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No Title  作者: ころく
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No.81 今までと、これからと

 さらで、シミのない綺麗な白。平面の白い壁が、目の先にある。

 それが天井だと知るのに……いや、脳が機能してそう認識するまでに、どれだけ掛かったかは解らない。

 気付けば目を開いて、ただぼんやりと上に浮かぶ白い壁を見つめていた。


「ここ……」


 白しかないのに、どこか見覚えのある風景。というよりも、以前にもこのような事があった気がして。

 まだ本調子にならない頭がデジャブを引き起こす。そして、徐々に脳が思考の回転を始める。


「俺の、部屋だ……事務所の」


 脳にある記憶と今見ている風景が一致し、ここがどこなのか自分の口から出た。

 視覚に少し遅れて聴覚も機能を取り戻し始め、耳に届いたのは外から聞こえてくるセミの鳴き声。

 首を動かして横を見ると、部屋の窓が開けられ、薄いカーテンが微風に揺らされていた。


「確か俺は、SDDで……」


 寝起きだからか、なかなか働かない頭で記憶の整理をしていく。

 霧がかっていた頭の中が段々と晴れていき、自身の意識を途切れるまでの記憶が明瞭に思い出される。


「――――凛っ!」


 そして、いの一番の彼女の名前が出て来た。

 名前を叫ぶと共に、ベッドの上で上半身を起こす。


「ぐ、っづぁ!」


 直後、体中から痛覚と言う名の電気が走り、痛みに顔を顰める。

 首、腕、腹、背中、腰に脚。全身がズキズキと痛み、特に脇腹には半端じゃ無い激痛がした。

 しかし、痛みのお陰で目が覚め、意識も完全に覚醒できた。


「それより、あの後どうなったんだ……? 凛は……先輩、は?」


 痛がってる場合じゃない。そんな事よりも今の状況が知りたい。

 俺が気を失った後はどうなったのか。どういう経緯でここに居るのか。

 何より、凛の記憶は……凛は生き返る事が出来たのか。それを早く知りたい……!


「ここが事務所なら、きっと自室に白羽さんが居るはずだ」


 痛みに耐えながらベッドから降りると、自分の服装が変わっているに気付いた。

 SDCの時に着ていたジャージでは無くなっていて、下着の上に浴衣のような服が一枚。いわゆる病衣と呼ばれるものを着ていた。

 腕や足を見てみると、湿布やガーゼが貼られ、さらに包帯も巻かれて肌が殆んど見えない。激しい戦闘であちこち傷を負っていたのは分かっていたが、ここまで傷だらけだったとは思わなかった。

