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No Title  作者: ころく
84/85

Last No. Title

9/6


 夏の季節と言われる八月は終わりを迎え、秋が顔を見せ始める九月。

 しかし、カレンダーを捲っただけでいきなり季節が変わる筈も無く。今でも多くの蝉が鳴いて、太陽が強い日差しを落としている。

 窓から見える空には白い雲が流れ、温度は高くて項垂れそうでも、空は青くて気持ちがいい。そんな夏の景色を冷房の効いた快適な空間から眺めると、今日は外に出たくないと誰でも思うだろう。

 当然、俺もそう思いながら麦茶の入ったコップを口に運んで、事務所の広間で寛いでいた。


「九月になっても暑い日が続くなぁ」

「午後になったらさらに暑くなるぞ。今日は三十四度の真夏日だそうだ」


 俺が独り言を呟くと、それに返してくるエド。

 エドは床に座ってテーブルに大量の用紙を広げ、広間で仕事をしていた。


「お前が広間で仕事をしてるなんて珍しいな。いつもは部屋にこもってんのに」

「自室のエアコンが調子悪くてな。テーブルが大きくて広く使えるのもあって、今日はここを使わせてもらってる」

「ふーん」


 数十枚はあろう積まれた用紙。エドはそれを一枚ずつ目を通しながら、パソコンのキーボードを叩いていく。

 これ全部を処理するまでにどれだけ時間が掛かるのか。こういう事務作業をした事が無い俺には想像がつかない。


「当たり前だけど、まだニュースになってんな」

「そりゃあな。次の日が始業式だったのに、一晩であちこち派手に壊されてたんだ。マスコミも食らいつくさ」


 広間に置かれた大きなテレビが映すのは、とある番組のニュース。エドは動かしていた手を一旦止めて、辟易した様子で見ながらテーブルに頬杖を突く。

 見慣れた校門の前で女性キャスターがカメラに向かって喋り、スタジオではコメンテーターや評論家が何やら得意気に語っている。 

 テレビ画面の向こうで騒がしく報道されているのは、ある学校の校舎の一部が一晩で破壊されてしまっていたという事件。

 右上のテロップには『有名進学校に何が!? 夏休み最終日に破壊された校舎!!』なんて書かれている。その騒がれている進学校が俺やエドが通う零名学園なのは言うまでもない。

 しかも、八月三十一日までだった夏休みは急遽、連絡網によって延期が伝えられた。原因は校舎が損壊して使用できる教室が少なく、その修復と補修作業の為。


「正直言って、夏休みが長引いてくれたのはありがたいわ。少しでも傷を治す時間が出来て助かった」

「今回の中で一番の怪我人は全治二ヶ月のお前だからな」

「でもまぁ、歩くのは問題無い位に回復して良かったよ。初めはトイレに行くのも億劫だったからなぁ……バストバンドで固めてるとは言え、肋骨に響くからあまり声出して笑ったり出来ないけど」


 受験を控えている三年生が優先的に壊れていない教室を使い、一、二年生は二週間の夏休み延期。さすがにその短い期間で教室を完全に直せないので、その間に校庭にプレハブの即席教室を作るらしい。

 沙姫は夏休み延期にかなり喜んでいたのは言うまでもない。まぁその分、あとから土曜日の登校が増えて、冬休みも短くなるという皺寄せもあるが。

 SDCが終了し、俺が目を覚まして凛との再会が叶ってから三日が経った。流石に三日じゃ完治する訳ないが、深雪さんから貰った薬のお陰か、筋肉痛や打ち身の痛みは大分引いてくれた。


