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第4章 魔神の血 2

 七都を背負ったカディナは、蝶の紋章が刻まれた扉の前に立った。


「あ、やっと着いた」


 カディナがその館の扉をたたこうとすると、扉はさっと開いた。

 中から、一人の少女――ゼフィーアが、背後に猫たちを従えて姿を現す。

 灰色のふわりとしたドレスに赤の縁取りのある漆黒の上着。緋色の長い髪が肩を覆い、複雑な細工の金の飾りが両耳に輝く。

 ゼフィーアは緑色の鋭い目で、自分よりも背の高いカディナを見つめた。


(相変わらず、怖いくらいに妖しい。この人、この魔神族の子より迫力あるんじゃないかな)


 カディナは、心の中で思う。


(この時間にもう起きてるなんて。魔法使いってのは早起きなのかしら。それか、これから寝るところなのかも……)


「こ、こんばんは。いや、お早うございます、かな。門番に頼まれて、この辺を荒らしていた下級魔神族を退治しに行ったんだけどね」


 カディナは、ゼフィーアに言った。


「それは、ご苦労さまでした」


 ゼフィーアが、そっけなく言う。


「ほら、おみやげ」


 カディナは、七都を背中からドサリと下ろす。

 ゼフィーアは、顔色を変えた。


「ナナトさま!?」


「下級魔神族に食われてた。早く手当てしてあげたほうがいいんじゃない?」

「セレウス!!」


 ゼフィーアが叫ぶ。そして彼女は、七都の胸を見下ろした。


「ああ、ひどい……」


「どうされました、姉上?」


 玄関のホールの奥から、セレウスが歩いてくる。

 彼もまた、ぐったりしている七都を見つけて、顔を引きつらせた。


「ナナトさまっ? いったい……」

「セレウス。お部屋にお運びして」


 ゼフィーアが弟に言った。

 セレウスは、七都を抱え上げる。

 七都を抱えたセレウスがホールに消えると、ゼフィーアはカディナに向き直った。


「あなたには感謝しなければ。あの方を助けて下さったのですね」

「魔神狩人としては、失格だけどね」


 カディナは呟く。

 ゼフィーアは、妖艶に微笑んだ。


「あなたの腕を治しておいて、本当によかったですわ。どうぞ、館の中へ」

「今回は、すんなり入れてくれるの」

「歓迎しますよ。どうぞお入りになって。ゆっくりおくつろぎ下さいな。でもその剣は、この館に滞在される間は、従来通り預からせていただきますよ」


 ゼフィーアは言って、白い手をカディナに向かって差し出す。

 カディナはエヴァンレットの剣を鞘ごと腰からはずして、ゼフィーアに渡した。


「抜け目ないね」

「そんなものをこの館で振り回されては、たまりませんもの。やはり、あなたは魔神狩人。気をつけなければなりませんわ」


 それからゼフィーアは、カディナのかなり後方でおとなしく座って控えている黒い犬に、ちらりと目をやった。


「残念ながら、犬は屋敷の中には入れません。猫たちが怖がりますから。ここに繋いでおいていただけますか? それとも、馬小屋にでも。けれど、馬も怖がるかもしれませんね。なにしろ、魔神狩人の犬ですもの」