 床に足を着けて立ち上がろうとするも、外傷だけじゃなく内側からも痛みが走る。少しでも力を入れると、酷使して回復しきってない筋肉が悲鳴を上げた。


「く、そ……体が思うように動かせねぇ」

「ってて、トイレに行くだけでも一苦労……ん?」


 がちゃり、と。ドアノブが回される音と同時に開かれる、部屋のドア。

 軽い口調で独り言を言いながら部屋に現れたのは、白髪の男性。


「先輩っ!」

「よう、ようやくお目覚めか」


 俺と同じ病衣を来て、先輩は軽い口調で小さく笑う。

 額には包帯、頬にはガーゼ、鼻の頭には絆創膏。腕や足にも包帯がぐるぐる巻かれている。

 傷だらけの痣だらけで痛々しい姿。けど、それでも……今、目の前に居る先輩は、紛れもなく俺の知っている先輩だった。

 狂気を纏い、凶気に飲まれ、狂喜で笑う。かつての別人格は影すら見当たらず。

 気さくで、陽気で、あっけらかんとした。元の人格、明星洋が戻ってきた。


「よかった……無事に元に戻れたんだ」

「おいおい、この顔を見ろって。全っ然無事じゃねぇだろ」


 よたよたと少し覚束無い足取りで歩き、先輩は俺の前にあった椅子に腰掛ける。

 傷が痛むのか座る際に顔を僅かに顰めて、短く息を吐いて背もたれに背中を預けた。


「それを言うならこっちも見ろって。先輩よりも酷い傷なんだぞ。って、そうじゃない。いや、先輩の事も気になっていたけど! 今は白羽さんに……」

「待て待て。聞きてぇ事、話してぇ事があんのは分かるけどよ。ちょいと落ち着け」


 言って、先輩は病衣の胸ポケットから携帯電話を取り出し、電話を掛け始めた。


「あ、もしもし……はい、目ぇ覚ましました。はい、はい。分かりました」


 ほんの十秒程。短い通話を終えて、先輩は携帯電話を胸ポケットに戻す。

 電話の相手は誰だったのか。先輩が敬語を使っている所を初めて見た。


「先輩、聞きたい事が……」

「お前の早る気持ちは理解できっけど、物事には順序ってのがある。今から深雪さんが来っから、まずお前の体を診てもらえ」

「じゃあ、今の電話相手は深雪さんだったのか」

「この通り、俺もお前と同じで歩くのも辛い状態だからな。深雪さんから仕事用の携帯電話を渡されて、お前が起きたら連絡するように言われてたんだよ」


 先輩は話しながら、片腕を椅子の背もたれに掛けた。なんて事ない普通の動作さが、小さな動き一つするだけで薄く痛みの表情を浮かべる。

 俺よりは見える肌の面積は多いが、それでも体中に巻かれた包帯やガーゼが傷の多さを語っている。

 じゃあ、なんで怪我人の先輩が安静にしてないでこの部屋に居るのか。そんな疑問が浮かび、問いの言葉が喉まで登ってきた時――――。


「咲月、ありがとな。助かった」


 頭をぶっきらに掻いて、少しだけ照れくさそうに。

 短く、軽く。けれど、先輩の言葉には感謝の気持ちは確かにあって。

 それに対して俺も、小さく笑って返してやる。


「全くだよ、俺がどんだけ苦労したと思ってんだ。約束通りラーメン奢れよ」

「おう。俺のオススメの店で旨いの奢ってやる」

「餃子とライス、あと杏仁豆腐もだかんな」

「何でも頼め。今回ばかりは奮発してやらぁ」


 多くは語らない。礼の言葉を言われ、礼を受け取る。それだけ。

 俺がどれだけ大変だったかを話すつもりは無いし、先輩も自分がどんな辛い目に遭っていたかを喋る事も無い。

 お互いが命を失わず五体満足で、屋上でサボっていた時と同じように軽口を言い合えている。

 傷だらけで、苦労して、死にかけたとしても。こうしてまた話が出来ているだけで十分。

 男同士で泣きながら抱き合う趣味も無いし、これまでの経緯の苦労を話す気も無いし、先輩がここに居た理由を改めて聞くなんて野暮以外の何でも無い。


