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No Title  作者: ころく
9/85

No.8 シンショク カテイ

7/15


 今日は昨日と同じく、気持ちいい程に快晴。同じく気温も軽く三十度超え。

 暑苦しい教室では、そんな事は関係無しに授業が行われている。二時限目の時間帯でこの気温なら、午後はもっと大変だろう。

 あまりの暑さに、教室にいる奴等は溶けてしまってバターにでもなるんじゃないか。

 なんて、机の上に開いている教科書に頭を乗っけて、くだらない事を考えている。

 今日は遅刻もせず、珍しく一時限目から授業を受けているものの、この暑さでやる気が蒸発してしまった。

 元々真面目に授業を受けるつもりはなかったクセに、と言われてしまったら何も言い返せないが。


 外から入ってくる直射日光を遮る為の白いカーテンが、時折吹く小さい風に揺らされて無邪気に踊る。

 それをボーッと見ているだけで、黒板に書かれている字を書き取ろうともしない。それどころか、ノートは机の上にあっても開かれてすらいない。

 しかし、俺の姿は後ろで前の席の生徒に隠れているせいで先生は気付いていない。

 それ以上に、今は歴史の授業なんだが、その歴史の先生が結構な歳だからってのが気付かれない一番の理由だと思われる。


 教室にはカツカツと黒板がチョークを削る音が響き、窓の外からは蝉の鳴き声と体育をしている生徒の声。

 炎天下でのマラソンをしている生徒の声は、助けを求める悲鳴にも聞こえる。

 わざわざこんな日にマラソンをさせる体育教師は何を考えているんだか。

 上半身を起こして椅子の背もたれに寄り掛かる。教室を見渡すと、みんな長々と黒板に書かれた字を書き写している。


 そんな中、三人ほど机にうつ伏せている男子生徒が。

 さっきも言ったように、歴史の授業は滅多に注意されない為、生徒の間では楽な授業だと言われている。

 生徒からすれば、楽な授業というのは受けてて楽しいか、または寝れるかのどちらか。見て分かるように、歴史の授業は後者だ。

 自分も何度か寝ようと試みたのだが、この暑さで寝れなかった。だから何をする訳でもなく、ただ呆然と時間が過ぎるのを待っている。

 暑い中、暇をするのも楽じゃない。

 隣の席の桜井は真面目にノートの書き写しをしている。教科書に書いてある事と大して変わらないのに、ちゃんと書き写すなんて偉いねぇ。


 アレだな、桜井って宿題とか見せてって頼まれるタイプだよな。

 見た感じしっかりしてそうで頭も良さそうだし、これが本当の優等生ってヤツなんだろう。

 俺とは正反対だね。なんか印象を勝手に決め付けちゃってるけど。

 さて、このクラスには仮初めながらもう一人の金髪をした優等生がいる。しかし、その仮初めの真実を知っているのは俺だけ。

 その真実をバラして、優等生の座からズリ落としてもいいんだが……いかんせん、クラスの立場的にそれは無理だ。

 サボり常習犯の不真面目君じゃあ、何を言っても無駄ってもんですよ。


 仮初め優等生は人気者であり、味方であるクラスの女子生徒に白い目で見られて終わり、ってのが目に見えてる。

 人の心を持つ者として、そんなキツイ事は避けたい。なので、現状維持が一番安牌って事でダンマリを貫いている。

 しかし、その優等生は本日お休み。朝のホームルームで、担任が夏風邪で欠席だと言っていた。

 昨日は仮病で早退、三日前も同じ理由で休んでいた。多分、またどっかでSDCについて調べてるんだろう。

 勉学じゃなく調査がアイツの本職だからな、しょうがないか。何かあるなら向こうから連絡が来るだろうし。

 俺は俺でやらなくちゃならん事をやらねぇと。


 その内の一つはSDCってのは当然だが、他にもやらなくてはならない事がある。

 気付けば、今は七月中旬。

 あと二週間もすれば楽しい楽しい夏休みが始まる。が、当然その前に必ず行われるものがある。

 そう、期末テストだ。赤点取って夏休み中に補習だなんてのは勘弁。

 いくら今までは赤点を取った事が無いと言っても、授業をサボっている以上それなりに自分で勉強しなければならない。

 そんな訳で、SDCも大事だが、まずは目の前にそびえ立つ邪魔くさいテストと言う名の山を登らないといけない。

 テストは来週だから、そろそろ勉強をやり始めないとな……。

 とか思っていながらも、やる事がなくて暇をしているこの時間に少しでも勉強をすればいいのに、全くをしようとはしない。

 理由は簡単、暑いから。


 キーンコーン……二時限目の授業終了の鐘が鳴った。挨拶をして先生が教室から出て行き、教室内が騒がしくなる。

 結局、最後まで真面目に授業を受ける事もテスト勉強をする事もなく、寝る事すら出来ずにただダラダラと無駄な時間を過ごした。

 休み時間に入り、次の授業の準備をしている生徒や、下敷きを団扇の代わりにして扇いでいる生徒が目に入る。

 しかし、殆んどの生徒が荷物を持って教室から出ていく。次々と生徒が出てき、人が少なくなっていく教室。


「あれ、次の授業ってなんだっけ?」


 隣の桜井に聞こうにも、既に桜井も教室にいなかった。

 困ったな、と頭を掻きながら教室を見渡す。

 すると、教室の壁にクラスの時間割表なる物が貼ってあるのに気付く。時間割を見ると、次の授業は体育だった。


「あぁ、だからか」


 って事は、出て行く生徒が持っていった荷物は体育用のジャージか。

 この学校は男子、女子共に更衣室が別の場所にあり、体育がある度に着替える為に移動しなくてはならない。


 当然、授業の合間の休み時間に着替えて体育館やらグラウンドに集まる。

 既に休み時間の半分は過ぎている。急いで更衣室に行って着替えないと間に合わない。

 が、この暑さの上に、先程の歴史の授業中に窓から見えたマラソンをしていた生徒を思い出すと当然……。


「サボろ」


 となる。

 机の横に掛けておいた鞄を取って教室から出る。真っ直ぐ屋上には行かず、階にある売店に向かう。


 売店が開くのは大体四時限目の授業が終わる十分くらい前からで、今はまだ開いていない。それを利用して、俺のようなサボり組はフライングをして人気商品も楽に買えたりする。

 だけど、今は食い物を買いに来たのではなく飲み物を買いに来た。

 閉まっている売店の隣に置かれている自動販売機の前に立ち、財布を取り出す。

 普通の自販機なら、一本だいたい百二十円で売られているが、この校内にある自販機は全てワンコイン。つまり百円で買える。

 これは金の無い学生からしたら大分嬉しい事だ。たかが二十円、されど二十円。

 自販機に百円玉を入れてボタンを押し、ジュースが落ちてくる。


 買ったジュースを片手に持って、いつもの場所に向かう。

 二階から三階に続く階段を上り、屋上への階段を上る前にチラリと一年生の教室がある廊下を見る。

 当然ながらタイミングよく沙姫がいる訳もなく。

 むしろ休み時間が終わる頃だから、廊下に出ている生徒は数える程しかいない。

 なんとなく見ただけなので、すぐに階段を上って屋上へ行く。

 屋上へ出れる鉄製の扉のドアノブに手をやり、開けようとするが手を止める。


「別に外じゃなくてもいいか」


 考えてみたら、サボるからってわざわざ暑い外に出なくてもいいんだよな。

 ドアノブから手を離して、左に九十度回転。二、三歩進んで地べたに座る。

 壁に背中を預け、ズルリズルズルとずり落ちて背中は壁から床へ移動。

 肩から上だけが壁に寄り掛かっている形になり、寝そべった感じになった。

 本日のサボり場所はここ、屋上入り口の踊り場になりました。床のタイルが冷たくて気持ちいい。

 不思議とここの踊り場だけは他の所と比べて涼しい。窓が無くて陽が当たらず、人も滅多に来ないからだろうか。


 学校の七不思議によくある『階段の段数が増える』ってのが屋上に続く怪談だったりする。

 それが霊的な関係があって周りより寒いと感じたりしてる、とか?

 でも、俺は自分が霊感が強いとは思わないし、今までに霊やら妖怪なんて見た事ない。

 それとも、本当は普段から霊を見ているのに、それを霊だと気付いていない……ってのはねぇな、さすがに。

 さっき買ってきたジュースの側面に付いているストローを取り、パックの差し込み口に入れる。

 量的には缶ジュースの方が多いのだが、目に入ったらなんとなくコーヒー牛乳が飲みたくなってこれにした。

 ストローを通してコーヒー牛乳を飲む。暑くて体温が上がっており、口から喉、そして食堂から胃へと冷たいのが流れていくのが分かる。


「あー……」


 ストローから口を離して、気の抜けた声と一緒に息を吐く。

 暑さからの解放と、乾いていた喉が潤されて大きな溜め息が出た。

 制服のズボンの後ろポケットから財布を取り出して中を開けて見る。中には紙幣はなく、小銭だけが入っている。

 レシートはいらない位にあるんだけどな。


「さすがに補充しないとキツイか……」


 別段やる事もなく、携帯電話をいじって暇潰しをしていたら、踊り場の調度いい涼しさで睡魔が襲ってきた。

 瞼を閉じると視界は真っ暗になり、段々と意識が薄くなっていく。

 睡魔に抵抗する事無く、俺は夢の中へと誘われていった。




    *   *   *




 結局、いつも通りの昼寝になった。

 昼休みに目が覚めたのだが、午前の授業中の暑さを思い出したら動きたくなくなった。

 なので午後もそのままサボって、ここで何をする事もなくダラダラと時間を潰す。

 二度寝どころか四度寝ぐらいして、あっと言う間に放課後になっていた。

 自分でもうちょっと有意義な時間の過ごし方を考えた方がいいんじゃないか、と思ってしまう。

 寝転がったままの状態でポケットから携帯電話を取り出し、時間を確認する。四時になる十分程前。もう他の生徒は帰ったり部活をやり始めてる時間だ。

 立ち上がり、手を天井に向けて背伸びをする。硬い床で寝てたせいで、身体の所々が痛かった。


 今日はバイトが五時から入っている。

 まだ早いけど、やる事もないし……もう行くか。バイトを辞めたいって店長に話さないといけないし。

 まぁ、いくら何でも今月中にやめれはしないだろうな。今月のシフトはもう組まれているし。

 床に置いていた鞄を拾って階段を降りていくと、空気の温度が高くなっていく。

 屋上入り口の踊り場と一年生廊下前の踊り場じゃあ、二度ぐらい温度差があるんじゃないか?

 放課後になり、人が少なくなった廊下を見ながら階段を降りて二階へ。そのまま二階をスルーして行くつもりだったが、ある事を思い出す。


「あ、そうだ。教科書」


 テストが近いんだから、持って帰らないと勉強のしようがない。

 降りようとした階段を回れ右して教室に向かう。今の時間なら、担任に見つかる事もない。

 教室に着くと、入り口のドアは開けっ放しになっていて生徒の話し声が教室から漏れて聞こえてきた。

 女子生徒が三人机を囲んで雑談おり、中に入ると三人全員の視線が俺に集中される。

 別に何かした訳でもないのに気まずく感じるのは何故だろう。向こうからすれば、教室に誰かが入ってきたら見ただけなんだろうけど。


 あ、気付けば三人の中に桜井が入ってる。じゃあ、あと二人は桜井の友達か。

 一人はショートで、もう一人はセミロングの髪型をしている。

 サボってた俺が言うのも何だけど、まだ学校にいたんだ。部活とかはやってねぇのかな。

 そんな事よりも教科書だ。さっさと取ってこの気まずい教室から出ないと。

 入り口から自分の席まで移動するが、なんかいつもより遠く感じる。

 桜井と他二名の女子生徒は一つの机を囲むように、お喋りを再開する。俺が廊下で聞こえてきた声より明らかに小さくなり、ヒソヒソと聞こえないように喋っている。

 俺が教室に来て桜井達の話の邪魔をしたと思えて、悪い事をした気がしてならない。

 しかも、これ見よがしに声をあそこまで小さくされると、なんか俺が話のネタにされてるんじゃないかと思う。

 サボり常習犯で不真面目だからな、そんな俺がいきなり放課後の教室に来て教科書を持って帰るんだ。変に思われても仕方がない。

 早く教科書を鞄に入れて、こんな居づらい空気プンップンの教室から出ないと。

 えーっと、テスト初日の教科ってなんだっけ? と思い出そうと考えようとしたが、早く教室から出たいので全教科の教科書を鞄に入れる。

 全部鞄に入れ終わり、鞄を閉めようとした時。


「咲月君」


 桜井に声を掛けられた。

 声を掛けられるなんて全く予想だにしていなかった為、うおっ! と驚いて声を出しそうになったが、気合いで抑える。


「まだ学校にいたんだ」

「あー……サボって寝てたから」


 桜井の友達二人の視線を感じながら会話をして、鞄のファスナーを閉める。


「テスト近いけど、大丈夫?」


 もうテストまで一週間を切っているのにサボってるからな。周りから見たら赤点は確実だと思われてるんだろうなぁ。


「まぁ、なんとかなるモンだよ。意外と」


 このまま話が長引くのはご勘弁願いたい。だから鞄を肩に掛け、もう帰ります。とそれとなくアピール。

 肩に掛けた鞄は、さっきまでとはまったく別物のように重い。これが本来の鞄の重みか。


「そ、そうなんだ」


 桜井には悪いが、会話が広がるような返しをしない。他の時なら構わないが、今の教室の空気だけは耐えられない。

 椅子を机の下に入れて、教室のドアへ向かう。


「あ……さ、咲月君!」


 ドアの目の前まで来た所で、桜井に今度は少し荒げた声で呼ばれた。


「ん?」


 振り返って桜井を見る。


「あっと、その、えと……じ、じゃあね。月曜日、遅刻しないようにね」

「ん、遅刻はわかんねぇけど」


 教室から出て、心持ち早く廊下を歩く。

 廊下を半分ぐらい歩き、一度後ろに振り返る。廊下に誰もいない事を確認して大きな溜め息を吐く。


「っはぁ、居づらかったぁー」


 別に読感術を使ってた訳でもないのに、物凄く場違いな雰囲気が感じられた。

 そりゃな、放課後の女子だけの会談なんて男である俺が居るべき場所じゃねぇもんな。

 ……沙姫なんかは気にしなさそうだけど。

 握っていた右手を開いてみると、手の平にじんわりと汗をかいていた。


「ま、いいや。バイトに行かねぇと」


 時間はまだ余裕があるんだが、なんか早く学校から出たくなった。

 汗をかいた右手の手首を振って汗を乾かしながら廊下を渡り、階段を降りる。

 下駄箱で上靴から外靴に履き替え、昇降口から外に出た。時刻は四時を過ぎたと言っても、昼間と変わらず暑い。

 太陽もまだ空から顔を出している。あと二、三時間もすればお月様と交代なんだから、少しくらい温度を下げて欲しい。

 放課後で静かになった校内とは逆の、部活動で賑やかになってる学校の敷地内を歩く。体育館の周りをランニングしている運動部や、俺と同じく鞄を背負って帰る生徒が目に入る。


