第1章 開かない扉 1
七都は、あせっていた。
リビングのアイスグリーンの扉を抜け、向こうの世界から無事帰還して、二週間。
もう二週間を過ぎようとしているのに――。
扉は、開かない。
もちろん木製のドア自体は、いつでも開けることは出来る。
けれども、その向こうにあるのはコンクリートの壁。七都が向こう側の世界へ行く前までと変わらぬ、ひんやりした無機的な、平たい石の固まりだ。
何度開けても、それしか現れなかった。開けるたびに目に飛び込んでくるのは、全く同じ灰色のぬり壁コンクリート。
七都の口からは、何十回、いや、もう既に何百回になるかもしれない失望のため息が漏れるだけ。
なぜなのだ? 何が悪いのだろう。何か方法が間違っているのだろうか。
ナチグロ=ロビンは、扉を管理しなければならないのは七都だと言った。
なのに、管理するどころか満足に開けることさえ不可能な状態。向こう側のあの青い世界とリビングを繋げることは、到底出来ていなかった。
七都の意志を無視して、扉はいつも軋んだ音をたてて冷ややかに滑り、灰色の壁はそこに居座って動こうともしない。
そのナチグロ=ロビンは、相変わらず猫のままだった。
普段と変わることなくリビングのソファに丸くなり、テレビを眺め、丁寧にグルーミングをし、時々外出している。
あの美少年に姿を変えることもなかった。もちろん人間の言葉を喋ることもない。
七都が向こうの世界のことを質問してみても、<はあ? ぼくはネコだからわかりませんよ>という態度で、無反応。完璧に猫の行動しか取らない。
その日の朝もリビングに入るなり、七都は白緑色のドアを開けた。そして中を確認して、溜め息をつく。
それは、ここ二週間連続の、毎朝の恒例の行事になりつつあった。
もう、とうに夏休みは始まっている。学校のことを気にすることなく向こうの世界へゆっくり行ける、貴重な期間だ。
魔の領域にあるという風の魔王の城に行くには、当然時間がかかるに違いない。
一週間、十日……もしかすると、それ以上必要になるかもしれない。この長い休みを利用しない手はないのだ。
服と靴も用意した。向こうでの七都は、こちらの七都よりも小柄なので、小さめのサイズのものを買った。
動きやすいジーンズとTシャツ、そしてスニーカー。いろいろ考えたが、結局その服装に落ち着いた。
いつでも着替えられるよう、メーベルルのマントと一緒にきちんとたたんで、常にベッドの上に置いている。
けれどもこの調子だと、向こうに行けないまま、夏休みは過ぎてしまうかもしれない。
夏休みが終わると、また勉強漬けの日々が始まる。うんざりするような予習に復習、気が遠くなりそうな量の宿題、学園祭を控えたクラブ活動だってある。
異世界のことなんて、その生活に入り込ませる余地などありはしないのだ。いや、あまり入り込ませたくはない。こちら側の自分の生活を守るために。
出来れば、この夏休みで一応の決着をつけたい。
風の魔王リュシフィンに会って、確かめるのだ。母のこと、そして、自分が何者であるのかも。
だから、七都はあせるのだ。
あせったからといって、当然扉は開かなかったが。
イライラしたって仕方がない。辛抱強く、扉が通じるのを待たなければ。
そう思ったりもするが、一日に何度も緑のドアを虚しく開けてしまう。
「今朝も、駄目みたいね」
果林さんが、ドアの前でうなだれている七都に言った。
「ロビンは?」
「朝早くから出て行ったわ。散歩でしょうね」
いつもソファの定位置に丸くなっているナチグロ=ロビンは、今朝はいない。
彼が出て行ったということは、扉が向こう側に通じることを全く期待していないということになる。
じゃあ、きょうも扉は開かないんだ。
七都はあきらめて、テーブルについた。
食卓には、いつものように、果林さんが作った朝食が並ぶ。