「言っとくけど、俺だけじゃなく……って先輩、なんか煩くないか?」

「言われてみりゃ確かに、廊下がやけに騒がしいような……」


 ドタバタと騒がしげな音が事務所内に響き、廊下から聞こえてくる。と言うか、その煩い音が段々と近付いてくる。

 いやまぁ正直言って、このパターンはある程度は予想出来るけども。


「咲月先輩が起きたって本当ですかぁぁぁぁ!」


 バァン、と勢い良く開けられる部屋のドア。あまりに強く開けられて、壁にドアノブが刺さってないか心配になる程。

 そして、なんの捻りもなく予想通りに現れたのは藍色の髪のショートカットに、髪飾りが特徴の少女。

 水無月姉妹の喧しい妹、沙姫が騒々しく部屋に入ってきた。


「良がっだぁぁぁぁ……咲月先輩が目を覚まして本当に良がっだぁぁぁ」


 喧しく沙姫が登場したかと思えば、今度は俺を見るなり力が張っていた両肩を落として脱力する。

 しかも、軽くべそをかいて鼻水を垂らしながら。女の子なんだから鼻水くらいはちゃんと拭け。


「おいおい、泣くなよ。大げさだろ」

「だって、三日も眠りっぱなしだったんですよっ!? すっごい心配したんですからね!?」

「三日……? 俺は三日も寝てたのか!?」

「そうですよ。あんなに激しい戦いの後、気を失ったままずっと目を覚まさなかったんですから」


 ただ眠っていた感覚しかなかったから、てっきり俺はSDCを行った次の日あたりだと思っていた。

 三日も眠りっぱなしだったって事は……それほど疲弊して、精神への負担も大きかったんだろう。

 いやむしろ、コウとの戦闘に加えてスキルの使用。それを考えると三日間も眠っていてもおかしくないか。


「ちょっと沙姫、急ぐのはいいけど騒がしくしないの! 足を怪我してるんだから!」

「ほら沙姫ちゃん、これで鼻拭いて」


 沙姫に遅れて、沙夜先輩と深雪さんがやってきた。

 深雪さんが差し出したティッシュを受け取り、ブブゼラでも鳴らしたような音をさせて鼻をかむ沙姫。


「おはよう、とは違うわね。匕君、体の具合はどうかしら?」

「全身が痛くて、立とうとするのも辛い状態だよ」

「はい、これ何本に見える? 立ててる指も分かる?」

「三本。人差し指と中指と薬指」

「じゃあこれは?」

「二本。親指と人差し指」


 ベッドに腰掛けている俺の前に来て、深雪さんからの質問に答えていく。

 そして、次はポケットからハンカチを取り出し、広げて見せてきた。


「ハンカチの色を言って」

「花の刺繍がある、薄い水色」

「私が最初に聞いた指を立てた本数は?」

「えーと、三本」

「うん。意識ははっきりしてて、受け答えもちゃんと出来てるわね。視覚に異常も無し、耳も聞こえてる」


 深雪さんは微かに肩を揺らして、安心した表情をさせる。

 精神を消費するスキルを使い、しかも、人格を燃やし去るという異業を終えた後。

 脳への負担は膨大なものだと推察し、外相だけじゃなく脳の損傷や異常を危惧していたんだろう。


「SDCが終わり次第、すぐに貴方達を病院に運べるように手配していてね。近くの設備が揃ってる病院に、私達が信頼している医師を呼んでおいたのよ」


 深雪さんは広げたハンカチを四つ折りにし、スーツのポケットに戻して経緯を話を続ける。


「皆の傷の治療をして、匕君と洋君は眠っている間にMRIで脳の検査をして異常は見当たらなかったんだけど……実際に確認しないと解らないもの」

「そこまで準備していたのか。ちょっと驚いた」

「無傷で済むなんて思えなかったからね。匕君が自分にしか出来ない事やったように、私達は私達にしか出来ない事をしただけよ。心配だったけど何も異常が無いようで一安心。勿論、後から何か異常が出て来る可能性もあるから、数日間はその後の様子を見なきゃいけないけれど」