 バカみたいに長い坂を下って、さっさと学校から出る。いつもの何十倍もの重さの鞄のせいで、早くも肩が痛くなってきた。

 全教科の教科書が入ってりゃ、それ相応の重量にはなるよな。

 ズレ落ちてきた鞄を肩に掛け直し、暑さに耐えながらバイト先へと足を運ぶ。

 一定速度で歩いているのに、信号に捕まって足を止めた途端、ムワリと身体から熱気が立ち上る。汗も額から顎に垂れてきた。

 背中なんてもうびしょ濡れなんだろうな。確かめてないけど。

 信号は青に変わり、止まっていた人達が一斉に動きだす。その中に混ざって横断歩道を渡る。

 コンビニに着けば、エアコンがガンガン効いてある天国が待っている。それを頭の中で何度も繰り返して足を動かす。

 別に俺が通っている学校はバイト可能なので、バイトをするのは問題ない。だが、バイト中に先生とかが来たら嫌だった為、バイトしているコンビニは学校から少し離れた所にある。自分で選んだとはいえ、この距離はちとキツイ。


 学校を出てから約十五分後、暑さに戦い抜いてようやくコンビニに着いた。自動ドアが開き、中へ入る。

 外とはまったく逆の冷たい空気。地獄から一気に天国へコンニチワ。

 制服のワイシャツの襟元を掴んで、バッサバサと服の中の空気の入れ換えをする。コンビニの中には立ち読みをしている客が1人だけ。

 この時間帯では珍しい客の少なさだ。


「あら、咲月ちゃん?」


 レジのある方向から自分の名前を呼ばれた。空気の入れ換えをしていた手を止めて、レジの前まで歩く。

 コンビニの冷たい空気に触れて、Yシャツの汗で濡れていた部分が肌に当たると冷たかった。


「どうもです、店長」


 レジ前に立っていた人物に頭を軽く下げて挨拶をする。


「すごい汗じゃない。今日は特に暑いものねぇ」


 そう言いながら店長は、入り口の方を向いて外を見ている。ちなみに、店長は女口調ではあるがれっきとした男だ。しかも、筋肉質で妙にガタイがいい。

 本当にソッチ系なのか、ただのキャラ作りなのかは不明である。というか、確かめる勇気が俺にはない。

 下手になんか言って逆鱗にでも触れたら、何をされるか分かったもんじゃない。

 それに、敬語が苦手ですぐタメ口になってしまう俺だが、何故か店長だけには今まで一度もタメ口になった事がない。

 多分、俺の本能が無意識に何かを感じ取っているんだろう。


「こんな暑い中、わざわざ来るなんて何か用?」


 店長は外に向けていた顔をこっちに向ける。


「用も何も今日、俺シフト入ってたじゃないですか」


 じゃなきゃ店長の言うように、わざわざバイト先にまで来たりしません。


「え?」

「え?」


 店長は俺が発した言葉に疑問文で返してきた。そして、それをさらに疑問文で返す俺。

 あれ、もしかして俺……やっちまった? バイトのシフト表を見間違えちゃった?


「もしかして今日はバイト入ってなかった、とか?」


 自分の顔が段々と引きつっていく。

 このクソ暑い中、学校から近いとは言えない距離を歩いて来たというのに……読んで字の如く、全くの無駄足だったと。


「いえね、シフトは入ってたけど……」


 しかし、俺の予想はハズレた。

 なんだよ、ちゃんと今日で合ってたんじゃねぇか。ホッと胸を撫で下ろす。


「でも咲月ちゃん、辞めるんじゃなかったの?」


 店長は頬っぺたに人差し指を当て、『違うの?』と目で言ってくる。

 女の子がそういう仕草をしたら可愛いんだろうが、店長がそんなのをしても可愛くも何ともない。むしろはっきり言って気色悪い。


「いや、でも……あれ? 俺、店長に辞めるって話、しましたっけ?」


 頭ン中をほじくり返して考えてみても、そんな記憶は全くない。と言うか、今日のバイトに早く来たのはその話をする為だったんだ。話している筈がない。


「昨日電話で言われたのよぉ、咲月ちゃんがバイト辞めたいって」


 昨日……? 当たり前だがそんな覚えはない。昼間は白羽さんと会ってたし、沙姫ン家から帰った後は適当にテレビを見て寝た。


「俺、電話いつしました?」


 やはり、いくら思い返してみても心当たりはない。俺の無意識領域が知らぬ間に連絡していたのか?


「やぁねぇー、咲月ちゃんじゃないわよ」


 店長は左手で口を隠し、右手で軽く叩くそぶりをする。近所のおばさんとかがよく、井戸端会議なんかで『ちょっと奥さん!』なんて言う時にするモーションだ。


「俺じゃない?」


 じゃあ誰だ? と言うか、本人じゃない奴に言われたのに辞めさせるってどんだけよ。本人の承諾も無しに。


「名前は白羽さん、とか言ってたわね。カッコいい声してたわぁ、惚れちゃいそうだったもの」


 白羽さん、アンタかぁぁぁぁッ!!


「あら、もしかして違ったのかしら? 咲月ちゃんの知り合いって言ってたけど」

「いやぁ、まぁ合ってますけど……」


 物凄く叫びたい気持ちを理性で抑える。大声を出すべき相手は店長じゃない。本人をほっぽって勝手に電話で辞めると話を進めた奴にだ。


「じゃあつまり、白羽さんから俺が辞めると聞いて、それを全部信じた訳ですか?」


 本人の俺になんの連絡も確認も無しに。


「だって保護者って言っていたし、咲月ちゃんの生年月日や住所も知ってたからねぇ」


 昨日話をした時に、俺の事を調べたって言ってたからな。生年月日と住所ぐらいは知ってるだろ。


「それに、あんないい声をして悪い人な訳ないわ。私、これでも男を見る目は確かなのよ」


 とか言いながら店長の目が鋭く光る。いや、鋭いじゃない。怪しく光る。

 うーん……どうやら店長は本物っていう線が濃くなったな。てか、電話じゃ男を見る目は関係ないでしょ。顔が見れないんだから。

 でも、これで辞めれるなら話は早いか。本人そっちのけでバイトを辞めれるこの店長に少し不安は残るが。


「とにかくまぁ、聞いているなら話が早いです。そういう訳なんで、勝手で悪いですけど……」

「咲月ちゃんがいなくなるのは淋しいけど、しょうがないものね」


 ふぅ、と溜め息を吐く店長。

 シフトを変えてもらったり、売れ残った弁当をもらったり、よくしてもらってただけに罪悪感を感じる。


「でも、新しいバイトが代わりに今日から入るからね。シフト的には問題無いのが救いね」

「え、新入りが入るんですか?」

「入るわよぉ。でなきゃ咲月ちゃんを辞めさせるなんて出来ないわよ」


 なんか……タイミングが良すぎないか?

 俺が辞めるって店長が知ったのは昨日だぞ。それなのに一日しか経ってないのに新入りが入るのはおかしいだろ。……白羽さん臭がするな。


「三日ぐらい前かしら、女の子がバイトしたいって来てね。咲月ちゃんが辞めたいって聞いたから、昨日その娘に電話で採用の連絡をしたのよ」


 三日前って事は、これは白羽さんの仕業じゃない……と思っていいのか?

 新入りが白羽さんが仕向けたと考えるにしても、白羽さんと会ったのは昨日だから日にち的に合わない。

 それとも、俺がバイトを辞めると決める二日前から、それを予期していたってか。

 それはさすがにないか。もしそうだったら、どんだけ先読みしてんのよ。って話だ。いや、そこまで来るともう予知だな。


「その時一緒にね、今日から出れないかって聞いたらOKだったのよ。シフトに多少の変更はあるだろうけど、咲月ちゃんが入ってた所に入れるつもり。だから、咲月ちゃんがすぐ辞めれるのはその娘のお陰って事になるわね」


 本当にたまたま新入りが入っただけ、か? どうもまだしっくりこないな。考えすぎか?


「そうか、新入りに感謝しないといけねぇな」


 白羽さんのせいか本当に偶然か、どちらにせよ、その娘のお陰なのは変わらないからな。


「店長は今日は五時上がりですか?」


 この時間にいるって事は朝番だろう。このコンビニは朝九時から午後六時までが朝番として分けられている。


「今日は延長して十時までなのよぉ。新入りちゃんに教えてあげないといけないからねぇ、手取り足取り」

「……店長が言うとなんか嫌らしいんですけど」


 店長の言葉を聞いて背筋に嫌な寒気を覚える。


「新入りなんですから、変な事しないでくださいよ?」

「失礼ね、女の子には手は出さないわよ」


 ……それは男なら手を出すと受け取っていいのか?

 俺、辞めて正解だったかもしれない。よく一年以上もここで何事も無く働けたな……。

 あれ、もしかして店長に弁当貰ったりよくされてたのって……ゾゾゾゾッと身体中に悪寒が走り渡る。


「そ、そろそろ5時になるんで俺はこれで……」


 悪寒を振り払って逃げるように入り口へ向きを変える。


「あ、そうそう。今月出てくれた分はもう振り込んでおいたから。今までご苦労だったわね」

「いえ、俺の方こそ今までお世話になりました。それに最後には急に辞めたりして……」

「いいのよぉ。誰にだって都合があるじゃない。それに、男の子の店員はまだいるしねぇ」


 すいませんでした、と言おうとした所を店長が乗っかってきた。

 『私は悪いと思ってないんだから、謝らなくてもいのよ』という意味なんだろう。

 最後の一言がなければ、素直に感動できたんだけど。


「それじゃ、本当にお世話になりました」

「たまには遊びに来て、店に貢献してってね」


 頭を下げて一礼して、コンビニから出る。

 外に出ると、再び熱い空気がまとわり付く。しかし、今はそんな事を気にする暇はない。

 歩いてコンビニにから離れながらズボンの左ポケットに手を突っ込む。ポケットから携帯電話を取り出して画面を開く。

 電話帳から、とある人物の電話番号を探し出して速攻で電話を掛ける。歩く足は金を下ろさないといけない為、銀行へ向う。

 しかし、なかなか出ない。電源を切っていたり電波が入っていなかったら諦めるが、繋がりはするなら出るまで掛けてやる。

 四十秒程掛け続けた辺りで、電話の発信音が止まった。止まったのを確認してから大きく息を吸い込んで……。


『もしも……』

「どういう事だテメェ!」


 一気に吐く。電話相手の声をかき消して大声で叫ぶ。

 道のど真ん中だったので当然、何人かがこっちを見る。だがそんなのは気にならない。と言うか見られているのに気付かない。


『……なんだ、いきなり大声で』


 電話に出た途端に大声を出されて、耳を痛くしたのかエドは少し不機嫌そうな喋り方だ。

 しかし、そんなのは関係ない。不機嫌になるべきなのはこっちだ。


「なんでもう既に辞めた事になってんだよ!」

『辞めた? 何がだ?』

「バイトだよ、バイト! 俺の知らない所で話進めやがってよ!」


 声の大きさを変えず、そのまま話す。すれ違う人が声に反応して何事かと俺に視線を向ける。


『早いな、もう辞めたのか』

「辞めたんじゃねぇ! 辞めさせられてたんだ! 過去形だよ、過去形!」

『辞めさせられていた……? ハハッ、なるほどね。白羽さんか』


 電話の向こうでエドの笑い声が聞こえてた。


「笑い事じゃねぇよ。こっちは本人が置いてきぼり状態だったんだぞ!」

『あの人、行動に移すの早いからな』


 クックッ、と電話先でエドは声を抑えながらまだ笑っている。こっちは真剣なだけに、その笑い声は少し腹立たしく感じる。


『ちょっと待ってろ。連絡してみる』


 こちらの返事を待たずに、一方的に電話を切られた。耳から電話を離して画面を見ると、切られたので当然待ち受け画面に戻っていた。

 まだ吐き出し切れていない怒りが残り、その怒りのやり場のなさから携帯電話を強く握り締めてしまう。

 携帯電話がミシリと音を立てたが、携帯を労る気持ちよりも怒りが勝っていた。すると、電話の着信音がなる。

 ピリ――ピッ。


「おいテメェ!」


 着信音がなったのとほぼ同時と言ってもおかしくない速さで電話に出る。


「勝手に電話切りやが――」

『咲月君かい? どうも、白羽だ』


 しかし、掛かってきた電話の相手はエドではなく白羽だった。


「あ……え、白羽さん?」


 てっきりエドだとばかり思っていたので、声が素の大きさに戻った。


「エドから電話が来てね。番号を教えてもらったんだ」


 エドと間違えた事など気にもせず、相も変わらず涼しげな口調の白羽さん。


「バイトの件はすまなかったね、勝手に話を進めてしまっていて。今日にでも連絡しようと思っていたんだが、仕事が長引いていて出来なかった」

「本当だよ。こっちはシフトが入っていたからバイトに来てみれば、もうやめた事になってんだもんよ」


 ふぅ、なんて溜め息が口から漏れた。マイペースと言うか冷静と言うか、そんな白羽さんに対して出た溜め息ではなく。

 ついさっきまで頭に血が昇っていたのに、電話の相手がエドではなく白羽さんに変わっていて、拍子抜けしてしまった自分にだった。

 白羽さんがバイトをやめさせた本人であり、エドじゃなく白羽さんが本来の怒りを向ける相手。

 なのだが、頭に血が昇っている状態で白羽さんの連絡先は知らず、知ってるのはエドの携帯番号だけ。

 そうなると、怒りのぶつけ先はエドしかいない。そして、そのぶつけ先と電話をして怒りをぶつけている途中に電話を一方的に切られる。

 言いたい事の半分も言っていないのにそんな事をされたら、頭に昇っていた血が沸騰もする。


 掛け直してきた電話を出ると同時に、再び怒りを言葉に変換して叫ぶ。が、電話の相手がエドから白羽さんへと変わっていた。

 急に相手が変わったのと、いきなり叫んだのに何もなかったかの様に淡々といつもの口調で話す白羽さんに、なんだか気が抜けて怒りはどっかに消えてしまった。

 正しくは、白羽さんに怒りの勢いを消されてしまったのが一番の理由か。怒りってのは一度納まるとそのまま引っ込んじまうからなぁ。


「昨日の今日によくやめさせる事が出来たもんだよ」

『交渉なんかには慣れていてね。それに、話の分かる店長さんだったよ』


 それは店長が特殊だったからだと思う。

 ……まぁ、その事は白羽さんに言わなくてもいいか。もう店長と話す事は無いだろうしな。


「俺と入れ代わりに入った新しいバイトってのも、白羽さんの仕業か?」

『うん? なんだい、それは』


 しかしその事対して白羽さんは、身に覚えが無いという反応だった。


「え、いや……俺がやめれた理由の一つが、タイミング良く新しいバイトが入ったお陰ってのがあって……」


 もう一つの理由は白羽さんの声が店長好みだった、っていうのだが。


『私は知らないな。それは単に偶然が重なったんだろう』

「そうか。あまりにも良いタイミングだから、てっきり白羽さんが裏で仕組んだもんだと」


 じゃあ、本当にたまたまだったのか。


「それに、もし私が咲月君の代わりを手配しようにも、私の課は常に人材不足でね」


 そう言われてみれば、エドと初めて手を組んだ時にソレらしい事を聞いた覚えがあるな。確か少人数で、全員で十人もいないんだっけか。


『とにかく、咲月君はバイトを辞めれたんだ。次のSDCに備えて体調管理はしっかり頼む』

「ん、その辺は分かってる。協力してる以上、足は引っ張りたくないしな」


 体調管理だけじゃなく、この鈍った身体を以前の位までに戻したい。バイトも無くなって時間も出来た。

 今日から手始めにランニングでもするか。


『あぁそれと、今月分のお金は既に君の口座に振り込んでおいた。確認しておいてくれ』

「金?」


 あぁアレか、バイトを辞める代わりにってヤツの。もう振込んだのか。


「ってなんで白羽さんが俺の口座番号を知ってんだよ!?」


 あまりにもツラッと普通に言うんで気付くのが遅れた。


『あぁ、店長さんに聞いたら教えてくれたんだ』


 ……店長、あんた本当に店長か?

