第4章 魔神の血 5
長い眠りのあと、七都は目を覚ました。
見慣れない天井が見える。それから、淡い青色のガラスがはめこまれた明り取りも。
そこからは光がやわらかく落ちて、部屋を薄青がかった銀色に染めている。
七都は、起き上がった。
傍らに丸くなっていた猫たちも、頭を起こす。
「そうか。あの館なんだ。ゼフィーアとセレウスの……。どれくらい眠ったんだろ」
床に落としたカトゥースの残骸は、きれいに片付けられている。テーブルの花瓶には、新しいカトゥースがたっぷりといけられていた。
「眠られていたのは、まる一日とちょっとですね。今は朝ですよ」
ゼフィーアが、部屋に入ってきた。
彼女は、明るい緑色のドレスを着ていた。
やはりふわっとした感じの、少女の可愛らしさを引き出す要素を存分に持つドレスだった。
「ご気分はいかがですか?」
「とてもいいよ。もう、息もちゃんと出来る。体も軽いし。カディナに背負われてここに来たときとは、大違いだ」
「それはよろしかったですわ。カトゥースの力も、馬鹿になりませんね。では、ナナトさま、お着替えを。あなたが今お召しになっている服は、もう服とは呼べませんよ」
「そうだね……」
せっかくの新しいTシャツは、グリアモスに引き裂かれていた。ジーンズは汚れただけでまだはけそうだが、この世界で過ごすには、もう用はないだろう。
「私の服で、胸の傷が隠れて、ナナトさまに似合いそうなものを見繕って参りました。新しい下着と靴も」
ゼフィーアは、薄紅色のドレスを広げる。
もちろん彼女の趣味が反映された、ふわふわした少女っぽい衣装だった。
「ありがとう。きれいな服……」
「さ、その服をお脱ぎになってくださいませ」
ゼフィーアが言った。
「お脱ぎになってって……?」
このきれいなドレスに着替えるということは、今着ている元の世界の服を体から取り去って、これを新たに身に付けるということ。
つまり、ゼフィーアがいる前で、服を脱がなければならない。そういうことになる。
えー。
彼女に、わたしの裸を見せちゃうってこと?
「ま、いやですわ、ナナトさま。恥ずかしがっておられるのですか?」
ゼフィーアが、おかしそうに笑った。
「恥ずかしいに決まってるじゃない……」
七都は呟く。
最近は、果林さんにさえ裸は見せたことがない。
猫の姿のナチグロ=ロビンには、油断して見られてしまったのだが。
友達にも、もちろん見せない。
高校の健康診断のときだって、クラスの女子は、みんなたぶん遠慮して、お互いに見ないようにしている。
体育の時間の着替えだって、そうだ。体操服は当然のことだが、水泳の時間に水着に着替えるときも、女子高生は誰にも自分の裸を見られることなく、素早く完璧に着替えを行うすぐれた技術を持っている。
銭湯にも行かないし、全身エステなんにかも当然まだ行かないし、誰かに自分の裸を見せるなどということは、ほとんどないのだ。
ためらう七都をしばし観察し、ゼフィーアは強硬手段に出る。
彼女は七都のTシャツをいきなりつかんで、引き剥がした。
「ゼフィーア! 何するの!」
七都は、思わず叫ぶ。
「アヌヴィムに対して恥ずかしがるなんて、魔神族の姫君のすることではありませんよ」
「そ、そんなこと言われたって……。わたしは、魔神族の中で育ったわけじゃないもん」
「でも、魔神族でしょう。こんなことでいちいち恥ずかしがっておられたら、この先相当お困りになりますよ。さ、お立ちになって」
七都は、しぶしぶベッドから降りて、立ち上がる。
ゼフィーアは、七都のジーンズに手をかけた。
「じ、自分で脱ぐから」
七都は、ゼフィーアから一歩離れる。
自分でさえ、この世界で変身した体を、鏡に映してじっくり見たことなんて、まだないのに。
その前に、ゼフィーアにばっちり見られちゃうんだ。
照れくさいし、決まりが悪いし、気恥ずかしい。