 深雪さんはそう言って、俺と先輩を順に見やる。

 頭部の傷は後から症状が出てくる事もあり、最悪、死に至る場合もある。

 スキルで精神を限界まで摩耗させた俺と、別人格によって取り込まれた先輩。頭を怪我した訳では無いが、脳への負担は相当のものだった筈だ。

 今が大丈夫だからと言って、明日明後日も大丈夫だと安易に判断するのは危ない。


「でも、身体の傷は重傷よ。全身打撲と打ち身。各所に小さな裂傷。で、一番酷いのは第三、第五肋骨にヒビ。第四肋骨が骨折」

「やっぱり骨が折れてたか……禁器をまともに喰らってこ生きてるだけで十分だけど」

「洋君もだいぶ酷い怪我だけど、匕君ほどじゃないわ。しっかり休んで、ゆっくり傷を癒しなさい」


 深雪さんは両手を腰にやり、小さく肩を竦める。

 懸念の種が何事もなく杞憂に終わり、安心から表情を優しく崩した。


「さ、私が最優先で確認すべき事は終わったわ。次は匕君、君の番よ」


 そして、深雪さんはこっちを向いて微笑み、俺の肩に軽く触れた。


「そうですよ、咲月先輩。医務室に行ってあげてください」

「咲月君が起きるのを待ってたのは私達だけじゃないわ」


 そう言って沙夜先輩と沙姫は横にずれて、部屋のドアまでの通り道を作る。


「そうだ、そうだよ……あのあと一体どうなった、どうだったんだ!? 俺は、あいつを――――」

「それは自分の目で確かめなさい。あなたが知りたがっている結果は……医務室で待ってるわ」


 深雪さんは入口付近の壁に立て掛けていた松葉杖を手に取り、それを俺に差し出してきた。

 俺の部屋にこんな物を置いた覚えは無かったが、傷だらけで歩く事も辛い俺の為に予め用意していたんだろう。

 松葉杖を受け取り、小刻みに震える足を誤魔化しながらなんとか立ち上がる。


「立つのも辛ぇんだろ? 肩貸してやる」


 そこへ、先輩が手で支えてきた。


「何言ってんだ、先輩も怪我してんだろ。無理すんなって」

「ここに居るほとんどが怪我人だっつの」

「……そうだったな」


 俺と先輩は言わずもがな、沙夜先輩は左肩に包帯を巻いて所々にガーゼや湿布。沙姫も左足に包帯が巻かれ、肌に貼られた絆創膏やガーゼが目立つ。

 SDCに参加していない深雪さん以外は、大なり小なりの怪我を負っている。無傷の人間の方が少ない。

 右手で松葉杖を使って、左腕は先輩に方を貸してもらい。頼りない足取りながらも部屋を出る。


「眠るお姫様が起きるのを待つ王子様って話はよく聞くが、その逆は珍しいパターンだな」

「傷の方は酷いが、目が覚めて何よりだ」

「エド、白羽さん……」


 廊下を歩いて突き当りを曲がり、医務室の入口。

 二人の男性が並び立ち、俺が来るのを待っていた。


「深雪君、咲月君の容態は?」

「先日MRI検査での結果通り、脳や人格への障害は無いと思われます」

「そうか。あれだけの戦闘とスキルの使用……心配していたが、後遺症が無くて何よりだ」


 俺の後ろに付いていた深雪さんが聞かれ、手短に答える。

 白羽さんも脳への負担を気に掛けていたらしく、深雪さんの報告を聞いて口角を僅かに上げた。


「色々と話したい事はあるが、それは後にしよう。まずは君が先だ」


 そう言い、白羽さんは医務室のドアノブへと手をやる。


「こっからはお前一人だ。俺等が混ざって再会の野暮はしねぇよ」


 先輩は貸してくれていた肩を下げ、足に伸し掛かる自身の体重。

 多少フラついてしまうが、松葉杖を使ってなんとか支えて倒れないように踏ん張る。


「君が掴んだ未来だ。結果がどうであれ、迎えた現実を受け止めて欲しい」


 白羽さんが握るドアノブが回され、医務室のドアがゆっくりと開かれる。

 願いを叶える為だけに生きてきた三年間の結果。SDCを必死に戦い抜いて掴んだ未来。

 その二つがこの先に、この部屋の中にある。叶えられて形を持った願いが、凛が居る。

 求め続け、待ち続け、追い続けた、この瞬間。再会する事を長年願っていた彼女を目の前にして、足が固まっていたところを。


「ほらよ、行ってこい」


 ポン、と。背中を叩かれて隣を見ると、先輩はいつもの気さくさで笑っていて。

 それを見たら胸に張っていた緊張の糸が解け、俺も笑って返す。


「あぁ、行ってくる」


 傷の痛みと、上手く動かせない両足。ぎこちない歩き方でも自分の足で進み、部屋へと入る。

 入ったと同時にドアを閉められ、部屋に居るのは俺と、彼女のみ。

 大きめの窓から日差しが射し込み、時折そよぐ風がベッドの間仕切りカーテンをひらりと靡かせる。

 そして、そのカーテンに映される人型の影絵。ベッドの上で上半身を起こして、静かに待っている人が居る。

 汗ばむ手で松葉杖を握り直し、人影の姿を確認ずべく止めていた足を動かす。


