第4章 魔神の血 3
「やめて。そんな、人を物みたいに言うのは。わたしは誰からもエディシルはもらわない」
「そうですか……。ここにはカトゥースはたっぷりありますからね。カトゥースには、人間と同じ良質なエディシルが含まれています。当面はそれでしのぎますか? でも、カトゥースだけでは、その胸の傷は回復しませんよ。エディシルが絶対的に足りません」
「痛みも感じないし、血も出ていないもの。完全に回復しなくても、取りあえず動けるようになりさえすればいいよ。風の都まで行けるくらいに動ければ、それでいい」
「風の都……。行かれるのですか? そこに入ったという魔神族のお話は、ついぞ聞いたことがありません」
「あまりいい噂のあるところじゃないってことは知ってる。幽霊都市なんて言われてるって。でも、わたしは入れるみたいだから」
「ナナトさまは、風の魔貴族の姫君なのですか?」
「わからない。風の都に行けば、たぶん明らかになるだろうけど。ゼフィーア。あなたは、わたしの額に何か印が見える?」
七都は、額の髪を上げて、ゼフィーアに訊ねた。
「いいえ。何も。何か?」
「わたしを襲った下級魔神族……グリアモスだっけ。彼は、わたしの額に魔王が付けた印があると言ってた」
「魔王さまが付けた印?」
「たぶん、それは口づけのあとだと思う。ひとつは、ナイジェル……水の魔王シルヴェリス。それは、この間彼がキスしたから、そのときに付いたもの。もうひとつは、風の魔王リュシフィンのものだって……」
『シルヴェリス』という名前を聞いたとき、ゼフィーアは、わずかに顔をこわばらせた。
「ナイジェルがわたしの額にキスしたのは、たぶん別れの挨拶みたいなもの。じゃあ、リュシフィンの印の意味は、いったい何なのか。わたしが覚えていないくらいの、小さな子供の頃に付けられたものなんだろうけど」
「私には何も見えません。おそらく、魔神族にしか見えないのでしょう」
ゼフィーアが言う。
「あなたは、リュシフィンさまの身近な方なのかもしれませんね。本来なら、私たちがお話も出来ないような……。でも今ここにおられるのですから、お世話は存分にさせていただきますよ」
「ありがとう、ゼフィーア」
「まったく……。お礼を言われたり、謝られたり。そんなことを魔神族の方からしていただくのは、めったにないことですわ。戸惑ってしまいます」
ゼフィーアが、微笑む。
「そうなの?」
「そうですよ。……ナナトさま、カトゥースの花を召し上がられます?」
ゼフィーアが、テーブルにいけてあったカトゥースの花を持ってくる。
「取れ立ての新鮮なものは、間もなくセレウスが持ってくるでしょうから、それまではこれを……」
七都がカトゥースを一本受け取り、その花をちぎって口に放り込むと、ゼフィーアは驚いたように目を見開いた。
そして指を額に当て、上品に頭を抱える。
「その召し上がり方は、セレウスがお教えしたのでしょうか」
「ううん。わたし、何か変なことした?」
「確かに、そういう食べ方をされる魔神族の方もおられますが。はっきり言って、おいしくはないでしょう?」
「うん。まずいね」
ゼフィーアは七都の前に、カトゥースをもう一本差し出した。
「手でお持ちになって」
七都は、それを受け取った。
「指から味わってみてください。それが正しい食べ方ですよ」
「指から?」
七都は、カトゥースを見つめた。
蓮を小さくしたような、透明な乳白色の可憐な花。微かにコーヒーの香りがする。
七都は、それをぎゅっと握りしめた。
カトゥースの細い茎の中をめぐる流れを感じる。
その流れを七都は引き寄せた。途端にカトゥースの茎から、小さな流れが七都の指の中に入ってくる。
七都は、目を閉じた。
うっとりするような、あたたかい流れ。それはひとかたまりのエネルギーとなって、七都の体全体を巡っていく。
カトゥースを飲んだときよりも、はるかに大きな満ち足りた心地よさを感じる。
押さえつけていた身の毛もよだつような衝動も、ことごとく淘汰され、消え去って行くような気がした。
目を開けると、七都が持ったカトゥースはチョコレート色になり、枯れていた。
七都が手を離すとカトゥースは、薄青い煙のようなものを花全体に巻きつけて、床に落ちる。
「この煙みたいなのは……」
「それが、エディシルです」
ゼフィーアが言った。
「じゃあ、わたしの傷から流れ出した銀色っぽいものも?」
「そう。エディシルですわ。グリアモスに食べられてしまいましたね。でも、そうやってたくさん取られれば、きっと元気になられます。本当は人間から取るのが、最も早く回復する方法なのですけどね。ああ、手からだけじゃなく、口から取る方法も練習してみられたらよろしいですよ。きっと難なくこなされると思いますけど」
七都は、自分の手を広げて、見つめた。