 そんな簡単に個人情報を流すなよ。いくら白羽さんの声が自分の好みだったからって喋り過ぎだろ。

 いや、そもそも声で善悪を判別している時点で問題なんだけどさ。


『それじゃあ、私はまだ仕事があるから失礼するよ。何かあったらこちらから連絡する。私の番号を登録しておいてくれ』


 あぁ、わかった。と返して、耳から携帯電話を離して通話を切る。そして白羽さんの電話番号を登録して携帯電話を左ポケットに入れる。

 歩きながら電話をしていた為、銀行はもう目の前にあった。中に入り、ATMから必要な分の金を下ろして明細書に目を通してみる。


「……本当だ。金額が一人暮らし史上最高になってる……」


 貯金額がいつもより丸が一つ多い。よし、今日の晩飯は少し奮発しよう。




    *   *   *




 右手にそれ程大きくもないビニール袋を持って帰路を歩く。

 金を下ろして、薄かった財布が多少膨らんだので晩飯の調達をしてきた。もちろん、今の時間帯だとタイムセールをしている商店街にあるスーパーで。

 買ったのはセール品だったトンカツ。それなりに大きく、既に揚げてあり出来上がっている物で値段は四百円。……の、半額。

 他にも何か買おうかとは思ったが、沙夜先輩から貰ったカレーがまだ残っているのを思い出し、それにトンカツを乗せたら十分過ぎる晩飯が出来るのでレジに直行した。

 フンパツしようと言っておきながら、タイムセール品を買っていてはフンパツしたとは言いがたい。


 この一年ちょい、一人暮らしをしていたせいか軽い貧乏性が身に染みてしまったみたいだ。ま、金遣いが荒いのよか大分マシたけど。

 夕方になって昼間よりは気温が下がったとはいえ、まだ十分に暑い。さっき商店街で見た温度計は三十五度を示していた。

 今夜は熱帯夜になりそうだな。エアコンにお世話にならなきゃ眠れなそうだ。

 額に汗をかきながら、やっとの事でマンションに着いた。

 マンションの中に入り、一直線にエレベーターへ向かう。さすがにこの暑さの中、階段で部屋に戻る気にはなれない。

 エレベーターのボタンを押すと、誰かが利用した後だったのかすぐにドアが開いた。エレベーターの中に入り、自分の部屋がある五階のボタンを押す。

 ドアが閉まり、エレベーターは指定された五階へと上がっていく。ドアの上にある階を示すランプが二階、三階……と点滅して行き、一度も途中で止まる事もなく五階に着いた。


 そりゃ同乗者がいなけりゃ途中で止まる事はないか。自分の部屋がある階より上に行く、なんて事は滅多にないからな。

 部屋のドアのすぐ隣にある、自分の郵便受けを開けて郵便物を取り出し、その場で大雑把にだが郵便物を確かめる。

 あったのは広告らしきハガキが3つあっただけ。例の黒い手紙はなかった。

 当たり前か。前回から一週間ちょいしか経っていない。それに、もし来ていたらエドにも来ているだろうから、さっきの電話で白羽さんが何かしら言ってきた筈だ。

 ズボンの右ポケットから部屋の鍵を取り出してドアを開ける。部屋に入ると、中はサウナ状態。外よりも暑く、肌が焼けてしまいそうだ。


 カバンと袋をぶっきらに床に置き、テーブルの上に置いていたリモコンを取ってエアコンを点ける。蒸し風呂の様な部屋に生ぬるい風が流れ始めた。

 始めは生暖かい風だったのが、段々と冷たい風へと変わっていく。

 部屋が涼しくなるまでの間に、別部屋にある冷蔵庫にトンカツを入れに行く。別部屋といっても部屋と言えるような所ではなく、流しがあって必要最低限の広さがあるだけ。大して広くもない。

 そして、その部屋の奥の隅にトイレがある。別段不自由する訳でもないので不満は無い。

 流しの隣にある冷蔵庫にビニール袋に入れたままトンカツを突っ込む。

 冷蔵庫には他に、扉の内側に半分程入っているお茶のペットボトルと貰ったカレー。あとはお冷やご飯と調味料が少々。

 一人暮らしとは言え、この冷蔵庫の中は淋し過ぎる。毎日買い物に行くのも面倒だからな、今度は野菜が安かったら大量に買ってくるか。


 ご飯はまだあるし、野菜炒めにすれば腹持ちがいい上に、ジャンクフードと比べれば断然身体にもいい。味付け次第で大分変える事が出来るから飽きもしないし。

 大量に作って冷凍すれば長く保存出来て、解凍して弁当にするって方法もある。チンして弁当箱に詰めるだけだから、朝に用意するのに時間も掛からない。


 なんて考える前に、まずは買ってこいって話だけどな。

 ずっと開けていると冷蔵庫の冷気が無くなってしまうので扉を閉め、Yシャツのボタンを上から外しながらエアコンのある部屋へと戻る。

 部屋と流し場とを繋ぐ引き戸を開けると、適温とまではいかないが明らかに温度差を感じる程に涼しくなり始めていた。

 脱いだYシャツをハンガーに掛ける。襟元を見てみると、まだ汗などで汚くはなっていなかった。


「明日明後日は休みだし、夏休みまでは保つか」


 確かに部屋は綺麗に片付いているとは言えないが、汚くなったのをそのままにしておく程不潔ではない。

 汚くなったらクリーニングに出して、仕舞ってある別のYシャツを出さないと。

 夏休みに入れば学校に行く事なんてないだろうから、当分Yシャツは着ないだろう。学校も来週一杯で夏休みに入るし、丁度良い感じか。

 そのハンガーを壁に掛け、エアコンの風が当たる床に寝そべる。冷たくなったフローリングの床が気持ち良い。

 やっと部屋全体も涼しくなってきた。

 大の字になり、風に当たっていたら睡魔が襲ってきた。ウトウトと瞼が次第に下がってくる。


「……っと、ヤベェ。寝ちまう所だった」


 睡魔を振り払って上半身を起こす。学校であんなに寝たのにまだ寝るつもりか、俺は。

 二回程、軽く両手で頬を叩く。


「そうだ、ジャージ出さねぇと」


 今日から鈍った身体を鍛え直す為に、ランニングをしようと決めたのを思い出した。

 大分着ていなかったけど大丈夫かな。

 テレビの隣にあるタンスを漁る。さすがに学校のジャージを来て公共の場を走るのは恥ずかしい。

 長く着ていなかったから、確か下の方に入れておいた記憶がある。

 タンスは収納が出来る部分が四段あり、上からよく使用順に分けて入れている。

 一番上はパンツと靴下、タンクトップで、その下の二番目にはTシャツとロングTシャツ。で、三番目にはトレーナーとズボン類が。そして一番下にはその他。

 ジャージはタンスの一番下を開けたらすぐに見つかった。防虫剤を入れておいたお陰か、虫に食われた形跡もなく綺麗だ。

 ジャージはほとんどが黒の生地で、夜に着ても目立つ事はない。

 よし、ちゃんと上下揃ってある。

 立ち上がって足でタンスを閉め、ジャージをベッドの上に投げる。


「さてと、飯でも食うか」


 時間も腹も頃合い。あまりトンカツを冷蔵庫に入れた意味がなかった気もするが、そこは気にしないでおこう。

 家の中とは言え、上半身裸なのはアレなんでタンスから適当にTシャツを取って着る。

 ズボンがまだ制服だったのを思い出し、これもハンガーに掛けて履き替える。

 ランニング用に出したジャージではなく、脱ぎっぱなしにされている普段部屋着として使っている別のジャージを床から拾う。

 これは中学ン時の指定ジャージなのだが、ズボンは無地で着慣れてるってのもあって今でも着用している。


 着替えが済んだので流し場に向かう。

 冷蔵庫から冷やご飯とトンカツ、そしてカレーの入ったタッパーを取り出す。ご飯は少し大きめの皿にラップを掛けた状態で、このまま上にカレーをかければ丁度良さそうだ。

 袋からトンカツを出して、百均で買った小さめのまな板に乗せて適度な大きさに切る。それをラップを取ったご飯の上に乗っける。

 タッパーの蓋を開け、スプーンを使ってご飯とトンカツの上にかけていく。カレーは残り少なく、誰が見てもこれが最後の一食だ。

 タッパーに付いたカレーを出来るだけ寄せ集めてご飯にかけ、タッパーにはほとんとカレーは残っていない。

 これでカツカレーの完成。正直、トンカツなんて食べるのはかなり久しぶりだ。

 カツカレーを電子レンジに入れて温める。トンカツ以外は冷蔵庫に入れていて冷たくなっているので、時間設定を少し長くする。


 電子レンジは冷蔵庫の上に置いてある。

 一人暮らしが使う冷蔵庫なんて家族で使うような大きい物ではなく、自分の身長の半分くらいの高さしかない。

 なので、その上に電子レンジを置けば高さ的に出し入れが楽。その間に、カレーがこびり付いたりしたら洗うのが大変だったりするので、中に水を入れておく。

 他にはやる事なく、暑い中待っているのも何なんで部屋に戻ってテレビを付けて適当にチャンネルを回す。

 現在の時刻は6時半を過ぎたところ。まだ7時になっていない為、どこのチャンネルも大抵ニュースしかやっていない。

 一通り映るチャンネルを回した後、結局テレビを付けた時に映っていたチャンネルに戻ってきた。テレビのリモコンをテーブルに置いた時、レンジの温め終了の音が聞こえてきた。

 レンジからカツカレーを取り出して部屋へUターン。もち、スプーンはさっきカレーを移す時に使ったヤツを使う。

 スプーンで掬って一口食べる。やはり何度食べても美味い。

 これが最後だと思うと、心持ち噛む回数が増えてしまう。カツも半額ながら満足できる品だ。


 そのまま一定のペースでカレーを口に運んでいき、十分足らずで皿は空になった。

 食べ終わった皿は流し場へ持っていき、タッパーと同様中に水を入れる。冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出して部屋に戻る。