「ぐ……っ」


 かつん、ひた、ひた。かつん、ひた、ひた。かつん、ひた。

 窓の外からはセミの鳴き声が聞こえてくるのに、室内はとても静かに思えて。松葉杖と裸足の足音が妙に大きく聞こえる。

 思い通りに動かせない体に悪戦しながらも移動し、目の前にあるのは間仕切りカーテン一枚のみ。

 この先に、この薄い布一枚隔てた先に……三年間ずっと想い焦がれた恋人が居る。


「カーテン、開けるぞ」


 返答の有無は待たず。一方的に声を掛けて、カーテンを右手で握り締める。

 胸の中で巡りまわる不安と緊張を唾と一緒に飲み込む。そして、一度の深呼吸をしてから意を決して。

 右手を横に滑らせ、カーテンを開けた。


「――――」


 間に挟まれていたカーテンを開放し、そこに居たのは。窓へと顔を向けて、景色を眺めている一人の少女。

 白い肌。橙色の髪。顔は反対側を向いていて見えない。けど、生きている。生きて、動いて、意志がある。

 ただそれが、誰の意志なのか。俺が知って俺を知る彼女なのか、それとも、誰も知らず何も知らない空っぽの人格なのか。

 その答えは、この言葉で解るだろう。たった一言だけの、一人の名前。


「……凛」


 緊張と不安で、渇いた喉から出された声は少し震えて。そんな自分を情けなく思うも、それでもこの一声は勇気を奮ってのものだった。

 だが、名前を呼ばれた少女は肩を微動させて僅かな反応を示すも、窓を見つめたまま動かない。

 呼ばれたのが聞こえなかったのか。それとも、自分の名前が解らないのか。その名を持つ人間じゃないのか。不安が煽られ、肥大し、背中の汗が冷たくなる。

 しかし、俺が不安にさいなまれている間。名前を呼んでから数秒の間を空けて。

 彼女は窓へ向けていた視線を外し、一度俯いたのち。ゆっくりと顔を上げて、こっちを向いた。


「っ……!」


 目が合った瞬間、時が止まったような気がした。

 胸から背中へと通り抜ける、熱くも冷たい不可視の何か。きゅうっと胸が締め付けられ、首の後ろがざわつく感覚。

 歓喜と不安。感激と心配。相対する感情がぶつかり合う、言い表せられない心情。

 顔も、髪も、僅かな仕草も。俺が知っている凛と重なって目頭が熱くなる。

 そして、彼女は。俺の顔をじっと見つめていた彼女が。にっこりと笑顔を作り、桜の花びらのような唇を動かして。


「背、伸びたね。匕」


 ――――俺の名前を、呼んだ。

 彼女が言った言葉、声を聞いて。涙がこぼれ落ちた。

 ぼろぼろ、ぼろぼろと。止めどなく溢れ、頬を伝って流れ落ちる水滴。

 懐かしい声に、懐かしい笑顔。間違いない。間違えるものか。目に焼き付けて一時も忘れなかった、恋人の顔を。


「本当に……本当に、凛なんだな? 凛、なんだよな?」

「そうだよ。少し、大人びたね」

「凛っ!」


 かつての恋人が、今を生きる恋人に戻って。

 思ったままに。体が動いたままに。湧き上がる感情は抑えられなく。

 三年の年月を空けてついに再会した想い人を、この両手で強く抱きしめる。


「俺、俺っ! お前に沢山話したい事があって! 言わなきゃいけない事が、あってっ!」

「うん。私もね、一杯話したい事があるよ」


 この瞬間を何度も思い願って、ずっと待ち焦がれていた筈なのに。溢れる感情が先走って上手く言葉が繋げられない。

 そんな俺の背中に腕を回して、凛は優しく抱き返してくれる。


「私の為に、こんな傷だらけになったんでしょ? ごめんね、私のせいで……」

「違う! 謝らなきゃいけないのは俺の方だっ! あの日、俺が待ち合わせに遅れなければ、凛が怖い思いをする事も、死ぬ事もなかったのにっ!」

「白羽さんって人から話は聞いたよ。色々びっくりしちゃって、最初はとてもじゃないけど信じられなかったんだ」


 この腕を離したら、幻のように消えてしまうんじゃないか。これは夢で、目を覚めたらまた凛が居ない世界なんじゃないか。

 不安と恐怖が今だ残っている心が、凛を抱きしめたまま離す事を許さないでいた。


「けど、テレビのニュースや新聞の日付を見ると、本当に私が覚えてる年月から時が経ってるんだもん。嘘みたいだけど、もう信じるしかなくってさ……私は三年前に通り魔にあって殺されてて、目が覚めたら知らない場所で、知らない人達に説明されて……」


 目の前にもっと不安になっている人が居たのに、俺は自分の不安にばかり囚われていて。

 一番不安で堪らないのは凛なのに、俺は自分の事しか考えていなかった。

 抱き返してくる凛の力が強まって、微かに震える声を聞いて……ようやく気付かされる。


「誰も知らない。場所も解らない。気付けば三年の時が過ぎてる。知れば知るほど怖くなって、理解すればするほど孤独を感じていって……私が目覚めてからこの三日間、ずっと怖くて不安だったの」