「人間からエディシルを取るときも、こうやるわけ?」
七都が眉を寄せてたずねると、ゼフィーアはにっこりと笑った。
「そう。同じです。手でも口でも、どちらでもお好きなほうで。では、わたしはこれで。また参ります。お食事が終わったら、お眠りになってくださいね」
ゼフィーアは丁寧に頭を下げ、部屋から出て行った。
七都はカトゥースを取って、花に唇を近づける。
コーヒーのいい香り。花びらの冷たい、だがみずみずしい感触。
そっと口を開けてみる。
ふわりとした煙のようなものがカトゥースから抜け出て、七都の唇にまとわりついた。
七都は、それにかじりつく。
飲むというよりは、食べるという感覚。雲を食べる。まさにそういう感じだった。
カトゥースから得たエディシルが、歯の間を通って体の中に入って行く。
同時にカトゥースはチョコレート色に変色し、しおれて折れ曲がった。
そうか。カトゥースは、こうやって食べるんだ。
ナイジェル、恥かいてないといいけど。
でも、食べ方までは説明してないものね。
よかった。一応セーフかな。
猫たちが、ベッドに上がりこんでくる。
七都は、銀色の毛の猫の背に恐る恐る手を置いた。そして、安堵する。
ユードやセレウスに感じたあの衝動は、猫に対しては、全く感じない。
猫は、魔神族にとっては、やはり特殊な動物なのかもしれなかった。
七都は、銀の猫をぎゅうっと抱きしめる。
猫は、おとなしく抱きしめられていた。ここの猫たちはナチグロ=ロビンよりは愛想がいいし、性格もはるかに良さそうだ。
けれども、あの生意気で冷たくて抱かれるのが大嫌いなナチグロ=ロビンがいないことに、寂しさと心細さは感じる。
置いていかれたことに関しては、憤りはそれほどなかった。
確かに彼は、わたしを案内するなんて、ひとことも言ってはいなかった。彼にはそんな義務も役割もないのかもしれない。
彼にそういうことを期待するほうが、そもそも間違っているのかも。
風の城まで彼の案内で楽に行こうなんて、やっぱり、虫が良すぎる甘い考えだったのかな。
だけど、もう少し親切にしてくれてもいいのに……。
そりゃあ、子供の頃とはいえ、彼のヒゲをむしったのは本当に悪かったと思うけれど、でも、ちょっとひどくない?
七都は、カトゥースをさらに一本、花瓶から抜き取った。
待ってなさい、ナチグロもといロビーディアンなんとか。
風の都の入り口まで、ご希望通り見事に行ってあげるから。
それには、まず、カトゥースからいっぱいエディシルを取って、たくさん眠らなきゃ。
七都は、猫たちに見守られながら、カトゥースを次々と抜き取り、何回も口づけをしては、枯らした。
カトゥースを枯らす度に、少しずつではあったが、確実にエネルギーが戻っていくのを七都は感じた。
ゼフィーアが七都の部屋を出たところで、セレウスが、採れたばかりのカトゥースを入れた袋を持って現れる。
「姉上、これくらいの量で足りるでしょうか」
「十分でしょう。でも、すぐに足りなくなるかもしれませんね」
「そのときは、また採ってきますよ。ナナトさまのためなら……」
ゼフィーアは、軽く溜め息をつく。
「セレウス。あなたがナナトさまをお慕い申し上げるのは、あなたの自由ですけどね。ナナトさまにエディシルを提供しようなんて、ゆめゆめ思わぬように」
「いけませんか?」
「当たり前でしょう。私たちはアヌヴィムの魔法使いです。あの方にエディシルを差し上げるには、それなりの契約を結ばねばなりません」
「それはわかりますが……。でも、ナナトさまにはエディシルが必要ですよ。人間の新鮮なエディシルが……」
「この館には、ちょうど今、人間が二人滞在しているではありませんか。若くて美しい男女が。しかも彼らは魔神狩人。私たちとは、かたきの間柄」
「……ユードとカディナ。そうでした。なら、何も心配することはないですね」
魔法使いの姉弟は、顔を見合わせて微笑んだ。
セレウスはゼフィーアと別れ、七都の部屋のドアを開ける。
ベッドに横たわった七都は、既に眠りについていた。
頭の両側には、それぞれ、丸くなった黒猫と銀猫。肩のあたりと足のあたりにも、まるで七都を守るように猫たちが寝ている。
ベッド近くの床には、黒く変色して枯れ果てたカトゥースの残骸が、束になって落ちていた。
セレウスは、新しいカトゥースを花瓶に追加した。
そして、緑色を帯びた長い黒髪で流れるような美しい模様を周囲に描き、あどけない表情をして眠る魔神族の少女を、やさしい眼差しで見つめる。
「姉上は、ああおっしゃったが……。やはり私は、あなたに私のエディシルを差し上げてもいいと思ってますよ。たとえそれで死に至っても、後悔はしません。ナナトさま。こんなに早くあなたにお会いできるとは思いませんでした。早くその怪我が治られますように」
セレウスは呟いて、毛布をそっと七都にかけた。




