No.80 月に願いを。月の願いを
力が抜けて、先輩の上から降りて地面に尻餅を突く。
雲で月が隠れた空を仰いで、なかなか整わない呼吸を落ち着かせようとする。
「はぁ、はぁ、はっ、はぁ、はあ……」
どうも息苦しいと思ったら、鼻血がだらだらと流れ落ちている。
スキルを使用によって精神を酷使し過ぎたか、上着のジャージには大きな赤黒い染みを作っていた。
「匕っ! 無事かっ!?」
「エド……あぁ、こうして自分を失わずに生きてる」
「……明星洋は?」
「上手くいったよ。別人格は消え去って、ここで眠ってるのは元の人格。先輩だ」
手の甲で鼻血を拭い、今になって口の中に鉄の味の味が広がっているのに気付く。
地面に唾を吐くと透明ではなく、どろりとした真っ赤な液体だった。
戦闘で口の中を切ったのもあるが、知らない間に鼻血が口の中にも入っていたんだろう。
「本当?」
「沙夜先輩」
振り返ると、沙夜先輩と沙姫がすぐ後ろに居た。
眉の端を下げ、半信半疑といった表情。けれど、期待の色の方が強いのが見て取れる。
「咲月君、本当に……本当に明星君は元に戻ったの……?」
「気を失う前に話した感じは、間違いなく先輩だった。次に目を覚ました時はあの、いつものアッケラカンとした先輩を見れるよ」
「よ、かった……本当によかった」
眠る先輩を見つめ、微笑みを零す沙夜先輩。
口元を両手で押さえ、微かに滲んだ涙で瞳を潤ませている。
「これでようやく、長く行われていたSDCも終わったか」
「いや、まだだ。まだ終わっていない」
「なに?」
立てた膝に手を乗せ、まだ疲労が残るも力を入れる。
腕だけじゃなく膝も震え、なんて事ない動作でも一苦労だった。
「最後の一戦が残ってる」
「……ああ、そうだったな」
それでもなんとか立ち上がり、二人を見る。藍色の髪に髪飾りを付けた妹と、白銀の長髪を揺らす姉。
狂気の化身だった宿敵を倒し、長かった因縁とも決着し、暴奪されていた友人が戻ってきた。しかし、だからといってSDCが終了した訳では無い。
今、こうして、この場に。まだ居るのだから。生き残り、勝ち残り、戦い抜いた参加者が、ここに。
「沙姫、いいわね?」
「うん、大丈夫。そう決めたから」
俺の視線と雰囲気に気付き、姉妹は揃って表情を張り詰める。
万全からは程遠い体調。肉体も精神も、すでにボロボロでとうに限界を超えている。それでも俺は震える腕を上げ、最後の戦いを迎えるべく構えを取る。
正直に言えば、二人とは戦い辛いし、戦いたくない。他人ではなくて仲が深い知人であれば、そう思い、そういう感情が生まれるのは当然だろう。
けど、約束をした。最後にお互いが残った時は、後腐れなく全力で戦おうと。それを覚悟してきたんだ。お互いに。
沙夜先輩は俺の方へと向き直し、真剣な面持ちで口にした言葉は――――。
「咲月君。願いを叶えるのは、あなたよ」
「……え?」
全く予想をしていなかったものだった。
構えていた腕を僅かに下げて、俺は無意識の声を漏らす。
「私が気を失って、コウに殺されるかもしれなかった所を咲月君に助けられた。ううん、あのままだったら確実に殺されていたわ。その時点で、私は脱落したようなものだもの」
「それを言ったら、俺だって危なかった所を沙夜先輩と沙姫に助けられた。お互い様なんだから、気にする必要なんかないだろ」
「その助けも、生きて命があってこそだもの」
「って言われても、沙夜先輩達もここまで戦い抜いてきたのに……」
「沙姫と話し合って決めた事なの。だから、咲月君は自分の願いを叶えて」
本当にいいのか。棚からぼた餅状態で納得出来る筈も無く、沙夜先輩の隣にいる沙姫へと目線を移す。
最後にこうもすんなり行くと、逆に不安になる。