でも、あきらめるしかないか。女同士なんだし。
彼女は、自分のためにドレスを選んで持ってきてくれて、きちんと着せようとしてくれているのだ。
恥ずかしがることでもないのかもしれない。
変に恥ずかしがってなんかいたら、そのほうが失礼に当たるというものだ。
だけど。
やっぱり、ちょっと、抵抗あるんだけど……。
「おきれいですわ」
ゼフィーアが、七都を見つめて呟いた。
七都が、今身につけているものといえば、首に輝く金色の猫の目――見張人の記録係にもらったナビだけだった。
そ、そんなに、まじまじ見なくても……。
七都は、うつむいた。
あられもない姿だ。他人の前でそんな姿をさらすなんて。元の世界では、あり得ない。
「ナナトさま。前をお向きになって。背筋を伸ばされて。堂々と」
ゼフィーアが言った。
「威厳に満ちた態度で、私の前に立ってくださいませ。ご自分が美しいということに、自覚と自信をお持ちになって」
七都は顔を上げ、彼女の前に立つ。
ゼフィーアは、濡らしたやわらかい布で、七都の体を丁寧に拭き始める。
彼女の、自分に対して行ってくれている真摯な作業をしばらく眺めるうちに、七都からは次第に恥ずかしさはなくなっていった。
「肩の擦り傷やグリアモスの引っかき傷は、ほとんど目立たなくなっていますよ。でも、問題は胸の深い傷ですね。この傷がなかったら、もっとおきれいですのに」
ゼフィーアが、残念そうに呟く。
七都は自分の胸を見下ろして、思わず顔をそむけた。
血が出ていない分、どことなく標本めいた不気味な傷口が、そこにあった。
あの巨大な化け猫――グリアモスの鋭い爪が、胸の皮膚を深く引き裂いている。
傷口の奥は、暗黒の空間だった。
「ゼフィーア。下級魔神族って……グリアモスって、何なの?」
七都は、ゼフィーアに訊ねた。
「魔神族は、魔王様を頂点として、その下に王族、魔貴族、一般の魔神族という形態になっています。下級魔神族は、名前の通りその一番下に属するのです。通常は魔神族の姿をしていますが、その正体は、あなたがご覧になった、あの巨大な黒い恐ろしい魔猫」
「うちの飼い猫の男の子……ロビンの正体も、あの化け猫なの? 彼も下級魔神族らしいんだけど」
「この前、ナナトさまと一緒に扉の向こうに帰られた方ですね。おそらくそうでしょう。もっともあの猫が、実は魔神族の本来の姿だという話もあります。遠い遠い昔は、あの姿だったと。長い年月をかけて異世界の人々と交わるうちに、魔神族は美しい体と魔力を手に入れました。でも、グリアモスたちは置き去りにされてしまったのです。かろうじて、魔神族から魔力を得ることによって、魔法が使えたり、魔神族の姿に化身することが出来るだけ。彼らは最も下層の階級に落とされ、魔神族に仕えるしかなくなりました」
「彼らの存在理由は?」
「人間から得たエディシルを魔神族に提供すること。彼らはたくさんのエディシルを集め、体に蓄えることが出来ますから。けれども、魔神族の命令であれば、何でも行うのが彼ら。魔神族にとっては、便利な存在ですね。だから、そんな立場を嫌って、魔の領域をあとにするものも多いとのこと……」
「じゃあ……。もしかして、ナイジェルが遺跡の地下でロビンにキスしていたのは、キスじゃなくて、ロビンからエディシルを得ていたってこと……」
「そうですね。シルヴェリスさまは、怪我をなさっておいででしたから、かなりの量のエディシルが必要だったと思われます」
「それでナイジェルは元気になって、ロビンは酔っ払ったみたいにふらふらだったんだね。ああ。ナイジェルは、それまでずっと我慢していたんだ。渇望と戦って……。眠ることによって、それをごまかして……」