「わかったよ。取りあえずは、ここに繋いどく。でも、ずっとこういうところに置いとくわけにもいかないから、あとで宿屋に連れて行く。ならいいでしょ?」

「よろしいですわ」


 ゼフィーアが、にっこりと微笑んだ。

 カディナが屋敷の中に入ると、猫たちが尻尾を高く上げて歓迎し、競うようにカディナの膝に頬をすりつけた。



 セレウスは七都を抱えて、ホールを横切った。

 七都は、細く目を開ける。


「ああ、セレウスだ。また会えたね。でも、いきなりお姫様だっこなんだ」

「また、わけのわからないことをおっしゃる」


 セレウスは、ゼフィーアと同じ緑色の目で七都を見つめた。そして、七都を抱きかかえる腕に、さらに力をこめる。

 彼は前回七都を案内した部屋のドアを開け、そこに置かれてあったベッドに七都を横たえた。


「ここ、前に来たときは、ベッドなんてなかったよね……」


 七都は、呟く。


「少し模様替えをしました。あなたがまたいらっしゃると思ったので。あなたのお部屋としてお使い下さい」

「ありがとう……」


 部屋にはベッドと棚、小さなテーブル、姿見などが追加されていた。テーブルの上にはカトゥースの花がいけられている。

 猫たちが数匹、開け放されたドアから入ってきて、ベッドの周りを歩き回った。


 セレウスはベッドのそばに屈んで、七都の頬にそっと手を触れ、やさしく撫でた。

 石畳に倒れていたせいで、七都の顔には、土がこびりついている。セレウスは、それを取ろうとしてくれているようだった。

 あの下級魔神族の冷たい手とは対照的な、熱い手。その体温に触れた途端、七都は、体の内部から不意に突き上がってくるある衝動を感じて、身震いする。

 カディナに背負われていたときは、たぶんずっと意識の奥底に押さえ込んでいた、その衝動。この前ここに来たとき、ベッドのユードと対峙して感じた、あの衝動だった。


「セレウス。わたしにさわらないで」


 七都が言うと、セレウスは少なからずショックを受けた様子で、七都の顔から手をのけた。


「申し訳ありません。苦しいのですよね。すぐに姉上が参ります」

「違う。わたしに近づいたら……わたし、あなたを襲うかもしれない」


 その時、ゼフィーアが現れた。

 熱いカトゥースのお茶が入ったポットと、カップを乗せたトレーをその手に持っている。


「どうぞ、ナナトさま、お飲みになって」


 ゼフィーアは、ベッドのそばのテーブルにトレーを置いた。


「姉上。ナナトさまのお怪我は治せますか? かなりひどいようですが」


 セレウスが、訊ねる。


「いいえ。私には治せません。魔神族の怪我は、魔神族でないと治せないのです。でも、だいじょうぶです。魔神族は、人間とは比べものにならないくらいのすぐれた治癒力をお持ちですから。たっぷり眠って、食事をきちんと取られれば、このひどい傷もすぐによくなりますよ」

「よかった……」


 セレウスが呟いた。


「セレウス。新鮮なカトゥースの花がたくさん必要です。用意してくれますか?」


 ゼフィーアが言う。


「わかりました。地下の畑から採ってきましょう」


 セレウスは明るく返事をして、部屋から出て行った。


 ゼフィーアは、カトゥースの入ったカップを片手に掲げ、七都の上半身を起こした。

 七都はそれを受け取って両手で持ち、一口飲んでみる。

 相変わらず、コーヒーの味だった。こうばしい香りが、口の中に広がる。

 七都は、その飲み物を一気に飲み干した。

 飲み込まれた熱いカトゥースは、七都の全身を巡った。

 傷が、ゆっくりと癒えていく気がする。体の細胞の、隅々にまで行き渡って――。


「それくらい見事にカトゥースを飲む元気がおありでしたら、何も心配はいりませんよ」


 ゼフィーアが、空になったカップを受け取って、微笑む。

 それからゼフィーアは、メーベルルのマントを七都からはずし、七都の傷の上に、清潔な柔らかい布を被せた。


「食事って……あなたはさっき言ったけど……」

「はい?」


 七都が話しかけると、ゼフィーアが首をかしげる。


「食事のメニューって、つまり人間なんでしょ。魔神族は人間を殺して、その血を吸って生きてる。人間の血が食べ物なんでしょう」

「少し違いますが……」


 ゼフィーアは、眉をひそめた。


「遺跡にいた下級魔神族……。人間の男の人の血を吸ってた。あたりが血だらけになってて……」


 あのおぞましい光景をまともに思い出して、七都は顔を覆う。

 七都の目から丸い透明な石が転がって、床に落ちた。

 ゼフィーアは、それを拾い上げる。


「拾わないでいいよ。あとで、自分でやるから」

「よろしいですよ。この館に滞在されている間は、あなたの涙は私が拾いましょう。あの神殿の地下広間でそうしたように」


 ゼフィーアが、呟いた。


「ごめんなさい、前回も今回も……」

「いいえ、お気遣いなく。……では、ご覧になったのですね。下級魔神族……グリアモスと呼ばれる黒い巨大な猫が、人間を残酷な方法で食べているところを。けれども、そんなふうにわざわざ血を大量に外に流して食事をするのは、作法を知らない魔神族の子供と、一部のはぐれグリアモスだけです。それは、はしたなく幼い食べ方で、魔神族からはとても嫌われていることですよ。普段、一般のグリアモスだって、そんな食べ方はしません。ご主人たちから、きつくしつけられていますから」