「うん。私も姉さんが無事だっただけで十分。あの時に姉さんが殺されていたかもって思うと、誰も死んでいない今の結果で満足ですもん」
俺が何か言うよりも先に、目があった瞬間に沙姫が言葉を繋げてはにかむ。
「今まで危ない戦いの中を勝ち抜いてきたのに、そんな簡単に……」
「いいんです。それに私達の願いって、願望っていうより希望で……もしかしたら、叶える必要が無いかもしれない事ですから」
少しだけ寂しそうな表情をさせて、視線を下に落とす沙姫。
しかし、すぐに顔を上げ、また笑顔を見せる。
「姉さんを助けてくれて、その姉さんが咲月先輩に譲るって言って……もう納得するしかないですし、私もそれが一番だと思います」
「それに私が助かっただけじゃなく、咲月君は明星君も助け出した。この戦いで一番頑張って、一番の結果を作ってくれた。これ以上、私達が何かを求めるのは望みが過ぎるもの」
「そうですそうです。咲月先輩が一番頑張ったんですから。それに弱ってる咲月先輩と戦うなんて横取りするような真似、武術家として、一人の人間として恥ずかしいですもん。武を教えてくれた父さんがそれを知ったら、情けなくて泣いちゃいます」
ちゃんと話し合い、納得した上で出した答えだと。一切の心残りも、無念も、後悔も無く。
二人は笑って、俺に一つしか叶えられない願いを譲ると言ってくれている。
「でも……」
「ありがたく受け取っておけ」
「エド」
俺がまだ納得しきれず申し訳なさと格闘していると、隣に居たエドに背中をポンッと叩かれた。
「納得した上で譲るって言ってるんだ、お前も納得しろ。不本意や理不尽から放棄してるんじゃない。お前の戦いを認めて、二人で考えた結果の答えなんだ。お前だからこそ、こう言ってるんだぞ」
「……そうだな。わかったよ」
ここでようやく、俺は構えていた両腕を下ろす。同時に、胸の中で張り詰めていた糸が緩む。
最後の最後に残っていた一戦。親しい間柄での、願望の奪い合い。勝つか負けるかの勝敗も当然、知人との本気の戦いに全く抵抗が無かった訳じゃない。
それが無くなり、自分の願いが叶える事が確定した。心からの湧き上がる喜びの感情。
「ありがとう。願いは俺が、叶えさせてもらうよ」
小さく笑って返して、二人に礼を言う。
長かったSDCを戦い残り、勝ち抜いて……ついに願いを叶える権利を得た。嬉しくない訳がない。喜びを感じていない筈が無い。
しかし、今度こそ戦いが終わった事への安堵と、達成感から。これまで酷使してきた体が、今になって悲鳴を上げ始めた。
極度の疲労から両腕は鉛のように重くなり、脇腹からは激痛が再発し、両足は体を支えるのが厳しく。
「……ッ、匕っ!?」
「悪い、ちょっとだけ気が抜けちまった」
ふらついて倒れそうになったところを、エドに肩を支えられてゆっくりと地面に座る。
半端じゃない疲労感が襲ってくるが、まだ全てが終わったわけじゃない。最後に一つ、最重要な問題が残っている。
その問題を解決する為に、少しでも体力の回復を図る。鼻血のせいで鼻呼吸が出来ず、口で酸素を大きく吸って、ゆっくり吐く。
息をする度に禁器を受けた脇腹に激痛が走り、肉体と精神、両方の疲労蓄積。気を抜いたら途切れてしまいそうな意識を、体中の痛覚でなんとか繋ぎ止める。
「大丈夫か、咲月君っ!」
月が雲で隠れている夜空から飛び降りて来るは、黒い衣装で身を包んだ一人の男性。
黒いハットを手で押さえながら、どこからか白羽さんが現れた。
「結果は……?」
「成功だ。コウの人格は消えて、元の先輩に戻ってる」
「そうか。よくやってくれた」
白羽さんは近くで横たわっている先輩を見て、気懸りだった問題が上手く解決した事に安心する。