 ベッドの隣になる形で床に座り、お茶をラッパ飲みしてベッドに寄り掛かる。食い過ぎず少な過ぎず、腹は丁度良い膨れ具合。腹八分って表現がしっくりくる。

 飯を食べ終わったのに、時間は七時になっていない。出窓から見える空はまだ明るみを帯びている。

 飯を食ったばかりで、今からランニングをするのは無理。

 それに、あまり人とは会いたくないからもう少し暗くなってからだ。人と会うと何かが困るって訳ではないが、ただ単に自分が嫌なだけ。

 となると、ランニングをするとしたら八時か九時あたりか。そこら辺は腹の消化具合と相談して決めよう。

 背中はベッドに凭れ掛かったまま、テーブルの上のテレビのリモコンを取って再びチャンネルを回してみる。

 もうすぐ七時になる。ゴールデンタイムなんだし、そろそろ暇を潰せるくらいの番組が一つはあるだろ。

 とりあえず映るチャンネルは全部回して見て、気になった番組を見てみる。


 そして気付けば時間は過ぎ、九時前になっていた。

 暇潰しとして見ていた番組が思っていたよりも面白く、見入ってしまった。番組は雑学をメインとしたクイズ物。

 新しい知識を知るのが楽しくて、結局最後まで見てしまう始末。人間って生き物は何かを知る事に快感を覚えるってのは本当らしい。

 そういえば、昨日沙姫の家に行った時にもクイズ番組がやっていた。俺はよく分からないが流行りなんだろうか。

 さて、腹も中の物をある程度消化した様子。時間もいいし、そろそろランニングをしに行こう。

 ズボンをタンスから出したジャージに履き替え、上着はそのTシャツの上に着た。靴は使っていないスニーカーがあったから、それでいいか。

 エアコンを切り、出窓のカーテンを閉めてから部屋から出る。

 鍵を閉め、ドアノブを回してちゃんと掛かったかを確認。戸締まりOK。階段を使って下に降りてマンションから出る。

 マンションの入り口前で伸脚や屈伸をして身体をほぐす。十分程ストレッチをして、ようやくランニングを開始。

 既に汗を軽くかき、熱帯夜と言えそうな程の暑い夜の中を一人、何かに呑まれていくかの様に走り行く。





    *   *   *




7/16


 本日は土曜日。なので当然、学校は休み。そして、時刻は午前九時になるところ。

 天気も昨日に続き良い天気。駅前は休日だというのもあって、いつもより賑わっている。

 そんな中、いつも休日は昼になるまで寝ている筈の俺が、人混みに混ざっている。

 昨日のランニングは大体二時間程やった。一年以上も暮らしていながら、未だにこの辺の地理に詳しくない。

 なので、ランニングついでにグルリとそこら辺の道を調べてきた。そのかいあってか、大体の道が分かるようになった。

 うろ覚えな所が多いが、以前と比べるとかなりマシだ。

 道を調べながらだったので、実質走った時間は二時間の内、半分あるかないかだろう。

 しかし、本当に身体が鈍っていた様で思っていたよりも疲れるのが早かった。ランニングを終えてマンション前に戻ってきた時にはかなり息が切れてた。

 息を整えながら疲れを残さない為にストレッチをして、部屋に戻ってシャワーを浴び、ベットに横になる。

 すると疲労感と共に眠気が襲ってきた。

 薄れる意識の中、あぁ、これはグッスリ寝れそうだ、なんて思いながら眠りに入った。が、そうもいかなかった。

 午前四時。とてつもないダル気と汗をかき熱くなった自分の身体の熱に魘され、目を覚ました。


 理由はそう、例の夢。

 昔、凛と約束をした大切な場所が炎で焼かれていく夢。

 初めは夢自体を見ていたという覚えはあったが、中身までは覚えていなかった。

 だが、最近になってやっと思い出せるようになった。いや、正しくは忘れなくなった……だろうか。

 それ以来、以前よりも増して頻繁にその夢を見るようになった。見る度にダルくなるし疲れる。

 これじゃあ、何の為に寝ているのか分からない。

 結局、その後に何度も寝直そうともしたが寝付きが悪く、寝て起きての繰り返しで朝を迎えてしまった。

 どうせ寝れないなら、と休日なのに七時に起きた。

 なんで休日に学校がある平日よりも早く起きなければならないのか……早起きは三文の得と言うが、こんな起き方じゃ得どころか逆に嫌な事が起きそうだ。

 というか、せっかくの休日に睡眠を断たされている時点で損をしている。


 で、早く起きたは良いんだがやる事がない。と思ったら、来週にテストがあるのを思い出した。

 別に部屋で勉強をやっても良かったのだが、天気予報では今日も陽射しが強く、暑い一日になるそうで。

 そうなるとエアコンを使う事になるのは必須。しかし、涼しいからと言ってバカスカ使うと電気代で痛い目に会う。

 そこで思いついたのが図書館。あそこなら冷房も掛かっている上に、何より静かで集中出来る。

 図書館は九時から開いているし、その時間ならまだ陽も昇る途中で大して暑くない。徒歩で大体二十分ぐらい掛かるけど、それなら苦にならない。


 って訳で、今に至る。まったく、店やレジャー施設が開くのは大体十時からだってのに、なんでこんなに人がいるんだか。

 図書館には駅前を通らないと行けない為、人混みの中を教科書の入ったショルダーバッグを肩に掛けて目的地へ向かう。

 駅前を抜けると人の数は見て分かる程に減った。

 人混みから抜けた事で、歩く速さもスムーズになってようやく図書館に着いた。

 図書館の敷地に入り、自転車置き場の横を通って中に入る。中は既に冷房が効いていてかなり涼しい。

 靴を脱いで靴置き場に置いてスリッパに履き替える。入り口から入って直ぐ右に休憩室がある。

 すると、その休憩室の中にある自販機の前に、薄碧色の髪をした知り合いらしき人の姿が見えた。

 休憩室の入り口の二、三歩手前で立ち止まって様子を伺う。

 その知り合いは自販機で悩む事なくボタンを押して飲み物を買っている。

 自販機から出てきた飲み物を取り出して、休憩室から出てきた所で俺に気付いた。


「あ……」

「よう」


 手を肩の高さあたりまで上げて声を掛ける。


「咲月先輩」


 沙姫は驚いた様子もなく、こちらへ近づいてくる。なんか最近、こいつとよく学校以外の場所で会うな。


「咲月先輩って図書館に来たりするんですねぇ、調べ物ですか?」

「違ぇよ。勉強しに来たんだよ、勉強」


 この荷物を見ろ、と肩に掛けたショルダーバッグを軽く叩く。


「勉強……ですか? 咲月先輩が?」


 沙姫は嘘だぁ、と言いたげな顔をしながら俺を見る。そりゃ普段はしょっちゅうサボってるからね、そういう反応をされても仕方ないか。

 その事を知ってる沙姫は、やっぱり俺は勉強なんかしていないと思っていたんだろう。


「そりゃ俺だって勉強するっての。赤点取って留年なんかしたくないからな」


 つーか、そんな事になったら沙姫と同学年になっちまうじゃねェか。同学年で先輩って呼ばれるのは物凄く恥ずかしいぞ……。


「意外です。咲月先輩、いつもサボっているから勉強なんてしていないとばかり……」

「いつもサボってるから勉強しないといけねぇんだよ」


 じゃなきゃ赤点を回避するのは困難。というか無理。


「沙姫も勉強しに来たのか?」

「はい、そうですよ」

「なら上に行こう。ここで立ちっぱってのもな」


 入り口の真ん前でつっ立ってたら他の人に迷惑がかかる。なので、沙姫と一緒に階段を昇って二階へ上がる。

 ここの図書館は二階建で、一階には貸し出し出来る本や資料なんかが置かれている。二階には一階で本を借りはせず、持ち込んで読めたりする部屋がある。

 部屋の入り口前には『読書室』と書かれた札が掛けられているのだが、実際には読書する人は少なくて勉強しに来た学生などが多い。

 他にも利用出来る部屋があるらしいんだが、俺は読書室以外は使わないので分からない。


「もしかして開館時間から来ていたのか?」


 読書室まで移動しながら沙姫と少しばかり雑談。図書館なので気持ち声は小さめで。


「いえ、私もちょっと前に来たばかりですよ」


 沙姫は隣をペタペタとスリッパの音を立てながら歩いている。館内が静かなだけに、その音が妙に響く。


「勉強しながら飲もうと思って飲み物を買っていて、そしたら咲月先輩がいてちょっとビックリ」


 下で会った時はビックリなんて顔はしてなかったけどな。

 ちなみに読書室には飲食厳禁と書いた紙が貼ってあり、飲み食いは禁止されている。

 筈なんだが、何故か飲み物だけは利用者の殆んどが持ち込んでいて、役員の人が見ても注意はせず黙認という形になっている。

 読書室は比較的階段から近くにあり、雑談は雑談と言える程話すことなく読書室に着いた。

 冷房は館内全域に掛けてあるので入り口のドアは開けっ放し。人が出入りする度に音がするのを、気になったりしないようにする為だろう。

 室内に入ると、カリカリと鉛筆やシャーペンの芯が削れる音だけが聞こえる。まるでテストの真っ只中みたいだ。


「うわっ、結構人いる……」


 ぐるーっと室内を見回してみると席が全部埋まる程いるって訳ではないが、かなり人がいる。

 席が空いているのもポツポツと目に入る。だが、どの空いている席も誰かの隣に座る形になってしまう。

 窓際、壁際の席は全部埋まっている。出来れば最低一つは席を空けたい所なんだが……そんな事は言ってられないか。

 出来るだけいい席に座るか、なんて思った時だった。


「咲月先輩、私の隣に座ります?」


 小声で沙姫が声を掛けてきた。


「マジ?」


 それは助かる。知らねぇ奴の隣よりも知ってる奴の隣の方が全然マシだ。中途半端な仲で逆に気まずいってパターンもあるがな。


「こっちです」


 先に行く沙姫の後ろを、席まで付いていく。席は読書室の一番後ろの壁際。言っちゃえば当たりだ。

 よくこんな席を取れたな。俺よりちょっと前に来たとか言ってたけど、本当はもっと早かったんじゃねぇか?

 壁際と窓際の席は横に長い机が一つ置かれていて、椅子が二つある。机が横長なので、二人が並んで利用出来るようになっている。

 あとは壁際と窓際を挟む形で、同じ机が中央に二つくっ付けてある。それが横に四列並んであり、席数で言えば三十二人が利用出来る。


「はい咲月先輩、どうぞ」


 二つある椅子の内、一つの椅子の上には荷物が置かれていて、それを沙姫はどける。

 これは知らない奴が座ったりしないようにするヤツだ。俺もよくやる。

 もう片方の椅子には何も置かれていないが、机の上に教科書とノートが開かれている。

 そうやって両方使ってますよー、と間接的に言ってる訳ね。


「サンキュ、助かったわ。でも悪いな。荷物の置き場が無くなっちまって」


 ヒソヒソ話をするような声の大きさで沙姫に礼を言う。


「いいですよ。荷物なんて机の上や椅子の下にでも置けますから」


 そう言ってくれると助かる。

 ショルダーバッグを肩から下ろし、中から教科書を取り出す。

 さて、席も沙姫のお陰で無事確保できた。俺もここの空気に混ざって勉強を始めるとしようか。




    *   *   *



 当たり前だが読書室の中は静かで、聞こえるのは変わらず鉛筆やシャーペンで何かを書く音。

 そして、たまに誰かが席を立って椅子を動かす音がするくらい。

 自分の感覚だと二時間程やったと思うが、図書館なので携帯電話の電源は切っていて時間を確認出来ない。

 しかし、いくら集中しようと思っても、出来ない時は中々出来ないもので……早過ぎるけど、ちょっくら小休止しようかね。飲み物でも買ってこよう。

 シャーペンを置いて両腕を前にググーッと伸ばす。黙って行くのもアレだと思い、沙姫に声を掛ける。


「沙姫、俺ちょっと休憩してくるわ」


 周りの人に迷惑が掛からないよう、小さな声で話し掛ける。しかし、沙姫から反応は無い。

 もちろん寝ている訳じゃない。バッチリ起きて教科書とテキストを交互に睨めっこしている。


「……沙姫?」


 もう一度名前を呼んでみても反応が無い。いや、これは反応が無いと言うより気付いていないと言えばいいか。

 つまり、俺が名前を呼んだのに気付かない程に集中しているんだ。

 ならここは黙って行くとしよう。集中してるのを途切れさせるのも悪い。

 出来るだけ音を立てないように椅子から立ち、読書室から出る。

 鉛筆やシャーペンの音が無い分、さらに静かな廊下を渡って階段を降りて休憩室へ向かう。

 休憩室に着くと、他に人はいなかった。

 財布を取り出して自販機に金を入れたはいいが、何を飲もうか考えていなかった。

 ざっと何があるか見て、ちょっと甘いのを飲みたいってのもあり、カフェオレにした。

 テーブルと一緒に設置してある椅子に腰掛けて一息つく。

 缶のペルタブを開けてカフェオレを飲むと、甘さとほろ苦さが口の中に広がった。

 携帯電話の電源を入れて時間を確認してみると、時計はまだ正午前を表示していた。


「二時間もやってねぇじゃん……」


 全然ダメだな、俺。勉強したのがまったく頭に入ってないって訳じゃないんだけど、やっぱり集中したのとしてないのとは断然違う。

 せっかく勉強しに来たんだから、出来る限りやっておきたいんだよな。暑い中、何度も来るのは嫌だし。

 すると今ふと、集中という言葉で白羽さんから個技能力の話を聞いた時を思い出した。

 白羽さんが言ってたな、集中するにも精神力が必要だって。なかなか集中出来ないって事は、俺って……。


「精神力ねぇのかな」


 休憩室の天井を見つめながらポツリと呟く。俺がまだスキルが目覚めないのはそこにあんのかな。

 いや、それは違うか。目覚める目覚めないは運で決まるようなもんだし。

 それに全く集中出来ないって事でもない。出来る時はすんなり集中しるし。ムラが多いんだろうな。

 そういや、さっきの沙姫の集中のしようは凄かった。二度話し掛けても気付かないってのは相当のモンだ。

 あれだけ集中して勉強してたら、かなり捗るだろうな。あれを見たら、沙姫が零名に受かった理由が分かる気がするわ。

 天井に向けていた首を下ろして、カフェオレを飲む。


 そういえば、沙姫や沙夜先輩ってスキルは目覚めているのか……?

 スキルの存在を知らないとしても、能力は目覚める。

 だけど、スキルを知らないとスキルをスキルだと気付かないままだったりする。

 スキルが具象化だったら分かりやすいが、強化系だったら難しい。スキルを知らないのなら、スキルで何かを強化したとしても、それに本人が気付いていない。だから、本人にスキルを持っているか聞いても無駄。

