七都が鏡から目を逸らそうとした途端、七都の額に、きらきらした小さな楕円形が浮かび上がる。
そこには、グリアモスが言っていた『印』があった。
魔王の口づけのあと。シルヴェリスとリュシフィン。二人の魔王が付けたもの。
一つは、青味がかった銀色の楕円形。もう一つは、緑色がかった銀色の楕円形。楕円形というより、どことなく花びらに似た、滑らかな形だった。
青味がかったほうは、はっきりとした形を取って七都の額に刻まれていたが、緑がかった印のほうは輪郭がぼやけている。
その二つの印は、じっと見ると消えてしまうのだが、少し視線をずらせば現れる。
「朝食は、地下で新鮮なカトゥースを召し上がられたらよろしいですよ。もうすぐセレウスが、お迎えに参ります」
ゼフィーアが、鏡の前にへばりついていろんな角度から自分の額を眺めている七都に言った。
「セレウスは、昨日、新しいカトゥースを持ってきてくれたんでしょ。それでいいけど……」
七都は、ベッドのそばにいけられたカトゥースを振り返る。
「もう、古くなっています。一日以上たってますからね。でも、それなりにきれいな花ですから、観賞用に愛でられたらよろしいです」
ゼフィーアは一礼をして、部屋のドアを開けた。
「あ、そうだ、ゼフィーア。お願いがあるの」
七都は、遠慮がちにゼフィーアに声をかける。
「何でしょうか?」
「旅行用の服を用意してほしいんだけど……。動きやすくて、丈夫で、たとえば、この町の男の子の服みたいな感じの。あなたが持っている古いのでいいから……」
「あいにく私はそのような服は持っておりませんが、もちろん、ご用意致しますよ」
「ありがとう、ゼフィーア。いろいろと本当にごめんなさい」
七都が言うとゼフィーアは微笑んで頷いたが、ドアを閉める間際に、七都に言った。
「私共に対して、あまり感謝の言葉や謝罪の言葉は、軽々しくおっしゃられませんように」
「……そんなこと言ったって。素直な気持ちだもの。ねえ」
ベッドの上に座っている銀猫に手を伸ばすと、銀猫は七都の指を軽く噛んだ。隣の黒猫が、七都の腕に頬をすりつける。
「でも、やっぱりゼフィーアは、その手の服は持っていないんだ」
ドアがノックされ、セレウスが入ってきた。
鮮やかな緋色の髪が、七都の前でぴたりと止まる。
彼は、薄紅のドレスをまとい装飾品を美しく付けた七都を、目を大きく見開いて、しばし眺めた。
「似合う?」
「と、とてもお似合いです。見違えるようだ。いや、もともとあなたは美しいが……」
七都が訊ねると、セレウスは答えた。
もちろん男性に、面と向かってそんなことを言われたことはない。あのグリアモスは別として、だが。
どういう態度をとっていいのか全くわからず、七都は戸惑う。
「ナナトさま。地下のカトゥース畑へ参りましょう。新鮮なカトゥースのエディシルをお取り下さい」
セレウスは、七都に手を差し出した。
七都は、手を引っ込める。
「悪いけど、あなたには触れられない」
「それは、やはり、私を襲いそうだからですか?」
「そう」
セレウスは、いきなり七都の手を握った。七都は、セレウスの手を振りほどく。
「よろしいですよ、別に私は。あなたに襲われても」
セレウスが言った。
「よくないよ。あなたを殺してしまう」
「あなたは、だいたい見た目くらいの年齢なのでしょう?」
セレウスが訊ねる。
「見た目よりは、二つ三つくらいは上だと思うけど」
「それなら、あまり変わりませんね」
セレウスは微笑んだが、七都は心の中で呟く。
(十二歳と十五歳では、大違いだよ)
「魔王さまやグリアモスならともかく、あなたくらいの年齢の魔神族の女性なら、一回や二回エディシルを食べられても、だいじょうぶですよ。間を開けずに連続三回以上になると、命を失う危険が出てくるとは思いますが」
「じゃあ、やっぱりだめだよ。そんな危険があるんだもの。それに、あなたはアヌヴィムの魔法使いなんだし、契約がいるでしょ」
「関係ありません。魔法はいりませんよ。姉上の忠告も気にしません。エディシルをあなたに提供するだけでも、私は一向に構わない」
「構うよっ!」
七都が叫ぶと、セレウスは笑って、再び七都の手を取った。
「いつでも襲っていただいて結構ですから。常に覚悟は出来ております。さ、行きましょうか」
七都は、溜め息をついた。
セレウスも、ノーテンキだ。危機管理意識が、とんでもなく欠如している。
部屋のドアを開けたところで、七都は、慣れない長いドレスの裾を踏みつけた。
バランスを崩して、セレウスに倒れかかる。
素早く足で体を支えようとしたが、セレウスの足を背後から払って、さらに繋いだ手を引っ張る形になってしまい、セレウスも勢いよく転倒した。
七都は、仰向けになったセレウスの上に倒れて、乗りかかる格好になる。
「もう、ですか? では、どうぞ。ご遠慮なく」
セレウスは、横になったまま目を閉じる。
「違うっ! 裾を踏んづけて、転んだだけですっ!」
七都は、叫んだ。