そして、白羽さんが姿を見せたという事は、短い休憩は終了を告げた。
読感術で近くの雰囲気を読み取ると、やはり。感じ取れるは奴の気配。
「やぁやぁ、まずはおめっとさんと言うとこか。なぁ、咲月君?」
ここに居る仲間とは別の声が聞こえ、咄嗟に目を向けるは屋上。
雲に隠れていた月が少しずつ顔を出し、淡く注ぐ月明かりが闇に隠れていたその姿を照らす。
三つ編みにされた金髪と、筋骨隆々の身体。咥えた煙草の先端から煙を昇らせて、関西弁の男が現した。
「テイルっ!」
いち早く俺と白羽さんが反応し、それに釣られるようにエド達も屋上を見上げる。
黒いタンクトップから太い腕を伸ばし、こっちを見下ろして紫炎を吐き出すテイル。
「テイルって確か……!」
「あの人がモユちゃんを……!?」
テイルの姿を見た事が無かった沙夜先輩と沙姫は驚きの表情を作り、その数秒後には怒りを露に睨みつける。
話で聞いていたモユの仇。それが目の前に現れて何も感じない筈が無い。
しかし、テイルはそんな視線なんて気にもせず、反応もせず。地面に倒れて眠っている先輩を一瞥する。
「お互いボロボロで咲月君の辛勝って形やが……データも充分取れた。負けたならもう要らんな。と言うか、回収するには骨が折れそうやしな」
最後に煙草を一息吸って指で摘み、それを人差し指で弾き捨てる。
コウとして存在し、戦った者への労いも慰めの言葉は無い。ただの道具の一つでしかないと、機能しなくなった家電でも見るが如く。
壊れて役に立たないのなら、新しいのを作ればいいだけ。奴にとってはただそれだけの認識でしかいない。
「さて、お待ちかねのご褒美の時間や。戦い抜いて勝ち残った咲月君の願い……叶えてやったで」
言って、テイルが一度しゃがんで立ち上がると。肩には一人、裸体の人間が担がれていた。
「死んでもうた咲月君の彼女、ちゃーんと生き返らせたで」
項垂れたまま動かず、腕も、頭も。だらんと力無く落として。
しかし、見覚えのあるその髪の色に。思い出される彼女に。心臓の鼓動が高く鳴る。
そして、テイルは肩から腕に持ち替え、まるで缶コーヒーでも渡すかのように。
「感動のご対面や。ほら、受け取りぃ」
三階建ての校舎の屋上から、彼女を放り投げた。
「な……ッ!」
考えるよりも先に……いや、考えるまでもなく。驚きに身を固める瞬間など一秒も無い。
疲れも、傷も、痛みも、何にもかも。自分の体の状態など忘れ、無意識に地面を蹴り出していた。
「咲月君、私が君を支える! だから、君が受け止めろ! 君がその手で彼女を取り戻すんだっ!」
「ぐ、うぉぉぉぉぉぉぉあああぁぁぁぁ!」
満身創痍での全力疾走。上手く体が動かない。手足が重い。全身が痛みで泣き叫んでいる。それでも、走って、進んで、前に手を伸ばして。
屋上から落ち来る願いを、ずっと待ち焦がれた想い人を。なんとしてでも己での手で掴み、抱き締めてなければと。
「二、度と、遅れて――――」
あの日、俺が待ち合わせに遅れたせいで事件が起きた。
あの時、俺が約束を守れなかったせいで彼女は殺されてしまった。
だから、今度は。今度こそは。今、この時、この瞬間は。彼女の未来を取り戻す為に。彼女との約束を守る為に。
疾走の勢いを付けて、地を蹴って、身を飛ばせて。
「堪るかぁぁぁぁぁぁああっ!」
限界の体を叫びで鼓舞し、両腕を前に大きく広げ。そして、次の瞬間。
その両手へ衝撃と共に、重みが伝わる。人一人の重み。想いが形になった、重み。
だが、落下速度が加わった一人の人間。傷付き疲弊しきった身体に、受け止めて支えきれる力は残っていない。
だったら体を下に滑り込ませ、腕で支えきれない分は俺の体を下敷きにして……!