 具象化なら、さすがに本人がスキルを知らなくてもおかしい事に気付くだろう。

 第一、沙姫に『スキル目覚めてる?』なんて聞ける訳がない。スキルを知らなかったら、何言ってんの? って思われる。

 それに、白羽さんは普通に俺にスキルの事を教えてくれたが、あまり簡単に教えたりしない方がいいのかも知らない。

 よく考えたら普通じゃ信じられない話だもんな。下手に聞いちまって広まったりしたら、白羽さん達に支障が起きるかもしれないし。


 ま、そんな事はないとは思うけど、ここは触れずにスルーがいいのかな。

 缶の中身をグイッと飲み干して椅子から立つ。空になった缶を自販機の隣にあるゴミ箱へ投げる。

 飛び具合、軌道、力加減共に文句なし。これは入る。ナイッシュ。

 そう思った時、ガコン、と缶はゴミ箱の縁に当たって飛び跳ねた。


「あ……」


 が、飛び跳ねた缶は自販機の側面に当たって無事ゴールイン。

 んだよ、焦らせやがって。

 横目でゴミ箱を見ながら休憩室を出る。


「さて、と。二ラウンド目を始めますか」





    *   *   *





 現在の時刻は午後三時過ぎ。図書館から駅前までの道のりを俺と沙姫の二人で肩を並べて歩く。

 休憩室から読書室に戻ったあと、勉強を再開した。

 自分の席に戻った時も沙姫は集中していて見向きもせず、結局沙姫は俺が一度抜けた事に気付かなかったみたいだ。

 一息ついたお陰……かどうかは分からないが、勉強を再開してからはすぐに集中出来た。

 それから黙々と勉強をして一区切り付いた時に、たまたま沙姫と目が合った。

 すると沙姫がそろそろ帰ると言うので、丁度自分も区切りが付いた所だったから一緒に帰る事にした、というのが今に至るまでの経緯だ。


「じゃ別に用事があるから帰るって訳じゃなかったのか」

「はい。私って一度集中が途切れると中々集中出来なくて……」


 沙姫は頬っぺたを人差し指で掻きながら、ハハッと苦笑いをする。

 なんて事ない話をしながらゆっくりと歩く。

 二人で話ながらだと、明らかに一人の時よりも歩く速さが遅いのが分かる。


「だから、図書館にいてもあまり勉強が捗らないから帰ろうかなって」


 なるほどね。だからこんなに早く帰るのか。

 図書館に勉強しに来て勉強が捗らないんじゃ、来た意味がないもんな。


「なら飯でも食いに行かねぇか? 暇なんだろ?」


 腹が減ったので沙姫を昼飯に誘ってみる。時間はランチではなくおやつだが。

 朝はあの夢のせいで食欲無かったし、昼は忘れて勉強してたからな。今更になって空腹感が出てきた。


「あ、いいですねぇ! 私もお腹減ってたんですよ」


 俺の誘いに沙姫はノリノリで同意する。

 腹が減ってるのは当然か。俺が昼飯を食ってないなら、休憩しないで勉強してた沙姫も何も食ってないって事だからな。


「どこで食う? 希望があるなら合わせるけど」

「んー、そうですねぇ。無難にファミレスでどうです? メニューが豊富ですからハズレはないでしょうし」

「ん、じゃファミレスにするか」


 この時間なら昼も過ぎてるし、混んでる事はないだろう。それに駅前にあるから、今いる所から近いしな。ドリンクバーがあれば時間も潰せる。

 場所が決まったので、ちゃっちゃと最寄りのファミレスまで移動する。

 さっきまで涼しい図書館にいても、やはり一度外に出るとクーラーが恋しくなるもので。

 ファミレスで飯を食うと決めてから、十分と掛からずに目的地に着いた。

 予想通り客は少なく、混んでいない。待たされる事無く席を案内され、二人は水を飲みながら涼しんでいる。


「ご注文がお決まりになりましたら、そこのボタンを押してお呼びください」


 なんて、水を持ってきた店員はマニュアル通りの台詞を言って奥へ戻っていった。


「はい、咲月先輩」


 沙姫はテーブルの端に立て掛けてあった2つのメニュー表を取り、その1つを渡される。


「さーてっと、何食べよっかなー」


 メニュー表を開いて料理を選ぶ沙姫。俺もメニュー表を開いて選ぶが、結構種類があって迷う。

 こういう暑い日にはざる蕎麦とか、素麺とかサッパリ系がいいんだろうが……なんかそういう感じじゃないんだよな、俺が食べたいのは。

 俺はご飯が好きだから、そっち系にしよう。

 メニュー表のページをめくってご飯類を探す。定食、丼、寿司と数多くの料理が載っている。すると海鮮丼なる物に目が止まった。

 この海鮮丼がいいな。これに決定。あとは沙姫待ちか。


「あ、コレ美味しそう。私これにしよ」


 なんて思ったが、沙姫も決まったようで待つ事はなかった。


「じゃ、店員呼ぶぞ?」

「あ、はい。いいですよ」


 呼び出しボタンを押して店員を呼ぶ。ボタンを押すとピンポーンと音が鳴った。


「お待たせ致しました。ご注文を承ります」


 俺達以外の客はあまりいないからか、店員はすぐに注文を取りに来た。

 なのに『お待たせ致しました』と言うのは接客業だからだろう。


「海鮮丼一つ」


 注文すると、店員は腰に付けていた電卓ぐらいの大きさの機械を打ち込む。


「私はこのカルボナーラ、大盛りで」


 メニュー表に指を差しながら店員に注文する沙姫。

 なんて事ない普通の仕草だが、何故か可愛く見えたりする。不思議だ。


「ご注文は以上でしょうか?」


 ちらりと沙姫を見ると、沙姫と目が合った。

 こっちを見たって事は、自分のは頼み終わったって事だろう。多分。


「じゃあドリンクバーを二つ、あと食後にフライドポテト一つ。以上で」


 食べ終わったらすぐ帰る、なんて事にはなんないだろうから、飯を食い終わった後の雑談の事を考えてドリンクバーを頼む。


「かしこまりました」


 そして店員は頼んだメニューを確認して、再び奥へ戻っていった。

 メニュー表を元あった所へ戻す。頼むモンを頼んだら邪魔なだけだ。


「勝手に沙姫の分までドリンクバー頼んじまったけど、よかったか?」

「全然いいですよ。ファミレスでドリンクバーは常識じゃないですか」


 確かにな、ファミレスっつったらドリンクバーは頼む。俺達のような学生なんかは特に。

 学生はただ飯を食うだけにファミレスには入らないからな。食事兼ダベりってのを前提で来るからドリンクバーは必須。


「まぁ、飲みたくなかったら別にいいけどな。どっちみち今日は俺の奢りだし」


 だから、飲まないにしても沙姫が払う訳じゃないから問題ない。


「え、奢ってくれるんですか?」


 驚いた表情をする沙姫。

 そりゃそうだ。ここで驚かなきゃ奢ってもらうつもりだった事になる。


「バイト代が入ってな。だから、この前のカレーのお返しって事で」


 正しくはバイト代+α、だけど。額はαってモンじゃないけど。


「咲月先輩、バイトしてたんですか」

「仕送りだけじゃ生活が厳しかったりしてな。今月で辞めたちまったけど」


 本当は今日もシフトが入ってたんだが、やめてしまったのでもう自分は関係ない。

 今頃は新しいバイト君がせっかくの休日に働いているんだろうな。


「厳しいのにやめちゃって大丈夫なんですか?」

「その辺は問題無し。代わりの稼ぎ手がいるし」


 その稼ぎ手と言うのは白羽さんの事なんだが……協力して金を貰えるのはバイトとも仕事とも違うし、なんて言えばいいのか分からないので稼ぎ手という言葉を使った。


「そういう訳だから、気にせずに奢られてくれ」


 自分で言っておいてアレだが、変な言葉だ。奢られてくれ、なんて。


「んー……じゃあ今日は咲月先輩に言われた通り、おとなしく奢られてあげます」


 なんて沙姫も俺の変な言葉に乗っかってきた。


「お、今日は素直に言う事聞くな」


 少しは断ったりすると思ってたのに。


「咲月先輩が言った事を中々譲らなくて、変に頑固だっていうのはこの間ので知りましたから」


 ぐっ……確かにそんな事言ってたな、この間に。

 でも、その言い方だとなんか俺が人の言う事を聞かないみたいじゃねぇか。


「奢ってくれるんだったら、もっと高いの頼べばよかったな」

「おい、奢るっつっても限度があるぞ……」


 いくら多めに金が入ったと言っても、これで生活しなきゃならないんだ。

 調子に乗って使っちまって生活が厳しくなるのは勘弁だ。


「アハハ、冗談ですよ。一人暮らしの辛さは半分、分かりますから」


 半分って……あぁ、両親がいなくて姉の沙夜先輩と2人で暮らしているから半分な訳ね。


「咲月先輩、ドリンク何飲みます? 入れてきますよ」


 沙姫は椅子から立ち上がる。

 そうだ、ドリンクバーも頼んだんだった。


「いや、いいよ。俺も行く」


 自分も行こうと椅子から立とうとする。


「咲月先輩は座ってて下さい、私が入れてきます。奢ってもらうんですから、一応これくらいはしないと」


 しかし、沙姫に言葉で押さえられて浮かせた尻は再び椅子に着地させられる。


「別に奢られるからってそんなしなくてもな……」

「ダメです。ほら、咲月先輩は何がいいんですか?」


 俺の事を変に頑固だって言ってたけど、お前といい勝負なんじゃないか?

 ……まぁいいか。沙姫なりの礼儀なんだろうし。


「そうだな、じゃコーラで」


 ドリンクバーは店によって種類が違ったりする。

 まずコーラにすれば、無いって事はまずないだろう。


「わかりました。ちょっと待っててくださいね」


 俺の飲みたい物を聞いた沙姫は、軽い足取りでドリンクコーナーへ向かっていった。


「沙夜先輩も頑固な所あったりすんのかな」


 椅子の背もたれに寄り掛かってボソリと漏らす。

 姉妹だから可能性としてはあるよなぁ。

 頑固な沙夜先輩を想像してみようとしたが、まったく思い浮かばなかった。


「想像出来ねぇや」


 小さく苦笑する。

 想像出来たとしても全然似合わないよな、頑固な沙夜先輩って。いや、似合わないから想像出来ないのか。

 そんあくだらない事を考えている内に沙姫がドリンクを持って戻ってきた。


「はい、咲月先輩のコーラ」

「おう、サンキュ」


 コーラの入ったグラスを手渡しされ、そのまま口に運んで一口だけ飲む。

 甘さと炭酸水の刺激がする。間違いなくコーラだ。


「私、ちょっとお手洗いに行ってきますね」


 沙姫は自分の分のグラスをテーブルに置いて、椅子に座らずそのままトイレへ。

 置いていったグラスにはオレンジ色の水が入っている。

 言うまでもなく、見た目通りオレンジジュースだ。


「そうだ。沙夜先輩の分、どうすっかな」


 この間のカレーのお礼って事で沙姫に奢るんだから、沙夜先輩にもなんかしなくちゃな。沙姫だけに奢るってのは、なんか差別してるみたいだし。

 どうしようか、と考えていたらメニュー表が目に入った。

 テーブルの端に立て掛けて戻した際、メニュー表の裏側が見えるように置いてしまったらしい。

 そのメニュー表の裏には、『お持ち帰りメニュー』と書かれていた。


「おっ?」


 メニュー表を取って見てみると、ハンバーグや唐揚げ等の主食だけではなく、デザートもメニューに入っている。


「いいな、これ」


 これだったら沙夜先輩にもお礼が出来る。お持ち帰りなんだから、前もって頼んでおかないとダメだろう。

 呼び出しボタンを押して再度店員を呼ぶ。

 すると、すぐ側の席の片付けをしていた店員がこちらに来た。


「このお持ち帰りメニューの三色アイスを二つ」


 さっきとは違う男性店員で愛想が悪い。

 注文を取ったら、さっさと片付けていた皿を持って奥へ消えていった。


「感じ悪ぃ奴だな……」


 人付き合いの少ない俺でさえ、コンビニのバイトん時はもっと愛想よくしてたぞ。

 あんなの採用しなきゃならない程、人員不足なのか?

 まぁ別にいいけどさ。だからって文句を言うつもりはねぇし。


「料理、まだ来てないですね」


 沙姫がトイレから戻り、椅子に腰を掛ける。


「そろそろ来てもいいと思うんだけどな」


 頼んでから大体十分は経っている。

 別段混んでいる訳でも無し、むしろ空いている位だから時間が掛かる事はない。

 時間的には来てもいい頃なんだが。


「早く来てくれないかな。私もう空腹で死にそう」


 沙姫はドリンクと一緒に持ってきたストローをグラスに入れて、少し掻き混ぜてからオレンジジュースを飲む。

 眉毛をハの字にして溜め息まで吐いている。

 相当腹が減ってるんだな。


「正面に同じく」


 その気持ちは俺も分かる。朝から何も食ってないから、空腹度では負ける気がしない。

 時折コーラを飲んで間を繋げようとするが、焼け石に水……とは違う気がするな。空きっ腹に水、とでも言おうか。


「お、話をすればなんとやらってか」


 奥の厨房への入り口であろう所から、店員が両手にトレイを持って出てくるのが見えた。

 真っ直ぐこっちに向かってくる。間違いなく俺等のだ。


「お待たせしました」


 小っっさい声で言ってトレイをテーブルに置く、さっきの無愛の悪い店員。

 誰がどの料理か確認もせずに置いて、『ごゆっくりどうぞ』すら言わないで戻っていった。

 いくらなんでも愛想悪すぎだろ。


「やっと来たぁー。いただきまーす」


 しかし、沙姫はそんな事は全く気にせず、目の前の飯に夢中のご様子。

 そんな沙姫を見たら自分もどうでもよくなった。

 ようやく料理が来たんだから俺も食べるとしよう。


 割り箸を割って海鮮丼と一緒に付いてきた醤油の入った小皿を取り、もう一つの小皿に入っていたワサビを醤油の中に入れて混ぜる。

 出来たワサビ醤油を海鮮丼の上から渦を描くように、外側から内側へと少しずつ回しながら垂らしてかける。


「そんじゃま、いただきますっと」


 ご飯の上にはイカ、ホタテ、サーモン、マグロ、ネギトロ、そして真ん中にイクラが乗っている。

 丼を手に持ち、まずはホタテを食べてからご飯を掻き込む。ホタテの甘さと醤油の塩っぱさが酢飯に合う。そして後から鼻に来るワサビの辛さ。いいねぇ。

 腹が減っているだけあって食べるペースが早い。

 ファミレスの料理ってこんなに美味かったっけ?

 いや、腹が減ってるから余計美味く感じたりしてんだろうな。空腹は最高の調味料って言うし。

 その調味料を差し引いても沙夜先輩のカレーは美味かった。悪いが、この海鮮丼はカレーには到底適わない。

 半分程を食べたあたりに、一度コーラを飲む。塩っぱくて少し喉が乾いたからだ。


 しかし、当然の事ながら海鮮丼にコーラは合わないな。少しと腕が疲れたので丼を一回置く。

 ふと沙姫を見てみると、美味そうに頼んだカルボナーラを頬張っている。

 しかも沙姫の奴、左手にスプーン、右手にフォークを持って綺麗に食べてやがる。スプーンの上でフォークをくるくると回してパスタを絡ませてぱくり。

 俺の勝手なイメージだと、焼きそばを食うみたいにズルズル食うと思ってたのに。

 変な所が妙に女っぽいな、沙姫は。ちょっとズボラそうに見えて料理が出来たりとかな。


「ん……? 咲月ふんはい、ほうほ腹いっはいなんへふは?」


 沙姫がこちらを向いて俺と目がう。

 不意に向かれたもんで、少しドキッとしてしまった。


「食いながら喋るな。何言ってんのか分かんねぇっての」


 そんなモゴモゴと口いっぱいにカルボナーラを入れてちゃ聞き取れない。


「むーっ」


 沙姫はオレンジジュースを飲んで、口に入っていたカルボナーラを流し込む。


「っぷはぁ。もうお腹いっぱいになったんですか、って聞いたんです」

「んな訳ねぇだろ、コレくらい食えるっての」


 まだ半分しか食ってないのに腹がいっぱいなる程、少食で財布に優しい身体にはなってません。まだまだ余裕で入ります。


「ボケーっとこっち見てるから、もう満腹なのかなぁーって」

「俺はお前がよく食うなと思って見てたんだよ」


 カルボナーラ大盛りを満面の笑みで食ってるのを。


「だーって、お腹空いてたんですもん」


 沙姫は口をツンと釣り上げている。

 でも、いくら腹が減ってたって言っても大盛りは普通頼むか?


「ま、いいや。喋ってないでほら食え、冷めるぞ」

「食えって……咲月先輩が食べてるのを止めさせたんじゃないですか」


 なんて沙姫はまた口をツンと釣り上げた。

 それからは互いに喋る事無く、自分の料理を平らげるまでは無言だった。

 無言だったと言っても、食べ終わるまではそんな時間が掛かる訳では無く、ほんの数分だけ。

 沙姫より僅差で俺の方が早く食べ終わった。


「咲月先輩、次は何飲みます?」


 空になった俺のグラスに沙姫が気付き、聞いてくる。


「そうだな……烏龍茶で」

「烏龍茶ですね、わかりました」


 沙姫は自分と俺のグラスを持ってドリンクを入れに行く。

 しかし、沙姫は大盛り……途中、俺が箸を止めたのを差し引いても食べるの早くないか?

 カレーの時も早かったのを覚えている。大食いで早食いなのか、沙姫は……の割にスタイルはいいよな。

 この間、家にお邪魔した時にアイツがヘソ出してた時に見たんだけど、結構引き締まった腰付きをしてた。

 多分、武術をやっていて鍛えているからだろうけど。前に沙夜先輩と組み手をしてるって言ってたしな。

 まぁ、その……胸の方は沙夜先輩と比べて明らかに見劣りしてるが。


「はい、どうぞ」


 コトン、と目の前に烏龍茶の入ったグラスが置かれる。


「お、おう」


 いきなり沙姫が視界に入ってきて驚いた。なんせ考えていた事が事だったので一段と。


「うん? どうかしました?」

「いやいや、なんも」


 適当に笑って誤魔化しながら、目を逸らして烏龍茶を飲む。

 沙姫はそんな俺を見てキョトンとしている。


「あ、咲月先輩。フライドポテトいただきますね」


 タイミングを見計らってたかのように、俺達が食べ終わってから間もなくして店員がフライドポテトを持ってきた。

 空いた皿もその時に持っていって、今テーブルの上にあるのはフライドポテトとドリンクのグラスが二つ。


「あぁどうぞ。どれ、俺も一つ」


 ポテトと一緒に盛られているケチャップを付けて、一切れだけ食べる。

 うん、フライドポテトだ。美味いも不味いも無く、ごく普通のフライドポテト。

 話をしながら食べる物としては有り、くらいの味。まぁ、どうせ冷凍食品なんだろうしな。


「さっき思ったんですけど、私達っておかしな仲ですよね」


 皿から取ったポテトを半分頬張って、沙姫が話題を出してきた。


「おかしな仲って、何がだ?」


 沙姫が言った事がよく分からず、聞き返す。


「だって、二人揃ってお礼してもらった事にお礼してるじゃないですか」


 お礼された事にお礼?