「学校に連日テレビ取材が来てて登校しにくいって沙夜先輩が言ってたけど、こりゃ大変そうだ。マスコミだけじゃなくて工事関係の車輌も忙しく出入りしてるんだろ」

「世間ではテロの予行練習だとか、愉快犯が爆発物を仕掛けたとか言われていたぞ。某国による国家転覆の前触れと言ってたのが一番笑った」

「一晩であんだけ盛大に校舎をぶっ壊されたらな、全部一人の人間がやったなんて誰も思わねぇか。で、お前ら警察の発表は?」

「理科室でのガス漏れが原因の爆発、という事になった。SDCの存在を公表する訳にはいかないからな」

「ガス爆発、ねぇ。壁に穴が空いた教室や廊下はともかく、三階に刺さった木はどう説明すんだか」

「ある程度の事実は隠して報道規制させるだろうさ」


 エドは紙の山から一枚だけ手にとって目を通し、わざとらしく溜め息を吐いた。


「……校庭にはコウが殺した沢山の死体があっただろ。あれはどう説明するんだ?」

「無くなってたよ、全部」

「は……?」

「テイルが手配していた部下に回収されて、校庭は綺麗に元通りになっていた。こっちは圧倒的に人手が少ないからな……どうしても後手に回ってしまう」

「初めてコウと会った時と同じ、か。あの量の死体を僅かな時間で跡もなく回収する人員や技術ってどんなんだよ……」

「学校近くで待機していた深雪さんが確認した範囲では、大型トラック三台と軽バンが五台、SDC終了間近になって学校の敷地内へと入っていったらしい」

「こっちも色々と準備をしていたんだ。SDC側も撤退の準備をしていて当然か」

「その車輌や人物を調べて情報が欲しかったんだが、俺と深雪さんでお前達を病院に連れて行くだけで精一杯だった。白羽さんはテイルの相手をしていたしな……人員不足が悩ましい所だ」


 エドは眺めていた一枚の紙を適当に置いて、後ろにあったソファに背中を寄り掛ける。

 もう一つ小さく溜め息を吐き出し、なかなか情報を掴めずにいる状況に歯痒さを隠せずにいる。


「それでもまぁ、今回は一方的にしてやられたって訳じゃない。悲観する程でもないさ。だろ?」

「凛が生き返って、先輩も元に戻って帰って来れた。SDCを行っている組織を追っている白羽さん達には大きな進展は無かったかもしれないけど、俺にとってはこれ以上の結果はない……皆には本当に感謝してるよ」

「確かに進展はあまり無かったが、何も奴等の情報だけが全てじゃない。嗄上さがみりん明星あけぼしよう、二人の生還とは別に予想外の収穫があった」

「収穫?」


 しかし、煩わしさを表していた表情から一転。エドは意味深に口角を上げる。


「コウが使っていた禁器の回収に成功した」

「なっ、あれを回収出来たのか!?」

「あぁ。禁器が武器化している状態じゃ誰も持ち運べないからな。正直、回収は諦めていたんだが……SDCが終わってその場から離れようとした時、明星洋が一時的に意識を取り戻したんだ」

「先輩が……?」

「禁器が落ちている場所をまで連れて行き、彼が禁器を水晶化してくれた。そうすれば誰でも持つ事は出来る。その後すぐ、また気を失ったけどな」

「そうだったのか……じゃあ今、その禁器は?」

「白羽さんが持っている。色々と思う事があるらしく、これからの扱い方を考えているそうだ」


 エドはデスクワークで硬くなった筋肉をほぐそうと、両腕を上げて背中を伸ばす。

 禁器については白羽さんに任せていいだろう。もしテイルが現れたら俺達の実力じゃ手も足も出ない。むしろ、奴と渡り合える白羽さんしか適任がいない。


「ま、その後の調査はこっちに任せろ。お前はようやく願いが叶って、戦う理由もなくなったんだ。ゆっくり傷を癒して、彼女との時間を大切にしてやれ」

「お前に言われなくてもそうするっての。俺には調査とか捜査なんて出来ないし、餅は餅屋って言うしな。でもまぁ、なんだ……何か手伝って欲しい事があったら言ってくれ。そん時は手ぇ貸してやるよ」