「よくやった。咲月君」
が、衝撃も痛みも襲ってくる事は無く。耳に入ってきたのは涼しげな白羽さんの声。
いつの間にか俺の腕には白羽さんの右手が添えられ、背中は左手で支えられていた。
「……間に、合った」
抱きしめる彼女から伝わる温もり。人形や作り物じゃない。本物の人。本当の人間。
血が流れて、呼吸をして、温かみを保って。正真正銘の生きた人間が、俺の腕の中で眠っている。
重みや温もりを感じて、ここで実感が湧いてきたのか。もしかしたら、達成感もあるかもしれない。
俺の視界は微かに、目に溜まった涙で霞んでしまう。
「ナーイスキャーッチ。死んだ時より大きなっとるけど、年齢を咲月君と合わせたサービスや」
テイルに言われて改めて見てみると、確かに記憶にある凛よりも大人びた顔立ちで、身長も高くなっている。
でも腕の中で眠る彼女は、間違いなく待ち焦がれ、思い焦がれた人物だった。懐かしい顔。懐かしい髪。
早く声も聞きたいと、感情が急かしてくる。意識を覚醒していない今は、目を閉じて静かに眠っていてそれは叶わない。
そして、凛を本当に生き返らせるには今。目を開ける前の僅かな時間しかない。
「咲月君、これを」
白羽さんはスーツを脱ぎ、それを俺に差し出してきた。
生き返った彼女は衣服を何も纏っておらず、それを見兼ねて上着を貸してくれた。
「ありがとう、白羽さん」
上着を受け取って礼を言うと、白羽さんは小さく微笑んで返し、直ぐ様テイルへと視線を戻す。
「さて、テイル。これでSDCは終了した。ここからは大人の話し合いといこうじゃないか」
ギッ、と鋭い睨みを利かせ、闇夜よりも黒い瞳が映すは金髪の男。
いつもスーツを綺麗に着こなしていた白羽さんが、初めて人前でネクタイを緩める。
「恋人との再会に覗き見なんて野暮な真似は無しだ。甘酸っぱい恋愛に憧れるような歳でもないだろう?」
「なんや、ファイナルラウンドが終わったっちゅうのに……エクストララウンドに行こうってか?」
「私の仕事としてはここからが本番でね。お前もそうなんだろう?」
「……はん、少しだけ付きおうたる。こっちもお前にちょいとばかし用があんねん」
数秒。白羽さんとテイルはお互いに睨み合い、ぶつけ合う敵意と殺気。
真夏の夜だと言うのに、見ているだけで背中に冷たい汗が伝う。
そして、次の瞬間。睨み合っていた二人が、一瞬にしてその場から飛び去っていった。
「よし、予定通りに白羽さんがテイルの気を引いてくれている」
離れていった二人を辛うじて目で追えた先は、学校の裏にある神社の方角。
約束通り、白羽さんがテイルの相手をして気を逸らしてくれている。
その間に俺は、最後に残っている難題をクリアしなければならない。
「寒いだろうけど、少しだけ我慢してくれな」
凛を地面に寝かせ、白羽さんから受け取ったスーツの上着を掛けてやる。
姿形は凛でも、このままでは記憶を持たない別人でしかない。そして、その問題を解決するには、凛の形見である水晶が鍵になっている。
首に掛けていたネックレスを外し、それを凛の額に乗せる。
「はぁ、はぁ、はぁ……すぅぅぅ、はぁぁぁぁ」
深呼吸をして息を整え、気持ちを落ち着かせ、凛の額に乗せた水晶に両手を被せる。
予想以上に肉体は疲弊して、精神はかなり消耗してしまった。
心は摩耗して、体も傷だらけ。これで保つのか。成功するのか。不安は大きく、鼓動も比例して大きくなる。
「エド、あとの事は頼む」
「あぁ。お前は自分がやる事だけを考えろ」
けど、俺はこの三年間。この願いの為に生きて、戦ってきた。そして、ずっと追い続けてきた願望が今、現実に、目の前にまで来ている。
思い出せ。思い浮かべろ。思い描け。俺にある記憶を伝達しろ。移し得た記憶を活用しろ。水晶にある凛の記憶を、真っ白なこの体に転移させる為に。
やり方は解っている。知っているはずだ。水晶から得た記憶の通りやればいいだけ。顔も見えない。声も知らない。誰かも解らない。ただ、一人の男が夢の中でやっていた。
意識を澄ませ、感覚を磨げ、魂を呼び出せ。俺の精神を使って、水晶の中から凛の記憶を手繰り寄せろ……!
「ぐ、うぅ……あ……!」
吹いてもいない追い風を背中に感じ、頭髪が内側へ引っ張られるような感覚。意識が水晶に引き寄せられる。
自分の意識を水晶内に入れて、中から凛の記憶を探し、俺の精神を繋げて引っ張り出す。
水晶に被せた両手に、ふつふつと熱がこもり、さらには指の隙間からは紫色の光が放たれる。
「頼、む……もう少し、耐えてくれ、よ、俺……!」
眠気とは違う意識の薄弱から、徐々に重くなっていく瞼。水晶内から凛の記憶を見付けるも、まだ全てを引き出せていない。
それどころか逆に意識が引っ張られ、下手をすればこっちの意識が水晶の中に持って行かれてしまいそうになる。
けど、あと少し、あと少しで凛の記憶を引き出しきれる。それを凛の身体に入れれば、完全に生き返る。凛が戻って来るんだ……!
その時、俺は。凛に会って、俺、は……。
「絶、対……凛に……」
俺は―――――。