 見た事も聞いた事もない場所で目が覚めて、周りに知人が居ない孤独な状況。こうして俺と会うまで、不安と孤独の中にいたと言うのに。

 白羽さんや深雪さんが居たとは言え、初対面の人間しかいないこの場所で安心出来た時間はきっと、一秒も無かっただろう。


「そんな中で、匕がここに居るって聞いた時は本当に嬉しかった。嬉しくて、安心した。けど、三年も時が経ってるなら……私が知ってる匕はもう居なくて、私も事はもうどうでもよくなってるんじゃないかって……怖くてすぐに顔を見れなかった」


 声だけじゃなくて抱きしめる腕も震えて、凛は俺の服を握り締めてくる。

 俺は一体何を不安がっていたのか。なんで疑っていたのか。こうして声を震わせ、不安に怯えて、弱さを見せている人間が夢である筈がないのに。

 両腕で包む凛の体から伝わる肌の温もりが、背中に回された腕の力が。幻や夢なんかじゃなく現実に存在する人間なんだと証明しているじゃないか。


「でも……でもね、匕の顔を見たらね。色んな事を考えて、一杯あった不安はどっか行っちゃった。三年経っても、大きくなっても、匕は匕のままだったから」


 俺の胸に顔をうずめて話す彼女の言葉を聞いて、思う。あぁ、馬鹿だ。俺は……本当に馬鹿だったと。

 今、自分がすべき事は過去の過ちへの謝罪でも、拭いけれずにいる不安を払う事でもない。

 生き返った彼女を安心させて、支えて、守ってあげる事じゃないか。


「凛、聞いてくれ。話したい事、話さなきゃいけない事がたくさんある」

「……うん」

「けどそれは、今じゃなくていい。今はこうして、お前とまた会えた喜びを感じていたい」


 抱きしる力を少しだけ強めて、凛の温もりを、感触を、声を。もう叶わないと思っていた再会の喜びを噛み締める。

 急ぐ必要は無い。これからゆっくり、話したい事を話したいだけ。やりたい事をやりたいだけ。行きたい所に行きたいだけ。生きたいと思うなら、生きたいだけ生きていけばいい。


「でも、これだけは言っておきたいんだ」

「……あ」


 抱きしめていた腕を緩めて、凛の肩に手を掛ける。胸に顔を預けていた凛をゆっくりと離すと、か細い声を漏らしたのが聞こえた。

 不安でない筈が無い。心配でない筈が無い。怖くない筈が、無い。凛の主観では通り魔に襲われて、目が覚めたら知らない場所に居たのだから。

 襲われた恐怖。殺された恐怖。解らない恐怖。様々な恐怖に囲まれて、心が休まる訳が無い。


「起きたら三年間の空白があって戸惑ってると思う。知らない場所と知らない人ばかりで不安なのも分かる。今も本当は怖くて堪らないのに、俺を心配させないように強がって隠してるのも……知ってる」

「っ、そんな事は……」

「けど、俺がいるから。何があっても傍にいる。ずっと隣にいるから」


 俺が凛を安心させてやらないでどうする。自分よりも弱くて悲しんでいる彼女の恐怖を、俺が払ってやらなくてどうする。

 俺は今まで、凛を生き返らせる事だけの為に生きてきた。SDCで戦い抜いて、生き抜いて、こうして願いを叶えて再会を果たした。

 だったら違う、違うだろ。“今まで”は終わった。なら次に俺が目を向けるべきは“これから”だろ。


「だから……」


 凛を正面にして、真っ直ぐと目を見つめて。

 繋げる言葉はここからの生き方。これからの願い。


「また一緒に、同じ時間を生きて行こう」


 愛した人が隣にいて、繋いだ手から温もりを感じ合って、共に歩いていきたい。それが俺が新たに望む、次なる願い。

 あの日に奪われてしまった未来を。狂ってしまった二人の人生を。もう一度ここから、生き始めよう。

 凛は下唇を噛み、次第に瞳は潤んでいく。そして……。


「――――うん」


 小さく頷く凛の頬に伝う、一粒の涙。日差しに照らされて七色に光り、浮かべる笑顔は眩しく優しい。

 再び抱きしめ合い、呼吸を聞いて、体温を感じて。二人は静かに温かい時間を過ごす。

 心に温かい感情が広がり、凍っていた時の氷が溶けていき――――。



 

 ――――かちん、と。

 止まってしまっていた時計の針が、動き出す音がした。



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