「へぇ、珍しい。お前が俺にそんな事を言うなんて」

「そんだけ今回は感謝してるって事だ。俺一人じゃあ絶対に凛を生き返らせるのは無理だったからな」


 本来ならコイツに手を貸したり、助けたりするのは絶対にしないけど、今回は別だ。

 エドじゃなくて、全員に感謝している。俺が出来る範囲で少しずつ恩を返していきたいと思っている。

 ただし、エド。お前が前に、俺を騙して大して楽しくもない夏祭りに参加させられた件は今でも忘れてねぇからな。

 俺は恩と仇は混同せず、しっかり区別する人間だ。いつかどっかで仕返しするから覚悟しとけよ。


「っと、言ってる傍からその彼女じゃないか?」

「ん?」


 そう言って、エドは顎を小さく突き出して廊下を差す。促されて廊下の方へと視線を変えると、近付いてくる足音が聞こえてきた。

 そして、数秒後に一人の少女がひょこっと顔を出して、広間を覗いてきた。


「あっ、部屋に居ないと思ったらここにいた」

「凛、どうした?」


 広間は廊下との壁はなく、胸元の高さの仕切りがあるだけ。

 凛はその仕切りの上に両腕を乗せて、廊下から広間にいる俺に話し掛けてくる。


「コンビニまで買い物に付き合って欲しいんだけど……傷が痛むなら無理しなくていいからね?」

「いつものコンビニぐらいなら大丈夫。何しに行くんだ? 立ち読みか?」

「午後に沙姫さんが来るから何かお菓子買ってこないと。買い置きのお菓子はもう少ししかなくて……」

「お菓子ぃ? 沙姫にんなもん出さなくていいって。水で十分だ、水で」

「さっき沙夜さんも来るってメール来たの。せっかく来てくれるのに、何も出さないのは失礼でしょ」

「沙姫だけならともかく、沙夜先輩も来るんじゃそうもいかねぇか」

「じゃあ着替えてくるから、十分後に玄関ね」

「はいよ」


 俺の了解を得ると凛は嬉しそうに笑い、小走りで部屋に戻って行く。

 凛が生き返ってこの事務所で生活するようになって三日経つが、今の所は何の異状も無く生活できている。現にこうしてどこかに出掛ける程度はなにも問題無い。

 モユのように寿命が短いんじゃないかという心配があったが、深雪さんが言うには恐らく大丈夫とのこと。

 なんでもモユの場合は過度の成長促進をし、効果と効率を重視した結果、テロメアと呼ばれる染色体が短くなって短命になったんだと言っていた。

 SDCのあと俺と一緒に凛も病院に連れて行き、その時に凛の体を細かく検査したらしい。結果、そのテロメアとかいうのは通常の人間と変わらない数値だった。


「で、お前は部屋に戻って着替えないのか?」

「いつものコンビニに行くんだ。ジャージにTシャツ姿でも大丈夫だろ」

「あのな……近くのコンビニと言っても彼女と出掛けるんだから、それなりに服装に気を使えよ」

「って言われても、そんなお洒落するような服は持ってないんだよ。今までは凛を生き返らせる事だけが目的だったし、余分な物は買わないようで生きてたからなぁ」

「俺の服を貸してやろうか?」

「いらねぇ。お前の服なんか着たくねぇ」


 でも、そうか。そうだよな。これからは凛とどこかに出掛けたりする事が多くなる。そうなると、俺も少しは服装に気を掛けないといけないか。

 今までは自分の事は二の次で生きてきたけど、今は凛と一緒に生きていくんだ。相手の事と、自分の事。両方を考えていかなきゃならない。

 これからの生活に、凛が居る人生に。少しずつ、少しずつ……昔に戻っていこう。


「あれから、彼女の様子はどうだ?」

「……変わらねぇよ。文句の一つも言わないで、今の環境を受け入れて馴染もうとしている。隠しているんだろうけど、そんな素振りを見せもしない」

「そう、か。強いな、彼女は」

「俺もそう思う。けど、いつか弱さを見せてしまう時が必ずある。そん時は俺が支えてやれるように、凛以上に俺が強くなきゃな」


 二日前。凛は白羽さんからとあるの要望が伝えられた。そして、その内容は凛が生き返った事は家族に伏せておくというものだった。さらに一切の接触、連絡も取ってはいけない。

 理由は完全に被害者ではあるがSDCに関係性を持ってしまい、もしかしたら情報漏れを防ぐ為に口封じをされる可能性も捨てきれない。

 テイル達が何を企み、何を狙い、何を目的としているのか判明していないのが現状だ。何を切っ掛けに凛の家族へ危険が及ぶか解らない。

 その可能性を無くし、凛本人と家族の安全を優先した故の判断だと。いつか必ず家族の元に帰す。だから、安全が確認できるまでは我慢して欲しいと。白羽さんは申し訳なさそうに話していた。