「じゃあ、普通は血を出さないで、獲物を食べるってこと?」

「そうです。魔神族の糧は、生物の生体エネルギー。それは、人間のものであることが多いのですけれどね。魔神族の間では、『エディシル』と呼ばれています。皮膚を深く傷つければ、エディシルは勢いよく流れ出します。血と同時に。だから、相手に深手を負わし、血と一緒に食べるのは、最も手っ取り早く簡単にエディシルを摂る方法なのです。魔神族の方々は、通常はそういう食べ方はなさいません。エディシルだけを摂取される」

「……どうやって?」


 ゼフィーアは、唇を押さえた。


「口から?」

「摂取するのは、相手の口から。召し上がるのもご自分の口からですね。あと、手……。指を使われます」


 ゼフィーアが、七都の手を取る。

 七都は、その手を払いのけた。


「ナナトさまは、まだエディシルをお取りになったことがないのですね」


 ゼフィーアが言った。


「取らない。そんなの、いらない」

「魔神族は、エディシルがないと生きてはいけませんよ」

「でも、無理だ……。結局、人間を襲って殺して、そのエディシルとかいうエネルギーをもらうってことでしょ」

「襲って殺さなくてもいいのですよ。アヌヴィムはね、ナナトさま。そのために存在するのです」


 ゼフィーアが妖しい緑の目で、七都を見つめる。


「魔神族が、見境なく人間を襲わなくてもいいように。アヌヴィムは、魔神族にエディシルを提供します。魔神族はアヌヴィムからエディシルを摂取しますが、殺しはしません。必要なときに必要な分だけ。その代償として、アヌヴィムは魔神族と取引をします。魔法とか装飾品とか武器とか、その他自分が欲しいものを魔神族から受け取るのです。魔神族の数が特に多い闇の都では、その一角にアヌヴィムの町があるくらいですよ。魔神族とアヌヴィムは、お互いに取引をし、利益を得るのです。ただ、アヌヴィムを持たないで、人間を狩って襲う魔神族も、やはり少なくはないのですけどね」

「ではあなたは、エディシルを提供する代償として、魔法を受け取っているってこと?」

「そう。だから私は、アヌヴィムの魔女と呼ばれているのですよ」

「セレウスも?」

「あの子が魔神族の方と遭遇したのは、子供の頃に一度だけ。エディシルを特に提供はしなかったようですが、なぜかその方は、あの子に魔法を使う能力をくれたのです。それはどうやら、あなたのお母様のようですね」

「お母さん……」

「けれど、その一回だけ。しかも随分昔のことなので、あの子の魔法使いとしての能力は、この先それほど持たないでしょう。魔法は定期的に受け取らないと、消えてしまうのです。おそらく近いうちに魔法が使えなくなって、ただの人間に戻るでしょうね。でも、あの子にとっては、そのほうがいいのかもしれません。この家と神殿の遺跡を守って、一生この町で平穏に暮らすほうが……」


 ゼフィーアは、冷静すぎる表情で七都を見据えた。


「ナナトさま。あなたに私たちのエディシルをご提供してもよろしいのですが、私たちはアヌヴィムの魔法使い。あなたから力をいただかなくてはなりません。でも、今のあなたにはそれは無理。あなたは、ご自分の魔力もまだ自在には使えない。幼すぎます」

「それは、認める……」


 七都は、呟いた。


「あなたの正体もわかりませんしね。ナナトさまご自身も、わかっておられない。ナナトさまと初めてお会いしたとき、シルヴェリスさまとご関係のある方だと思ったのですが、そうではないようですし。おそらくナナトさまは、魔貴族以上の姫君だろうということしか推測できないのです。ですから、残念ながら、あなたに私たちのエディシルを提供するわけにはまいりません」

「わたしも、あなたたちからはもらわないよ。たとえ魔力が使えて、正体がわかったとしても」

「では、代わりに、誰か健康な人間を用意しましょうね」


 ゼフィーアが微笑む。

 愛くるしい微笑みだったが、ぞっとするようなことを彼女は口にした。

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