「あの方の意志のお強さは、すばらしいですね。感服致しました。私にも手を出されなかったし、そして、あなたにも……。本来なら、ナナトさまも私も、あの方に襲われていたとしても、おかしくはありません。あの状況で魔神族や人間がそばにいることは、誘惑以外の何物でもありませんから。ナナトさまは魔神族ですから、魔王さまからエディシルを取られたとしても、それほどの痛手はお受けにならないかもしれませんが、私はおそらく一瞬で死んでいたでしょう。アヌヴィムの魔女とはいえ、魔王さまに襲われたら、一溜まりもありません」
「では、ゼフィーア。あなたはやっぱり、とても大胆で危険なことをしたってことだね。わたしがいない間、ナイジェルのそばにずっといたんでしょ。しかも、あれはかなりの至近距離だったと思うよ」
「正直申し上げて、私には野心がありますから」
「野心?」
「魔王さまと、直接取引をすることですわ」
「直接取引って? 魔王のアヌヴィムになること?」
「そうです。魔王さまに気に入られ、アヌヴィムになった魔法使いは、強大な力を得ますから。そしてアヌヴィムとはいえ、魔王さまにエディシルをご提供する必要はありません。魔王さまからいただいた魔法を束縛なしに自在に使えるのです。もっとも、魔王さまにエディシルを差し上げたりなどすれば、命が持ちませんけれどね。お遊びならともかく」
「あなたは、強力な魔法が欲しいの?」
「魔女になった以上は、やはり強力な魔法を使いたい。そういう欲望とでもいいましょうか」
「そんな強力な魔法を得て、何をしたいの? 自分のためだけに使いたいわけじゃないんでしょ」
だってあなたは、見知らぬけが人や病人を屋敷に連れ帰って看病するような、やさしい人なんだもの。
そんな意味をこめて七都が訊ねると、ゼフィーアは一瞬、七都を拭く手を止めた。だが、すぐに再開させ、妖しく微笑む。
「それは申し上げられませんね。私の胸の奥底の、決して誰にも覗けないところに置いてあることですから」
ゼフィーアは、今度は、七都の長い髪を櫛でとかし始めた。
七都の髪には、きらめくような艶が現れる。
「けれども、あなたがシルヴェリスさまのおそばにおられたのに、私は差し出がましい真似を致しましたね。あなた方は……」
「あ。別に、わたしは彼の恋人とか、そんなんじゃないから。前にも言ったけど。あの日初めて会って、助けてもらっただけ」
「シルヴェリスさまがあなたの額に口づけをされたのは、単なる別れの挨拶ではないと思いますよ。あなたを大切に思われているからに違いありません」
「そうなのかな」
「シルヴェリスさまのこと、お好きではないのですか?」
「好きだよ、たぶん。だけど、ほのかな思いとか、淡い恋とかさえ、まだ言えないと思う。この間初めて会って、しばらく一緒に過ごしただけだし……」
「歯がゆいですね。ご自分のお気持ちを抑えておられるだけではないのですか? 恋に落ちるときは、一緒にいた時間とか、会った回数とかは、関係ありません。一瞬にして誰かを愛したり、一度だけの逢瀬でも、十分に惹かれあったりするものです」
「それは……あなたの経験?」
「まあ、そうですね。私は、見た目よりは年を取っておりますから。さまざまな場所で、さまざまなことを見て参りました」
「きっとそうなんでしょうね。わたしなんかより、ずっといろんなことを知ってると思う」
「でも、私は、あの方が憎らしいですわ」
ゼフィーアが言う。
「え?」
「あの方は、私を完全に無視された。私にも、それなりの自負心があります。それをあの方は、見事に傷つけられた。私の美しさも、存在自体さえも、認めては下さらなかった」
……プライド高そうだものね、ゼフィーアって。
七都は、うつむき加減で七都の髪を梳く彼女の、白い顔をちらりと見る。
「ナナトさまをこの館に閉じ込めておいたら、シルヴェリスさまは、ここに来てくださるでしょうか」
ゼフィーアが呟いた。特に思いつめたふうもなく。彼女は、さらりと言ってのける。
七都は、体を硬直させた。