 だが、これはあくまで要望で、拒否権はあった。しかし、凛はその提案に反対の意思を見せず、快く飲んだ。


『確かに両親や妹に会いたい気持ちはあります。けど、私が少し我慢をするだけで家族に及ぶ危険の可能性が減るのなら……そうするべきです』


 涙も、弱音も、愚痴すらも。凛は一切の躊躇を見せず、要望を受け入れた。

 凛が承諾してくれて協力的な事に安堵しながらも、白羽さんは複雑な笑みを浮かべていたのを覚えている。


「彼女を必ず元の日常に戻す事を約束する。匕にも凛ちゃんにも迷惑を掛けるが、しばらくの間だけ耐えて欲しい」

「いいよ、別に。凛本人がそうするって決めたんならとやかく言えねぇし、俺は凛を支えていくだけだ」


 と言っても、今のこんな体じゃ支えててやる事も守る事もろくに出来やしない。

 とりあえず俺は早く怪我を治さなきゃな。


「それよりもお前は自分の心配をしろよ。さっきから手が止まって全然仕事が進んでねぇだろ」

「ん? あぁ、ちょっと行き詰まってな……今やってるのは殆んど終わってるんだが、題名が思い付かないんだ」

「SDCの報告書だろ? ならそのまんまでいいだろ。SDCの調査報告とか、ぼくの夏休みとか書いとけよ」

「SDC関連はこっちの山。これは今までのお前に関する報告書なんだよ。戦闘内容や回数、スキルやら何やらのな。お前に関する事なんだから何か考えてくれないか?」

「それはお前の仕事で俺は関係ねぇだろ、自分で考えろ。俺はただ我武者羅に突っ走ってきただけで、自分にとっては当たり前の事をしただけだ。題名なんて無いし、頼まれたって思い付かねぇよ」