「……あーあーあー、なるほどね。確かにそりゃおかしな仲だ」


 言われた通り、本当に可笑しかったので少し笑ってしまった。

 最初は俺が沙姫をSDCで助けて、そのお礼にって肉まんを貰ったんだ。

 で、その肉まんのお礼で荷物を持ってあげたら、そのお礼にカレーをご馳走になった。

 そして、カレーのお礼が今このファミレスってなる。


「でしょ? 現に今もそれで来てますし」

「ははっ、そうだな。このままだと無限ループしそうだ」


 沙姫と二人揃って笑う。お礼のお礼だなんて聞いた事がない。

 それに、沙姫に言われるまで自分がそんな事をしていたのに気付かなかった。

 そんなおかしな事をしていたのを知ったら、そら笑いもする。


「そうですねぇ。どっちかが折れるまで続いたりして」


 笑いながら沙姫は言ってるが、冗談に聞こえない。

 もし沙姫が今日の分のお礼と言って何かお返しをしてきたら、俺はそれに対してまた何かお礼をする。

 お礼だと分かってはいるんだが、なんか貰いっぱなしってのはスッキリしない。かと言って向こうの気持ちを無下にも出来ない。

 対して沙姫も俺に負けないくらい頑固っぽいし、やられっぱなしは嫌いなタイプそう。

 そうなると、沙姫は折れる事はないだろうな。お互いに半分は意地だったり。

 それに、例え沙姫が折れたとしても、向こうにはまだ沙夜先輩もいるし。だから冗談には聞こえない。


「まぁ、何か欲しいから奢ったりしてる訳じゃねぇし……別に礼なんてしなくていいぞ?」

「ダメです。貰いっぱなし、奢られっぱなしは嫌いです」


 ほらね、思った通り嫌いだ。俺の読み的中。段々沙姫の性格が分かってきた。

 今の言い方だと、やっぱり意地も入ってそうだ。


「その辺は本人の意思だからな、なんとも言えないけどよ」


 食後のせいか、減りがイマイチのフライドポテトを一つ摘み取って食べる。

 一つ目を食べた時は出来たてでそれなりに熱かったが、今は少し冷めて暖かいという程度だった。

 ポテトを食べて、口の水分が少しなくなったので烏龍茶を飲もうとグラスを取る。


「そう言えば、咲月先輩って……」

「ん?」


 沙姫はジッとこっちを見て、自分の胸元を指を差す。


「いつもそのアクセサリー付けてますよね」


 烏龍茶の入ったグラスを持った手が、一瞬ピタリと止まる。


「……ん。まぁ、な」


 しかし、それを沙姫に気付かれないように、すぐ動かす。それとなく言葉を返して烏龍茶を飲む。


「いつも付けてるって事は、よっぽど気に入ってるんですねぇ」


 沙姫は俺の首に掛けている水晶を物珍しそうに見ている。


「それにソレって水晶ですよね? 綺麗だなぁ」


 沙姫は目を少し輝かせている。女の子だから、やはり綺麗な物は好きなんだろうか。


「これはその、なんて言うか……預かり物なんだ。無くす訳にはいかなくてさ、だから出来るだけ身に付けるようにしているんだ」


 そう、これは俺が一方的に受け取ってしまったモノ。アイツから貰っても、渡されてもいないのに、受け取ったモノ。

 だから、アイツに一度返して……今度はちゃんとアイツの手で、アイツの言葉で渡してもらわないと……。


「ふーん。いつも付けて大切にしているから、彼女から貰ったのかと思ってたんですけど……」


 沙姫は水晶から目線を離して、椅子の背もたれに寄りかかる。


「そんな良いもんじゃねぇよ」


 これは……形見だからな。彼女からのプレゼントだったらどれだけいいか。

 ま、今更また過ぎた事をウダウダと昔みたくイジけながら悔やむつもりはない。

 今は抗いがいながら、やれる事をやりながら悔やむ。


「てっきり私は咲月先輩には彼女がいるんだと……」

「いねぇいねぇ。こんな不真面目君にゃ彼女なんていねーよ」


 手を左右に振って否定する。こっちでは人付き合いは殆ど無いんだ。知り合いすら数少ねぇのに、彼女なんて出来る訳ない。

 作る気もないけどな。


「そう言うお前はどうなんだよ、彼氏とかいねェのか?」


 今度は逆に聞いてみる。


「私にですか!? それこそ無いですよ。こんな粗雑なのに興味を持つ人なんていませんって」


 ストローでオレンジジュースを飲みながら、沙姫は苦笑する。

 沙姫はあぁ言ってるけど、俺は結構可愛いと思うんだけどな。沙夜先輩だって美人だし。

 絶対学校では人気あるだろ。ただ周りにいる男子が手を出さないだけなんじゃないか?

 可愛い過ぎると逆に声を掛けづらい、みたいな。


「私の友達にはいるんですけどね、彼氏がいる人」

「へぇー。ならその友達に頼んで、彼氏から誰か紹介してもらえば?」


 そういうきっかけで付き合うってのは珍しくないからな。当たりハズレはあるけど。


「んー、でもそれって大体メールから始まるじゃないですか? でもなんか、私って長ったらしくメールを打つの好きじゃないんですよね……」


 あー、分かる気がする。話すなら数十秒で終わるのが、メールだと数分かかったり。

 あとは字を打つのが面倒だったり、何かしらでタイミングが悪いときにメールが来たりするとイラッとしたりな。


「仮にメールは何とかなったとしても、二人でどっかに行くってなったら気を使ったり、合わなかったりしそうで……」

「それも分かる。沙姫の場合、定番の恋愛映画見たり景色の綺麗な所に行ったりするよりも、ブラッと美味い物を食べ歩きしたりする方が好きそうだもんな」


 初対面同士でだと、やっぱり定番なのになりやすいからな。

 そこはメール交換で行きたい所を聞いたり聞かれたりするんだろうが、でも相手に気を使ったりしてそのまま流れて定番メニューに、てな具合で。


「そうなんですよ。そんな面倒な事や気を使ったりしなきゃならないなら、別にいいかなーって」


 ストローを口から離して溜め息を漏らす。


「そりゃお前らしい」


 その溜め息を見て笑う。

 あまりに沙姫らしくて、笑うつもりはなかったのだが思わず出てしまった。


「じゃあ、沙夜先輩は? 前に人気あるとか言ってただろ」


 確かメールで言ってたよな。美人で凄い人気だー、みたいに。

 あ、メールだから言ってた、じゃなくて書いてた、か?

 まいいや、そんな事は。


「姉さんにですか? うーん……そういう話は聞かないですねぇ」


 沙姫は腕を組んで、いかにも考え込んでいるようなポーズを取っている。


「ふーん……沙夜先輩にもいねぇのか、彼氏。あれだけの美人さんだからなぁ、彼氏の一つや二つはいるもんだと」

「ちょっと咲月先輩、一つや二つって、それじゃ二股じゃないですか!」


 目をカッと開いて、俺が冗談で言った事に突っ掛かってきた。


「あのな、冗談で言ったんだから真に受けんな」


 そもそも沙夜先輩が二股する様に見えねぇだろ。冗談とはいえ、自分で言っておいて何だけどよ。


「あ、でも……姉さんが誰かに告白されたって話は時折耳に入ってきますよ。友達経由ですけど」

「へぇ」


 やっぱりそうだよなぁ。あんだけの美人が告白されない訳がないもんな。


「だけど、全部断ってるみたいなんですよ。姉さん、好きな人でもいるのかな?」


 誰かが告白したって話は、その結果までが入っている。だから、その話と一緒に付き合っている、またはフラれたってのが広まってしまう。

 今はそういう情報源はないが、中学の時は多少だがあったからな。


「好きな人がいるなら、それはそれで気になるな。沙夜先輩がどんな人に惚れるのか見てみてぇや」


 本当に好きな人がいたとしても、少なくとも俺じゃないってのは確実。そんな知り合って間もないのに、それで好きになったっつったら一目惚れだろ?

 んな今どきドラマでも無ぇようなベタベタなB級恋愛映画や三流漫画じゃあるまいし。


「お客様」


 気付くと、知らない内に店員が来ていた。ちょいと話に熱中してしまったようで。


「お持ち帰りの方が出来上がりましたので、お帰りの際、レジで申し付けください」

「あ、どうもです」


 それだけを言って店員は戻っていく。

 愛想の悪い店員じゃなかった。休憩にでも入ったんだろうか。


「んじゃ、そろそろ出るか」

「そうですね。結構話しましたし」


 テーブルにうつ伏せになって置かれている伝票を取ってレジに向かう。

 レジに店員はいなかったが、呼び出し用のボタンを押したらすぐに出てきた。


「持ち帰りを頼んだんですけど」


 伝票を出して、先ほど店員に言われた通りに申し付けとやらをする。


「少々お待ちください」


 店員は伝票を確認すると、再び奥に消えていった。

 伝票を見たのは、持ち帰りのメニューを確認したんだろう。


「咲月先輩、何か頼んだんですか?」


 持ち帰りが何か気になったのか、沙姫が聞いてきた。


「ちょっとな、お土産を頼んだ」

「お土産、ですか」


 沙姫はあまり何なのか分からなかったようだ……ま、分からないように言ったんだけど。


「お待たせ致しました」


 店員が四角い箱の入った袋を持って来た。あれに頼んだアイス入ってるんだろう。

 そりゃな、持ち帰りなのにコーンの上にアイス乗っけて渡されても……ねぇ?

 どう持ち帰れって話よ。てか持ち帰りじゃねぇしな、それじゃ。普通と同じだよ。


「合計で二千七百五十円になります」


 店員がレジを打ち込んで値段がデジタル文字で表示される。

 おーおー、結構食ったな。持ち帰り分も入れりゃコレ位はいくか。

 財布から千円札を三枚出して渡す。小銭を出すのは面倒だ。

 お釣りの小銭を受け取って財布に入れると、中身が減ったのに財布が重くなるからアラ不思議。

 会計を済ませてからファミレスから出て、早くも外の暑さにゲンナリ。帰る為とは言え、これから駅前を通ると思うと尚更。

 つっ立って愚痴っても部屋に着く訳でもなし。歩きますか。


「咲月先輩、そのお土産って何を買ったんですか?」


 左隣を歩く沙姫がヒョコリと俺の視界に入ってきた。


「あぁ、これか。ほれ」


 左手に持っていたお土産の袋を沙姫に差し出す。


「カレーのお礼なのに沙夜先輩にはなんも無しじゃ悪いだろ?」


 ご馳走になった切っ掛けは沙姫だけど、作ったの沙夜先輩だし。余ったカレーをくれたのも。


「え、でも悪いですよ。たった今奢ってもらったのに……」


 しかし、沙姫は両手を左右に振ってアイスを受け取ろうとしない。


「そのたった今の奢りと一緒に買ったヤツだから気にすんな」

「でも、そんなに奢ってもらうのも悪いですし、それに姉さんもきっと遠慮すると思いますから……」


 ずっと差し出しているのに、沙姫が受け取らないんで腕が疲れてきた。


「でも買っちまったしなぁ」

「すいません、さすがにこれ以上は悪いですから」


 少し困った顔を作って袋を見る。

 しかし、俺は沙夜先輩へのお礼のつもりでアイスを買った。なので自分で食べる気はサラサラ無い。


「ふぅ、そうか」


 しょうがない。なら沙姫には俺の頑固さとやらを味わってもらおうか。


「本当すいません」


 今の俺の言葉を諦めの言葉と受け取ったのか、沙姫は申し訳なさそうに謝っている。


「……沙姫」

「はい?」


 悪いな。今のは終わりではない、始まりだ。


「悪いけど、俺は引くつもりはない。意地でもこれを受け取ってもらう」


 そう言って俺はもう一度沙姫に袋を突き出す。


「え……ちょ、ちょっと、咲月先輩!?」


 沙姫はまた突き出された袋を見て困惑している。

 俺が折れたと思ったのに、また諦めずに言われたらそら当然の反応だ。


「お前、自分で言ってただろ? 俺は中々言った事を譲らない頑固者だってよ」

「そ、それは冗談で……! いや、半分は本気でしたけどっ!」


 少し混乱しているのか、ちょっと本音がチラついたけど今はスルーだ。


「ま、今のは冗談だけどさ。でもやっぱ、これは受け取って欲しいんだよ」


 ガサリと音をたてて袋を少しだけ揺らす。


「ありがとうございました、って言葉で礼をするのもあるんだろうけどさ、俺は形にして表したいんだよ。安物だけどさ」


 視線を袋から沙姫に移して、苦笑いをする。


「それにほら、沙姫だけに奢るってのも平等じゃねェだろ? ちゃんと二人に礼をしたいし」


 しかし、沙姫はまだしかめっ面をしている。それだけ貰うのは悪いと思っているのか。

 別に金の指輪だとか、そんな高いモンじゃないのにな。たかがアイスなのに。

 ま、そんなアイスに俺も意地になっているんだけどもね。


「貰って沙夜先輩になんか言われたら、俺に無理矢理持たされた。とかって言えばいいし」


 だからホレ、受け取れ。と言うように袋を更に沙姫へ突き出す。


「……はぁ」


 しかめっ面をしていた沙姫が、ファミレスの時よりもデカイ溜め息を吐いた。


「もう、分かりましたよ。貰います、貰いますよ! 本っ当に頑固ですね、咲月先輩は!」


 しかめっ面は渋々顔に変わり、アイスの袋を受け取る。

 ウィナー、俺。心の中でガッツポーズを取る。勝因は相手より先に頑固さを出した所か。

 相手も頑固さを出してしまったら互いが意地になって長期戦になる。

 だが、相手より先に頑固さを出して相手の出鼻を挫けば、意地になるタイミングが無くなって押されるまま受け取るしかなくなる。

 ま、俺が頑固だって事を沙姫が知っていたってのも入ってるかな。


「あーぁ、結局咲月先輩に言い負かされちゃうんだもんなぁ……」

「んな事言われてもなぁ。元々沙夜先輩に買ったんだし」


 沙姫はまた溜め息を吐いている。

 やっぱり礼はしなくちゃいけないもんな。もし沙姫が頑なに断って、俺が自分で持って帰る事になっていたら食ってただろうけど。

 甘いモンは嫌いじゃないし、むしろ好きな方だ。


「それに、咲月先輩って頑固なだけじゃなくて口も達者なんですね」

「口が達者ぁ? 俺が?」


 そんなの生まれて初めて言われたよ……頑固者だってのもな。


「だって、これをあげる為に即席の理由だと分かってても、思わず納得しちゃいましたよ」

「即席、ねぇ」


 これ、と言った時にアイスの袋を差すように、沙姫はヘソの高さまで持ち上げる。

 あれは全部本音だったんだけどな。でも、今は思えば勢いで言っちゃった感が大分あり、なんだか少し恥ずかしくなってきた。

 だからそれでいいや。


「あ、そうそう。中身はアイスだから帰ったら冷やしとけよ。一応お前の分もあるから沙夜先輩と一緒に食え」


 袋を指差して中身を教える。

 この暑さじゃすぐ溶けそうだが、こういう持ち帰りとかにはドライアイスなんかが入っていて、家に着くまで余裕で保つはずだ。


「え? 私のもあるんですか?」

「まぁな」


 沙姫にはファミレスで奢ったとは言え、家で沙夜先輩だけがアイスを食ってるのを想像したら、ちょっとな。

 沙姫だけ両方あるなんてズルイ気もするけど、そこは沙姫が運が良かったって事で。


「んじゃな。俺はこっちだから」


 話が納まった所で、調度良くお互いの分かれ道に出た。

 あんなやり取りをしつつ、しっかりと歩いてた俺達はかなり器用なんじゃないだろうか?