ハムエッグのポテトサラダ添え、ヨーグルトのフルーツサラダ、果汁を絞ったオレンジジュース。自家製ジャムに手作りのマフィン。もちろんピクルスも。
夏休みも果林さんは手抜きをせず、栄養のバランスを考えて、きちんと昼食も作ってくれる。
カップラーメンでいいのに。なんて、やっぱり口が裂けても言えなかった。
テーブルの真ん中に、ハーブをいけたガラスコップが置かれてある。
蝶の模様が刻まれた透明なコップ。それは、七都が向こう側の世界から持ってきたコップだった。
セレウスが用意し、遺跡の地下に置いてあったもの。ナイジェルとゼフィーアが七都の涙を入れてくれたもの。
今はそれには、ハーブが数本――セージとローズマリーが入れられている。
セージの香りはそれほどきつくはないが、ローズマリーは涼しげな香りをキッチンに漂わせていた。
庭のハーブを取って来てコップに入れ、そこに置いたのは七都だ。
向こうの世界のことを忘れないように。夢ではないということを確認するために。そして、いつも思い出すように。
たくさん植わっているハーブの中からセージを選んだのも、向こうで出会った少女の名前と同じだったからだった。
カトュースのおかげでハーブに興味を持った七都は、取りあえず庭のハーブから、少しずつ名前を覚えることにした。
「夢だったらいいのに」
果林さんが、呟いた。
「え?」
「ドアを開けたら異世界があるなんて。嘘だわ。みんな夢を見ていたのよ」
「……夢じゃないよ」
七都はコップを持ち上げて、かざした。
「ほら、これがその証拠。他にもマントもあるから」
「そのコップは、たとえば、ナナちゃんが雑貨屋さんで買ってきたもの。マントはゴスロリのお店で買ってきたもの」
「違う。わたしは気に入ったコップがあったら、一個だけなんて買わないもの。三個買うよ。家族みんなで使えるように。それに蝶が苦手だから、絶対ちょうちょの模様のコップなんて買わない。だいたいこの辺にゴスロリのお店なんてないよ。あっても行かないし」
「ドアを開けても異世界は現れないんだから、このまま平和に暮らせない? 今までと同じように。何も変わりなく」
「果林さん……」
七都は、果林さんを見つめた。
果林さんは観念したように肩をすくめ、笑う。
「冗談。言ってみただけ。そうよね。ナナちゃんは異世界に行かなきゃならないものね。ああ、やっぱり、なんてシュールな会話なんだろ」
果林さんは、まだこの奇妙な状況を受け入れられないようだった。
無理もない。常識では考えられないことだ。リビングのドアの向こうに別の世界があって、娘がそこを行き来するなんて。
受け入れろというほうが、無理なのかもしれない。
七都自身、正直なところ全部夢だったのじゃないかと、未だに心の片隅で疑っていたりもするのだから。
「何か、そういう症候群があったわよね」
果林さんが言った。
「子供が結婚したり、進学や就職で自立したあと、主婦が陥っちゃうっていうやつ。私、それなのかなあ。でも、ナナちゃんは結婚とかじゃなくて、異世界に行っちゃうんだけど」
「あのね、わたしは向こうに行っても、また帰ってくるから。わたしの家はここなんだよ」
七都が言うと、果林さんは消え入りそうな微笑を浮かべた。
「央人さんも、そんな感じで毎日そのコップを眺めてから、会社に行くの」
「え?」
七都は、思わず手に持ったコップを見下ろした。
「わかってる。央人さんの目には、コップを突き抜けて何が映ってるのか……」
「果林さぁん……」
「冗談。冗談だってば」
果林さんは言って、七都の紅茶をティーカップに注いだ。
おそらく『冗談』ではないのだ。
大人の当たり障りのない冷静な行動は、七都にはよくわからないことはあるが、果林さんの今の心理状態は、なんとなく理解できる。