 ソファにもたれ掛かって、天井を仰ぎ見る。

 思い返してみると、今まではただ凛を生き返らせる事だけを目的として生きて、それだけを生きがいにしてきた。

 誰かの為じゃなくて自分の為。色々な出来事があって、沢山の経験をしてきた。けど、いつも根本にあったのは一つの願いだった。

 それが慣れて、当たり前になって、特別だなんて考えた事もなかった。その生き方にいきなり名前を付けろったって思い付くか。

 言ってしまえば、普段意識せずに日常的にやっている衣食住に題名を付けろって言うようなもんだ。


「あれ? 匕、まだここにいたんだ。準備はいいの?」

「お、着替え終わったか。んじゃ行くかー」


 天井を仰ぐのをやめて広間の入口を見ると、着替えを終えた凛が顔を覗かせていた。

 半分残っていた麦茶を一気に飲み干し、膝に手やってソファから立ち上がる。


「……当たり前の事で思い付かない、か」

「どうした?」

「いや、なんでもない」


 後ろから何か呟いたのが聞こえて振り向くと、エドは一言だけ返して微笑んだように見えた。


「匕、コップはちゃんと流し台に持って行ってよ」

「わあってるよ」


 コップを片手に広間から出て、玄関よりも先に給湯室に向かう。

 廊下の窓から見える空は気持ちいい位に晴れていて、燦々《さんさん》と照らされる日光と外の熱気には気が滅入りそうだ。

 だけど、きっと。一人で歩くのなら憂鬱になっても。二人でする散歩なら、こんな暑さも気にならないだろう。





    ◇   ◇   ◇  






 ――コンコン。

 ある一室と廊下を隔てるドアから、小気味の良い音が鳴る。

 そして、部屋の主である男性は、デスクのパソコンへと向けていた視線をドアへと変える。


「開いているよ」

「失礼します」


 黒いスーツの男性――白羽は深く済んだいい声で言葉を掛けると、ドアが開かられて金髪藍眼の青年、エドが入ってきた。


「咲月匕に関する報告書が出来ましたので、持ってきました」

「なかなか仕事が早いね。SDC関連の方はどうだい?」

「そっちは聞かないで下さい……なるべく早く終わらせるつもりではいますが」

「すまないね。手伝いたいのは山々なんだが、私も自分の事で手一杯でね」

「いえ、大丈夫です。幸いにも夏休みが延期になりましたから」

「ははっ、これで学生生活もしなきゃならなかったら大変だったね」


 エドとの会話で白羽は小さく笑い、黒革の高級チェアに深く腰を沈める。

 白羽も今回の件……SDCに関しての情報や今後の調査方法、活動方針など色々としなくてはいけない事が多くある。

 SDCが終わりを迎えたとは言え、それはあくまでSDCだけ。全てを裏で指揮する黒幕の組織について、一切の手掛かりすらない無い現状。

 その手掛かりが今回のSDCで何か掴めると思っていたが、大きく進展するような切っ掛けは無かった。

 それでも多くのスキル、禁器を扱える人材の収集。さらに人間の製造と人体実験。組織名も解らない“奴等”が、何かを目的に非人道的な事を行っている事は知れた。

 僅かながらでも、前には進んでいる。そんな悲観する必要も無いと、白羽は情報を纏めながらこの先の事を考える。

 一人の少年が諦めずに己の道を進んで、ついに願いを叶えた。その姿を見て白羽は少なからず影響を受け、意気を奮い立たせていた。


「では、報告書を貰おうか」

「はい」


 エドはデスクの前まで移動し、差し出してきた白羽の手へ報告書を渡す。

 ホチキスで纏められた十数枚の紙。白羽は不備が無いかだけを確認する為、一枚ずつ捲って軽く目を通していく。


「うん?」


 最後の一枚を見終わって一番上の紙を見直した時。報告書をデスクに置こうとした白羽の手が、ぴたりと止まった。

 タイトルが書かれている筈の表紙が、真っ白で何も書かれていなかったのだ。


「エド、報告書の題名がどこにも書かれていないが」

「それなんですけど……」


 エドは少し気まずそうに、頬を人差し指で掻く。


「題名が思い付かなかったので、何か案が無いか本人に聞いたんです」

「ほう、それで?」

「自分にとっては当たり前の事をしただけだ。題名なんて無いし、思い付かないと言われまして。だったら、その通り無記入で……と」

「なるほど」


 白羽はくすりと微笑し、何も書かれていない報告書の表紙を再度見る。


「すみません。やはり駄目ですよね」

「いや、これでいい。彼らしいじゃないか」


 白羽はデスクに置いていたカップを手に取り、少しぬるくなったコーヒーを一口飲む。

 そして、一息の間を空け、楽しげに言った。


「この咲月君に関する報告書は、『無題』として受け取ろう」






    ◇   ◇   ◇  





 九月に入ったとは言え、天気が変わりやすい秋にはまだ早いというのに……あんなに青く晴れていた空には雲が掛かり、ねずみ色の天井で覆われている。

 さらには、ぽつぽつと。空から落ちてくる雫が草を揺らし、地面に丸い点を作っていき。気付けば、ざあざあと雨が降り出してきた。


「あちゃー、強くなってきちゃったね」

「さっきまであんな天気が良かったのに、いきなり降ってきたな」

「天気予報だと今日一日はずっと快晴だって言ってたのに」

「多分、通り雨だろうからそのうち止むだろ」


 事務所からコンビニまでの道中にあるバス停。少しボロい木造の小屋に入って、俺と凛は雨宿りしていた。

 雨の気配にいち早く気付いた凛が屋根のある所に行こうと言ったお陰で、ずぶ濡れにならなくて済んだ。

 小屋の壁に貼られた時刻表は白い部分が多く、所々時間が書かれていない。古くて消えたのではなく、ただ単純にバスの本数が少ないだけ。

 この辺は畑や田んぼが目立ち、中心街から数駅離れただけでこの緑の多さ。娯楽施設は何も無く、利用する人が少ないんだろう。