「あ、はい。今日は本当にありがとうございました」


 と言って大きく手を振る沙姫。

 それに『早めに食えよー』と言って、背中を向けたまま手を小さく振り返した。





    *   *   *





7/20


 本日、無事なんとか期末テストが終わった。

 テストが終わったばかりで、まだ答案用紙が返ってきた訳ではないが、高点数は無理でも赤点は避けている自信はある。

 一夜漬けがうまくいったようだ。正確には一夜じゃないけど。

 でもまぁ、高校になってからは今までこれで乗り切ってきた。さすがに自分でも手慣れてきた感がある。


 さて、テスト日ってのは最終日でも午前で学校が終わる。

 テスト期間中はおとなしく帰って勉強をしていたが、それはテストが終わったらやる必要はない。なので、なんとなくブラブラと駅前を回ってみた。

 最近になって、自分が結構バイトに時間を費やしていたのに気付いた。

 本屋、レンタルショップ、ゲーセンなどに行ってみたけど、どこもなんかパッとしない。

 それでも時間は過ぎてくれるらしく、夕方までは時間が潰せた。行くとこは行ったんで、そのまますぐに部屋に帰った。


 今では冷房の効いた部屋のベットの上で寝転がっている。

 そういえば、さすがにテスト日は休む訳にはいかなかったようで、エドの奴が学校に来てテストを受けていた。

 アイツを見たのは何日ぶりだったか。学校じゃ相変わらず女子に囲まれていて、教室に居てもほとんど喋ってない。おまけに放課後になるとすぐに消えていた。

 まだ何かを調べてるんだろ。何かって言うか、確実にSDC関連なんだろうが。

 俺はSDCが開催されないとやる事が無いからな。

 あ、いやいや、やる事はあった。あったと言うかやっている。鈍った身体を鍛え直す為のランニング。

 でもさすがに、ランニングだけで以前までに戻すのは難しい。

 誰かこう……実戦、とまではいかないけど、組手ぐらいを出来る相手が居てくれればいいんだけど。


「……あ」


 ベットから上半身だけを起こす。

 条件に当てはまる奴がいないか、ダメ元で脳内検索をしてみたら……いた。

 かなり身近にいるじゃねぇか。しかも、二人も。さらには組手の出来る場所まで揃っている。

 そう、沙姫と沙夜先輩だ。あの二人なら武術をやっているから、ちゃんと形になった組み手が出来る筈だ。

 普通に歩くのに歩法が出てしまう程なんだ、そうとう鍛えていると考えられる。道場もあるから場所には困らないし。明日あたりにでも、学校で聞いてみるか。

 会えなかった時はメールの出番だ。

 起こした上半身を再びベットの上に寝転がせる。


「あー……」


 ここ三日間程、夜はランニングから帰ってきたら勉強をして、睡眠が少なかった。今日は駅前を回って少し疲れたってのもあってか、眠気が襲ってきた。

 飯を食うのにもまだ時間が多少早い。やる事も大してないし、ここは眠気に抵抗せず、軽く仮眠を取ろう。

 瞼を閉じて、視界をシャットアウトする。部屋は静かで、普段は気にもならないエアコンの音が聞こえてくる。

 そのエアコンの音も、段々と小さく聞こえなくなっていく。

 眠気が襲ってきた時は当たり前ながら寝付くのに時間は掛からず、メガネを掛けて綾取りが得意な少年並みの早さで眠りに入った。




    *   *   *




 ――――ヴ―……。

 ――――ヴー……ーン。



「ん、あ……」


 ヴー、ヴー、ヴー。


 聞きなれた機械音が頭の上で五月蝿く鳴っている音が耳に入ってくる。

 その音で起こされ、もぞりとベットの中で動いて携帯を探す。


「……ったく、誰だよ」


 手探りで見つけた携帯を手に取って顔を上げる。


「せっかく仮眠取ってたのによ」


 頭を掻きながら身体を起こすと、さっきまでは明るかった部屋が今じゃ真っ暗。


「あれ?」


 どうやら仮眠のつもりが熟睡になったしまったようだ。

 しかも、自分の感覚では寝付いたばっかりなのだが、眠りが深かったのか起きたらそうじゃなかった。

 でも、まぁ。考えてみれば起こされて良かったのかも知れない。

 長く寝すぎるといつもの夢を見る事が多い。


「で、メールは誰だ、っと」


 バイブが鳴っていた長さで、電話かメールかが分かる。携帯を開いて画面を見ると、画面の明かりが凄く眩しい。

 そりゃそうだ。さっきまで寝てて、暗い部屋で明るいのを見りゃな。

 携帯をいじってメールフォルダを開く。


「お……珍しいな、アイツからかよ」


 メールはエドからだった。

 内容は『明日の放課後、屋上に来てほしい。大丈夫か?』と、簡潔な物だった。

 屋上に来いってんだから、何か話があるんだろう。

 『了解。放課後な』とメールを返信して、ベットの上に携帯を置く。

 ベットから降りて立ち上がり、部屋の電気を付ける。さっきの携帯の画面程までとはいかないが、明かりがまた眩しかった。

 出窓を開けてベランダに出る。やはり夏なので夜でも暑い。だけど、昼とくらべればまだ涼しい。

 昨日の夜に洗って、今日の朝に干していたジャージを掛けていた物干し竿から取る。所々を触って乾いているかを確認する。

 当然、上下揃って乾いていた。朝から干していたのに乾かないなんて事はないからな。夏でしかも晴天のクソ暑い日に。


 ジャージからハンガーを外して、物干し竿に掛けて部屋に戻る。ついでに出窓の鍵とカーテンを閉める。

 ジャージはベットの上に投げて流し場に行く。冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し、冷蔵庫のドアを足で閉める。

 部屋に戻ってベットに座り、携帯を探す。

 どうやら、さっき投げたジャージの下に埋もれてしまったらしい。

 ジャージを退かすと、携帯はすぐに出てきた。エドからメールの返信が来ているか調べてみるが、来ていなかった。

 まぁ、いつもアイツとのメールはこんな感じだ。

 必要な事だけを伝えたら終わり。冗談混じりの笑っちまうような気の利いたメールなんてやらない。返信をさせるような内容で返していない俺も俺だけど。

 ジャージに埋もれないように、今度は携帯をテーブルに置く。お茶を三口分ぐらい飲んで、一息つく。


 さて、どうしようか。

 携帯で時間見たら九時を過ぎていた。今から飯を食ったら、ランニングに行くのが大分遅くなる。

 しかし、ランニングから帰ってきてから食べたら、後は寝るだけだから太りそうだし……


「んー……」


 多少悩んだが、食ってから走りに行こう。腹が減っていて、どっちみち食ってしまいそうたから、どうせ食うなら今の方がいい。

 食休みも入れてランニングに行くのは大体十二時過ぎるか過ぎないかあたりだろ。

 じゃないとせっかく食べたのをリバースして土の肥料にしてしまう。分かりやすく言うと吐くって事だ。


「さてと、飯の準備するか」


 ペットボトルをテーブルに置いて、ベットから尻を上げる。

 今日の晩飯は昨日の残りの野菜炒め。ちなみに、ここ数日は野菜炒めオンリーだ。味付けは違うけど。





    *   *   *





7/21


「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――」


 夏の暑い夜の中、今の季節には不似合いな上下長袖のジャージを着て走る一人の少年。時間も既に零時を過ぎ、日付が変わった。

 まったく人気の無い河川敷を何周も走り回る。時間が時間だ。人がいる訳がない。

 結局、部屋を出てランニングを始めたのは十一時半頃だった。後からランニングをするのに腹一杯食う程、俺も馬鹿じゃない。

 だから腹六分程だけ食べた。それなら幾らかは消化されるのは早いと思って。


「ハッ、ハッ、ハッ!」


 一定のリズムを刻むように走る。今は何周目だったか。すっかり数えるのを忘れていた。だけど、感覚でなんとなくでは分かる。多分四週目ぐらいだ。

 ランニング中はポケットに入れていると邪魔なので、携帯は部屋に置いたままで代わりに安物の腕時計をしてきいる。

 安物にしてはデザインは悪くなく、なんだか気に入って去年に買ったはいいが付ける事は殆どなかった。

 時計を見ると時間は一時間が過ぎていた。今日はこれ位にしよう。

 走るスピードを段々と落とす。走っていた時のリズムはズレていき、走りは歩きに変わる。

 少し歩いて、土手の上へ上がる大きな階段の前で立ち止まる。


「ハァ、ハァ、……」


 手を膝に置いて息を整える。

 自分の右手側にある階段は使われている石が所々違い、近くで見ても分からないが、遠くから見ると大きな木の模様になってる。

 この階段を作った人の遊び心か、それとも市がそういう風に頼んだのか。

 ま、ただの真っ白い階段よりはマシだ。荒くなった息を整える間、なんてない事を思いながら暇を潰す。


「ハァ、ハァ……ふぅ」


 最後に深呼吸をして、置いていた手を膝から腰に移動して背筋を伸ばす。まだ少し荒い息をしながら、星を見ようと空を仰いだ。


 ――――その時だった。


 脊髄を通して背中、首。そして後頭部から頭上へと。ぞわりと何かになぞられた様に寒気が走り、髪の毛が逆立つ感覚。

 身体が覚えている。この感覚を。

 全身に鉛を付けたように重くなる身体、息をするだけで鼓動が激しくなる心臓、考えるだけで眩暈を起きる頭脳。

 それを起こす原因が、軽い口調で微笑いながら声を掛ける。


「コンバン、ハ」


 一瞬寒く感じたと思えば、次は全身が急速に熱くなる。ドッ、ドッ、と心臓の音が忙しく鳴り出して五月蝿く聞こえ、顎からは汗が滴り落ちる。

 手を握ろうにも指をうまく動かせず、ほんの微かに動くだけ。


「なんや、こんな夜中に一人トレーニングかいな」


 聞き覚えのある声が耳に入ってくる。顔はまだ確認していない。だが、この感覚と喋り方をする奴は一人しかいない。


「か……はっ……」


 うまく息が出来ない。唾を飲むと、喉から音がゴクリと大きく聞こえた。

 ろくに回らない頭脳で必死に考える。逃げるべきか、戦うか、どうすればいいか。

 息が出来なく、頭脳に酸素が足りないせいか、眩暈がする。

 そして、眩暈と一緒に頭痛も起きた。


 ――ズキリ。


 痛みで目を瞑る。だが、その頭痛が混乱し掛けていた思考を正常に戻してくれた。

 気付けば痛みで頭を手で抑えていた。手もちゃんと動く。さっきまで石のように重く、固まっていた身体も元に戻った。

 いや……治った、の方が正しいか。


「ハッ…………ハ、ァ……」


 息も普通に出来る。不足していた酸素が頭脳に回り、眩暈も消える。

 歪んでいた視界も正常に。働くようになった頭脳が回る。

 もう奴の気迫に呑まれてはダメだ。さっきみたいになってしまう。呑まれてしまえば戦うどころか逃げる事さえ出来ない。


「どないした? さっきから固まってるで」


 まずは奴を見ろ。正面から見て、奴の威圧感に怖じ気づくな。でなければ何も出来ない。

 呑まれるな、打ち勝て。竦むな、掻き消せ。


「はっ……ふ、ぅ」


 静かに小さく、深呼吸をする。目の奥が熱い。首筋も、背骨も、腕も、息も。全部が熱い。熱過ぎるくらいに、熱い。

 首を動かし、階段の方へと視界を回す。今夜は月が出ている。目も暗さに慣れて、月の明かりもある。

 奴を見るのは容易い。自分の目は階段を捉え、視線を上目へ上げる。

 自分は奴を見上げ、奴は俺を見下ろす。月明かりで奴はハッキリと見える。予想は当たっていた。

 頭脳に浮かび上がっていた予想通りの男が、なんの捻りもなく立っている。

 夜風が吹き、奴の長い金色の髪が空に流れる。

 視線を合わせ、気合い負けしない様にしようとするが、以前と変わらず前髪で目が隠れていて合わせられない。

 しかし、目を合わせられないにしても、呑まれない様に気当たりをする。


「そんなん気張んなくていいっちゅうねん。何も取って喰おうって訳やあらへん」


 俺の気当たりに対してなんの反応もない。気にする程でも無いってか。


「確かアンタはテイル、だったか……?」


 声の正体、それは以前に先輩とSDCで戦っていた時に現れた男。それはテイルだった。

 この威圧感と、それに似つかわしくない軽い口調。この二つだけで、姿を見なくても簡単に予想が付く。


「おっ。なんや、俺の名前知っとんたんかい。誰から聞いた?」


 そうか、しまった……ッ! 俺はあの時のSDCで初めてコイツと会ったから、名前は知らない筈なんだ。


「……エドから聞いた。互いに知っている風な会話をしていたからな」


 あの時、先輩と戦り合っていた時にエドが助けに来た。それで俺が既にエドとの関係があるという事は知られている。

 だが、コイツは俺が白羽さんと接触、協力し合っている事は知らない。なら、それは隠すべきだ。


「あぁ、なるほどなぁ。あのハンサム君なら、確かに知っとるわ」


 テイルは顎を手で撫でながら納得している。


「けど……」


 撫でていた手を止め、隠れた目で俺を見る。瞬間、今まで以上に空気が重くなる。


「名前だけか、聞いたんは……?」


 さっきまでと同じ口調なのに、明らかに雰囲気が違う。

 何メートルも上から頭に岩を落とされた様な……空気だけじゃなく、身体も重くなる。

 錯覚だと分かっていても、あまりの重さに骨が軋む音まで聞こえそうな。


「……それだけだ。他は何も教えてくれなかった」


 そうか、隠すのは白羽さんの事だけじゃない。エドとの関係も多少は隠さなければいけない。

 接触はしていても、あまり親しくないと思わせなければ。

 そうしないと、俺がエドを通してSDCの情報を知った事がバレればどうなるか分からない。

 感付かれれば、最悪この場で……ってのもあり得る。

 だからエドからは名前以外は聞いていない、むしろ教えてくれなかった、という事にしなければ。

 エドはSDCに関しては何も喋っていない。そういう事にすれば、俺と白羽さんとの接点も遠くなる。


「……先輩の事もな」


 そしてさらにここで一言、追加する。

 俺が一番エドに聞きたがる事。そして、一番SDCに関わりの深い事でもある。

 それをエドが俺に話さなかった事にすれば、SDCに関しては一切話されていない俺は、何も知らない参加者の一人に過ぎない。

 これなら変に俺が探られる事はない筈だ。さらに、喋った時に眉間にシワを寄せて、怒りを思わせる演技も忘れない。

 いや、演技じゃなくてこれは本心、か。


「……そうかぁ」


 少し間が空いた後、テイルは頭を掻き、威圧感は変わらずあるが雰囲気は元に戻った。

 だが、テイルが今ので全てを信じたとは思えない。俺が小さいボロでも出したら感付かれる可能性もある。

 会話は常に気を付けなきゃいけねェ……。


「で、アンタは俺に何の用があって来たんだ?」


 この話題で長く話をしたら、どこかでボロを出す確率が増える。なら話題をそらしつつ、率直に本題に入ろう。


「あー? あー、ちゃうちゃう。別に君に用があったんちゃうわ」


 手の平を怠そうに振に振り、否定する。


「何?」


 俺に用があったんじゃない? 確かによく考えてみれば、テイルが俺の所に来る理由がない。

 このタイミングで俺に会いに来るとすれば、白羽さんとの接触に関しての事だろう。

 しかし、奴の先程の反応じゃ恐らくだが、俺と白羽さんが一度会っている事も協力している事も知らないと思える。

 他にある理由としたら、別人格の先輩の固執。あれだけ俺を壊すと拘っていた。

 実験の被験体である先輩の興味対象の俺が逃げない為の監視か……。

 いや、それはない。そんな事をしなくても、俺が先輩を放って逃げるなんてしない事は奴は分かっている。

 そもそも、監視をしているなら本人の前には出てこない。なにより、そしたら白羽さんとの接触がバレている筈だ。


「ならなんでここに来た? たまたま通りすがりに見つけた、ってか?」

「そうやで。用足ししてたら君ィ見付けてな、知らん仲でもあらへんし声掛けたんや」


 クソッ、まだ少し身体が重い。それに嫌な汗も止まらない。

 ケラケラと笑って話す金髪。エドが言っていた、コイツは気まぐれだと。その気紛れのせいで俺は今、精神がスリ減る様な思いだ。


「それと連れが中々戻らんさかい、暇潰ししよ思てな」


 用足し……? 連れ……?