今まで平和に暮らしてきたのに、突然現れた扉の向こうの異世界。
七都もそこに行ったし、また行こうとしている。そしてそこには、七都の本当の母もいるらしい。
おまけに父も、当然その世界のことを知っている。その世界に属するものを眺めて、物思いに耽っている。
置き去りにされているのは、果林さんだけだ。
父は、果林さんをフォローしなければならないのに、たぶんしていない。
相変わらず忙しいようで、六時には家を出るし、帰りは十一時を過ぎている。そして、休みの日も会社に出かけてしまう。
七都も、父とは向こうの世界のことを全く話せていないし、果林さんも、まともに話が出来ているかどうかあやしい。おそらく父は、帰ってきても遅い食事を取り、風呂に入ってあとはただ寝るだけの生活だ。
「央人さん、きょう、お弁当忘れて行っちゃったの」
果林さんが言った。
カウンターには、青海波模様のナプキンで包まれた、四角いお弁当箱がぽつんと乗せられていた。
「届けるのも大変だし、央人さんには外食にしてもらって、ナナちゃん、お昼、これ食べる?」
「あ、わたしがお父さんに届けてもいい?」
七都は、小さく手を挙げた。
そうだ。これはもしかして、チャンスかもしれない。父とゆっくり話す時間を作れる、貴重な機会。
突然、そんな考えが浮かんだ。
「ナナちゃん、行ってくれるの? 助かるわ。でも、往復2時間以上かかるわよ。暑いし」
「だいじょうぶ。暑さには慣れてる」
そう。真夏の昼間の暑さは、向こうの世界の太陽の暑さといい勝負だ。
両方とも克服してみせる。
「じゃあ、央人さんと一緒にお昼食べて来たら? 今から、ナナちゃんの分のお弁当も作るから」
「いいよ。手間でしょ。私は、コンビニでパンでも買うから」
「だめよ、コンビニなんて。女子高生は、ちゃんと栄養を取らなきゃ」
果林さんは、こわい顔をして言った。
朝食を済ませたあと、七都は高校の制服に着替えた。
紺と白のセーラー服は、夏の朝によく映え、涼しげだった。
だが、それは見た目だけで、実際着ている本人は結構暑かったりする。特に襟の部分は布が何枚も重なっているので、かなりきつい。そこだけ蒸れて、汗でべったりしてしまう。
「制服で行くの?」
果林さんが、ちょっとあきれ気味に言う。
「うん。だって、私服で行ったら完璧に浮いちゃうでしょ。ビジネス街だし」
「まあ、その制服にはファンも多いから、そういう意味でも正解かもね」
七都は、ソファの上に無造作に置かれている書類に目を留めた。
学校のパンフレットだ。ケーキにパン。野菜の料理。おいしそうな写真が、見映えよいレイアウトで並んでいる。
「専門学校? 果林さん、行くの?」
「もう料理教室は行き尽くしたから。今度は本格的に学校に行ってみようかと思って。コーヒーのことも勉強するから、ナナちゃんにおいしいコーヒーを入れてあげるね。学費は結婚前にためた貯金があるから大丈夫よ。家事もおろそかにはしないから。央人さんにはまだ言ってないけど、反対はされないと思うの」
「うん。期待してるよ。頑張って。わたしも協力する」
でも。
これってやっぱり、わたしが向こう側に行ったことと関係ないわけないよね。
七都は、後ろめたく思う。
果林さんは、今までの週一回だけの料理教室ではなく、ほぼ毎日通わなければならない専門学校に行くことを突然決めてしまった。
それは、目をそらすため。ごまかすため。今のこの奇妙で受け入れがたい状況から。
たぶんそうなのだ。
「央人さんには、電話しとくから。お昼ごはんは、ナナちゃんが持って行ってくれるって」
果林さんに見送られ、七都は二人分のお弁当をさげて、家を出た。
お弁当はずしりと重く、やっぱりその重みは、果林さんの愛情もたっぷり入っているせいもあるのだろうと、七都は思った。