「沙姫さんと沙夜さんが来るまで時間はあるし、ゆっくり晴れるの待とうよ」

「ん、そうだな」

「ほら隣、座って」


 凛が備え付けの木製のベンチに座り、すぐ横を手の平で軽く叩く。

 それに促されるままに、俺は凛の隣に腰掛けた。


「匕、大丈夫? 具合悪いの……?」

「え?」

「なんかさっきから、辛そうな顔してるから……」


 すると座ったと同時に、凛は心配そうに俺の顔を覗き込んできた。


「あ、いや……」

「傷が痛くて歩くのが辛いなら、深雪さんを呼んで迎えに来て貰った方が……」

「違うんだ。そうじゃなくて……雨が、さ。嫌いなんだ。嫌な事を思い出すから」

「何を、思い出すの?」

「それ、は……」


 凛から返ってきたのは、一つの問い。当然の問い。

 俺は気まずさ凛から目を逸らし、顔を俯かせて。弱々しい声で答える。


「お前が通り魔に遭って、死んでしまった時の事」


 トラウマは、そう簡単に拭い消せないからトラウマなんだと。

 凛が死んだのは変わらない事実で、あの日に見た惨状は今でも瞼に浮かび、心を締め付けてくる。


「守ってあげれなかった少女が、いたんだ」


 そして、それだけじゃない。俺が雨に抱く嫌悪感の理由が、まだある。

 雲一つ無く晴れているのに雨が降り、月が無いのに明るい。そんな奇怪な夜に彼女は命を落とした。

 悲しい過去が、後悔しきれない記憶が、今も昨日のように思い出される。


「私はこうして、ちゃんと生きてるよ」


 ヤスリで撫でられたように、ざわつく心。奥歯を噛み締め、瞼を強く閉じる。

 耐えるようにズボンを強く握り絞めていると、右手に柔らかい感触がした。

 開いた目に映ったのは、俺の手に重ねられた凛の手。


「大丈夫。過去はもう、過去なんだから。私はずっと、匕と一緒にいるよ」


 俯いていた顔を上げると、隣に座る凛は優しく微笑んで。

 俺の手に重ねていた手を、包むように握ってきた。


「これでも、雨は嫌い?」

「そう、だな……正直、簡単に変わりはしないよ」


 凛の手を握り返し、お互いに感じるお互いの温もり。

 悪くなっていた気分が段々と和らいでいく。


「匕、一つお願いがあるの」

「お願い?」

「守れなかった少女って、モユちゃんの事でしょ?」


 かつて一緒に生きて、一緒に居た少女の名前。

 ずくんと、胸の奥が小さく痛む。


「私ね、モユちゃんの話を聞きたい」

「モユ、の……? でも、ある程度の事は俺が寝ていた間に白羽さんから聞いたんだろ?」

「うん、聞いた。でも私は匕の口から、彼女の事をちゃんと聞きたい」

「でも……」

「匕を好きで、匕が好きだった子の事を知りたい。匕の苦悩も、悲しみも、喜びや楽しかった事も。一緒に受け入れていきたいの」


 握る凛の手が、少しだけ強くなる。

 俺がどんな気持ちになり、どんな感情で話さなきゃならないか。それを理解した上でお願いしている。

 この辛さも、悲しさも、楽しさも。ちゃんと聞いて、ちゃんと知って、ちゃんと分かり合いたいと。


「そうだな、モユは―――」


 どこから話そうか。何から話そうか。

 話したい事は色々あって、教えたい事が沢山あって、伝えたい事も一杯あって……。

 でもやっぱり、一番最初に思い付いたのはこれで。俺だけじゃなくてきっと、皆が口を揃えて言うと思う。


「とにかく、アイスが大好きだったよ」


 毎日食べていて、しかも午前と午後に一個ずつ、一日に二個も。

 無口で、無愛想で、無表情。本当、毎日飽きもせずにアイスを頬張っていた。


「普段は無口のくせに、アイスが絡むと妙に主張が強くなってさ」

「うん」

「それに、さ……最初、は、アイスすら……ふ、くっ……」


 モユと送った日々を思い出して。一緒に過ごした時間を思い返して。いつも変わらない顔が思い浮かんで。目頭が熱くなり、視界が滲む。

 見た目も、仕草も、全部。年相応の幼い子供となんら変わらない少女なのに。自分は人に造られたヒトで、人間じゃないと苦悩しながらも懸命に生きていた。

 そして最後は……自分の意思で考えて、自分の生き方を決めて。俺の目の前で、俺の腕の中で――――小さな命は終わりを迎えた。


「ゆっくり、ゆっくりでいいよ。私はちゃんと聞いてるから」

「っく……いや、大丈夫」


 手を繋いでいた手に凛はさらに左手を重ねて、柔らかい声が耳を撫でた。左手で零れ落ちそうだった涙を拭い、俯きかけていた顔を上げる。

 悲しい部分もあった。悔しい気持ちが今でも残っている。けど、それでも、俺は笑って話そう。

 だってこの思い出は、モユと送った日常は。とても楽しいものだったから。それは間違いなく、ずっと変わらないから。

 モユという少女が生きた軌跡は、決して悲しい事ばかりじゃない。一緒に居た人と笑顔にして、皆を幸せにしていたんだと。だから俺は胸を張って、笑って、伝えていく。


「初めてモユと会ったのは学校だったんだ。中庭のベンチに座ってるのを屋上から見掛けてさ」


 外は雨がまだ降っていて、屋根を打つ音が小屋に響く。愛する人が隣に居て、繋ぐ手から伝わってくる温かさ。

 そして、自分を好いてくれた少女の話に耳を傾けて、静かに聞いてくれる。今の時間はとても優しく、この狭い空間がすごく心が休まる。


『私は、雨が――――』


 ふと、頭の中で蘇る少女の言葉。とある雨の日、怯える彼女が助けを求めたあの夜。

 嫌いな音が耳に入って、嫌いな雫が窓から見えて、雨の全てが嫌いで仕方なかったのに。

 でも、今なら少し、ほんの少しだけ。俺もモユのように。


「アイスをあげたのも、その時が初めてだったな」




 ―――――雨が、好きになれそうな気がする。





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