「その用ってのは、なんだ?」


 連れってのも気になるが、一つずつ慎重に聞こう。


「ん? んー……まぁええか。暇潰しをしに来たんやし、お喋りは好きや」


 テイルは立っている階段より一段上の階段に座る。くつろぐテイルに対し、俺は変わらず固く身構えたまま。


「ここいらに来たんはな、そうやな。材料探しとリハビリ、とでも言っておこか」

「材料……」


 まさか……いや、間違いない。コイツの言う材料はアレしかない。

 人体実験の材料、つまり……人材――――!

 ここに来たのは先輩の様な人材を集める為のついでだったのか!

 あの時の先輩を思い出したら、拳を握る力が強くなる。


「ま、こっちの都合上、何の材料かは教えれへんけどな」


 っと、そうだ。俺はSDCに関しては何も知らないフリをしなきゃならないんだ。

 下手に反応したり、感情を高ぶらせたりしたら怪しまれる。気持ちを抑えないと。


「でもま、リハビリは何なのかっちゅうんは教えたるわ」


 テイルは俺の様子に気付かず、話を続ける。


「じゃあ教えてくれよ。なんだ、そのリハビリってのは?」

「なんや? 随分と切り替え早いな。材料について食い付いてけぇへんのか?」


 膝に肘を置き、頬杖を立ててるテイルは少し拍子抜けした様な声だ。


「教えられないって言うなら、いくら聞いても教えてくれないんだろ。だったら聞くだけ時間の無駄だ」


 時間の無駄、という本音も入れる事で多少の真実味が出る。

 そして、あえて材料という言葉に大して反応を示さなければ、俺は人体実験については何も知らない。という線がテイルの中では濃くなる。


「まぁ、そうやな。君の言う通りや」


 テイルは頬杖をやめて、ポケットに手を入れてタバコを取り出す。


「じゃ言った通り、リハビリが何なんかを教えたるわ」


 タバコを口にくわえ、銀色に輝くジッポをポケットから取り出して火を点ける。

 フゥーッと息を吐き、煙が空に向かって上って行く。


「リハビリはリハビリ、そのまんまの意味や」


 テイルはタバコを一口吸ってから、ライターとタバコを元あったポケットに戻す。

 辺りにはタバコの臭いが漂う。


「どういう意味だ。遠回しに言ってないで教えろ」

「言うたやろ、まんまや」


 回りくどく話すテイルに苛立ちを覚える。

 力を抜いた筈の手に、また知らない内に力を入れていた。

 なんでだろうか。なぜか俺は焦っている。テイルから出る答えに、なにか不安を感じる。


「だから一体どう……」

「分かっとるんやろ。ほんまは気付いとるんや」


 テイルに言われ、ズクリと胸に何か鋭利なモノが刺さったような感覚がした。

 そして、心臓の動きが速くなる。


「だから、そないにムキになって俺に聞くんやろ? 自分からは認めとうないから」


 テイルはタバコをまた一口吸って煙を吐く。人差し指を使い、二回軽く叩いてタバコの灰を地面に落とす。

 心臓の動きが早くなるだけでなく、ドクドクと心音まで大きくなる。


「ま、俺は親切やさかい。ちゃんと言ったるわ。リハビリっちゅうんはな、明星君の事や」


 まるで長い間、息をしていなかったかのような一息が出た。

 ハァ、と一息。その吐いた息は、とても熱く感じた。


「この間に言うやろ。まだまだ、ってなぁ。あん時は不安定やったさかい、それを安定させる為の慣らしも込みでリハビリっちゅうこっちゃ」


 この答えを聞いても、全く驚いていない自分がいる。

 やはりテイルが言った通り、俺は頭のどこかで解っていたんだ。

 だけど――――。

 エドや白羽さんの話を聞いても、あれほど豹変した先輩を目の当たりにしても、まだ俺は、あんなになってしまった先輩を認めたくないんだ……。


「……チッ」


 本当に小さく、近くにいるテイルにすら聞こえない程小さく。

 一度、舌打ちをした。嫌な事をあっけらかんと話すテイルに対してじゃない。自分自身にだ。

 未だに現実を見ず、楽観的希望を心のどこかに持ってそれを望んでいた。

 そんな自分の弱さと甘さに腹が立つ。また自分にとって嫌な事から勝手な希望を持ち、認めず、逃げていた。

 エドが隣にいたら、一発顔をブン殴ってくれと頼んでいた所だ。

 自分で殴ってもいいが、こんな状況ではそんな事をやってる場合でもない。

 ヤバイ状況なのは変わっていない。自分をシメるのは後だ。


「その反応、どうやら図星やったっぽいなぁ」


 ほらな、と言いながらケタケタ笑う。その笑い声でさらに苛立ちが募る。


「いや、待てよ……」


 リハビリ……そうだ、リハビリだ。コイツは確かに言った、何度も。

 リハビリってのは不自由な所を正常に治す為の訓練。それをやっていると言う事は、まだ先輩は別の人格に完全に取り込まれていない……!

 慣らし、というのは長時間安定させる為の試運転みたいなモノだろう。

 つまり、それらを行っているって事はまだ間に合う……! 先輩を助けだせる!


「フーッ。ほな、そろそろ話は終いや」

「なに?」


 吐いたタバコの煙は空へ上がっていくにつれ、消えていく。


「暇潰しは終わり言うたんや。待ち人が来よったからな」


 テイルは座っていた階段から立ち上がり、三分の一程の長さまで短くなったタバコを地面に落として靴で火を踏み消した。

 そしてテイルは首を回し、土手の上の方に視線を向ける。それに釣られ、俺も同じ方向に目をやる。

 文字通り、身に覚えのある感覚が身体の周りを覆う。

 そりゃ覚えもあるさ。なんたって“一度会ってる”んだからな。

 視線の先に、夜の色とは対照的な白色の髪を月明かりに照らされ、一人の男が現れた。


「あ? 他に誰かいたのかよ。何を一人でブツクサ言ってんのかと思った」

「お前が遅いから暇潰しに付き合ってもらってたんやっちゅうねん」


 明らかに元の先輩の口調とは違い、荒々しさのある喋り。

 元の先輩も喋り方は丁寧ではなかったが、こんなにザラザラはしていなかった。


「しかも誰かと思えば……」


 別人格の先輩が俺を見る。

 あんなに俺を壊す事を望んでいた。今すぐ、ここで戦る事になってもおかしくない……ッ!

 前回と同じで棍も持っている上に、テイルまでいる。

 これは本格的にヤバイ……。


「こォォぉぉんな所で会えるなんてなぁァぁ。お前の事はよーく覚えてるぜぇ」


 ニヤリと心底嬉しそうな笑みを浮かべ、棍を肩に乗せる。


「くっ……」


 殺気を放たれ、俺は咄嗟に構えを取る。

 しかし、何か変だ。確かに殺気を放たれている。だが、前に会った時とは違う。

 例えて言うなら、この前はただ殺気が出され、多方向へ疎らに流していたって感じだった。

 だけど今は、疎らになっていた殺気をまとめたような……鋭く尖った感がある。

 それと雰囲気だ。ドス黒く、嫌な感じは変わっていない。

 けど、なんだ……? なにか違う雰囲気が先輩からする……?


「コイツの後輩で、確か名前は……そうだ、咲月だったな」


 肩から棍を降ろし、先端を地面に着ける。殺気がさらに強くなった。

 戦る気か……ッ! 限りなく危うい状況。しかし、戦らなければ確実に死ぬ……!


「はーいはい。盛り上がっとる所悪いんやけどな、今回はお話しに来たんや。咲月君とはやるつもりはあらへん」


 俺と別人格の先輩との間に割って入るテイル。


「……おい、どういうつもりだ」


 戦る気満々だった所を止められ、頭にきたのか別人格の先輩はテイルを睨む。


「あんな、お前遅刻してんやぞ。時間が押しとるっちゅうの。そんなんしてる暇あらへん」

「……チッ」


 別人格の先輩から殺気が薄れていく。


「咲月君とはSDCでいつでも出来るやろ。そんで、材料はどうした?」

「あん? ありゃハズレだ、ハズレ。あの程度のモンはもう揃ってるだろうよ」


 別人格の先輩は明後日の方を向き、手をヒラヒラと振る。


「そうか……ま、ええか。とにかく帰るで」


 テイルは軽く飛んで階段から土手の上へ登る。

 ポケットに手を入れたまま、まるで小さい花を踏まないよう飛び越えるように十段はあった階段を跨いだ。


「……」


 そんな二人をただ見て、俺は……ホッとしている……?

 戦わずに済む事に、安心している。

 ヤバイ状況だったのも分かる。勝つ確率なんて低いのだってのも分かる。

 だけど、先輩を救い出す数少ないチャンスだったのに、俺はそれを見逃して、自分が助かった事に喜んでいた。


「――――ッ!」


 ダメだ。このままじゃ次に会った時も俺は何も出来ないで終わる。

 俺は心のどこかで理由を作って、先輩と戦う事を避けていたんだ。

 戦ったら先輩が変わってしまったのを認めてしまうから。元の先輩がいなくなるかもしれないのが嫌だったから。

 それじゃダメだ。そんなんじゃ、ダメだ!


「おい、お前」


 一度目を閉じて、息を吸って土手の上にいる奴に話し掛ける。


「ん? なんや?」


 帰ろうとしていたテイルが振り返り、こちらを見る。

 しかし、俺が話をしたいのは違う方だ。


「違う、アンタじゃない。隣のお前だ」


 テイルに目を合わせず、隣にいる別人格の先輩を睨み付ける。


「あ? 俺の事言ってんのか?」

「みたいやな」


 睨み付ける俺を、別人格の先輩は上から見下ろす。

 戦る事はなくなり、殺気は無くなったというのに、雰囲気の黒々しさは変わらずに放たれている。


「そうだよ、お前だ」


 しかし、目を逸らしてはならない。コイツとも、この現実とも。


「お前の名前、なんて言う?」


 いつまでも一々別人格の先輩、と呼称するのも疲れる。何より、コイツを『先輩』と一括りにするのが気に入らない。


「名前? ……くっくっくっク。なるほど、そう言えばそうだな」


 問いに対し、別人格の先輩は顔に手を当てて笑う。


「なぁ、俺ァなんて言うんだ?」

「そやな、確かに決めてへんかったな」


 別人格の先輩は、テイルに俺の問いをそのまま聞き返す。

 そしてテイルも、その問いに笑う。


「自分の事やからな、自分で決めりゃいいんちゃうか?」


 腰に手を当て、まだ少し笑いながらテイルは軽い口調で話す。

 今の会話だとまさか――――。


「名前が、無いのか?」


 その言葉に反応し、別人格の先輩は笑いを止めて俺を見る。


「さっきのさっきまで、自分に無いのを忘れてたわ」


 顔に当てていた手で後頭部を掻く。


「別に呼ぶのに困らへんかったもんな」

「そうだな。アレとかコレ、アイツとかコイツで十分伝わるからな」


 アレやコレって……先輩をモノ扱いってか、ふざけやがって……!


「ただ、いい機会だ。俺にも名前を付けちまうか」

「なんや、なんかええのがあるんか?」

「あぁ。丁度今な、いいのを思い付いた」


 自分に名前を付けようとする別人格の先輩に、テイルは面白そうに興味を見せる。


「コウ、ってのはどうだ?」


 別人格の先輩はにやりと口斜めにして嘲笑う。


「なんや、普通でおもろないな」


 期待してたような名前じゃなかったせいか、テイルは肩をすくめる。


「いや、そうでもないぜ?」


 くっくっくっ、とまた声を殺して笑う。


「“まだまだ”なんだろ、俺は。この“人格”はよ」

「あ……あっはっはっは! なるほどなぁ、そら確かにいい名前や。あっはっは!」


 それを聞き、さっきの態度と変わってテイルは腹を抱えて大笑いする。

 俺には笑う意味は分からず、2人をただ見ているしかない。


「いやぁ、なかなか上手いやないかぁ、お前」


 二人が笑っていても、この場の空気の重さは変わらない。

 夏の暑さとは別の汗が止まらない。いや、暑さなどを気にする余裕なんかない。


「そういう事だ、咲月」


 笑うのを止め、棍を片手で持って肩に乗せる。


「そうか」


 肩に乗せている棍を、トントンとリズムを刻むように上げ下げする。

 そして俺は、鉛を付けたように重く感じる腕を動かす。

 右手の人差し指を立て、白髪の男に指を差して睨む。


「お前は必ず、俺がブッ倒す」


 別人格の先輩は動かしていた棍を止める。


「あぁん? テメェの先輩をテメェで潰すのか?」


 コウは指を差されたのと、喧嘩を売られたのに腹を立てたのか、殺気が漂う。


「俺が言った事を聞いていなかったのか? 先輩じゃない。“お前を倒す”っつったんだよ」


 俺が倒したいのは先輩じゃない。そして、こんな奴は先輩なんかじゃない。

 奴を『先輩』と認識するのも、呼ぶのも先輩に失礼だ。奴は“先輩”じゃない。まったくの別人なんだから。

 そう――――。


「コウ……ッ!」


 コウから出されている殺気に、気合いを放って対抗する。


「上等だァ――ッ!」


 低い声をあげて眉を寄せ、眉間にシワを作ってコウはさらに殺気を放つ。そして、その殺気は鋭さが増していく。


「せっかくやけどな、さっきも言うたけど……」

「わってるよ。今日はもう戻ンだろ」


 俺から目線を外し、コウは不機嫌そうに舌打ちをする。


「ほな、俺等はこれで帰りますわ。邪魔して悪ぅかったな。気にせず続けてや」


 それを最後にテイルとコウは土手から降りて消えていった。

 完全に二人の雰囲気も消えて無くなり、辺りは静かな空間に戻った。

 目前の危機が去り、安堵して緊張の糸がぷつりと切れ、その場に尻餅を突く様に座り込む。


「続けられる訳ないっての」


 その場に寝転がって空を眺める。笑っちまう程、月が綺麗だった。


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