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No Title  作者: ころく
8/85

No.7 カレーな食卓

 少し背を曲げて、怠そうに歩く。長時間座っていたせいか、歩く度に尻が痛い。


「くぁ……」


 人とすれ違う中、別に隠そうともせずあくびをする。あくびに続いて腹の虫もグギュルルル、と自己主張してきた。

 人間の三大欲求の内、同時に二つも攻めて来ている今現在。しかし、今回は睡眠欲よりも食欲の方が上回っている。

 腹に手を当てると、飯はまだかと更に強く主張。しかし、幸いに俺の腹から演奏される音楽は人混みの賑やかさにかき消される。

 ちなみに、今演奏されている音楽はサビの部分。つまり、空腹の絶頂って事。


 エドと白羽さんと別れ、歩きだしてから十五分位。駅前から少しだけ外れた所にある、商店街に入る。

 ここは子供連れの主婦、または仕事帰りの人やらが夕食の買い出しに来る。

 なので駅前程とは行かないが、それなりに賑やかだ。今日はバイトが無いし、時刻もまだ夕方になったばかり。なので時間が余っている。


 こういう日は、スーパーのタイムセール品を買って自炊するれば財布に優しい。が、話をしていただけとは言え、長時間も話していれば結構疲れる。

 友達との雑談だったらば、いくらでも話せるだろうが……悲しいかな、そんな楽しいお茶会ではなかった。

 体力的に疲れているし、精神的にも疲れた。夕食を自分で作る程の元気なんて残っていない。

 となると、候補に浮かび上がるのはコンビニ弁当とジャンクフード。しかし、ジャンクフードの王道である全国チェーンのハンバーガーショップは駅前にしかない。

 今から戻るのは体力的に良くないと身体が言っている。で、残ったコンビニ弁当は買って部屋に帰ればすぐに食える。


 だが、こっちは財産的に良くないと財布が言っている。そう。コンビニ弁当は一人暮らしの学生にとっては高価な食べ物。

 それを前に三つもくれたバイト先の店長はなんて善い人なんだ。そこのバイトをやめなきゃいけないのは少し勿体なく感じるし、俺に良くしてくれた店長にも悪い気もする。


 なんてしみじみしていると、脱線してんじゃねェよ。と腹がグギュル、とまた歌い出した。

 そうだ、今はまず飯だ。と脱線した電車を線路に戻す。

 実は、実家の母から送られてくる仕送りの中に、時たま一緒に米が送られてくる。お陰で、家には米だけはある。

 そこでいかに米を有意義に使い、尚且つ美味しく頂けるかを考えた結果……。


「物凄くこってりしたラーメンが食いてぇ」


 という結論に辿り着いた。理由は簡単、腹が減っていてガッツリ食べたかったからだ。そして余ったスープにご飯をブッ込む。完璧だ。

 栄養に偏りがあるとか身体に悪いとか関係無い。今は何か水分以外の固形物を胃に入れて、ただ腹を膨らましたい。

 という訳で、今日の晩飯はカップラーメンに決定。早速、商店街の中にあるスーパーへ向かう。

 俺が知っている店の中でも、売っているカップラーメンの種類が一番豊富にある。それに、コンビニで買うのよりも安かったりする。

 おばあちゃんならず、学生の知恵袋とでも言おうか。なんて下らない事を考えている内にスーパーに着いた。


 商店街と言っても、そんなに大きくもないからすぐに着くのは当たり前か。

 自動ドアの前に立ち、ドアが開くとひんやりとした空気が肌を触れる。夕方とは言え、まだ暑い中を歩いてきて熱くなった身体には丁度良い。

 入り口付近にある野菜売り場を突っ切り、目的の品が売っている場所まで移動。

 いつも思うんだが、スーパーって冷房が効き過ぎているよな。

 今の俺のように外から来たばっかなら良いが、買い物に時間が掛かって長時間もいると寒くなってきたりする。

 ま、俺の買い物は一つだけだから長時間もいないけど。


 さっさと野菜売り場を抜け、インスタント食品売り場に着く。大量にあるカップラーメンを値段と比較して選ぶ。すると、特売品と派手に書かれたものが視界に入った。

 それは定価が軽く二百円は超えるカップラーメンが、一つ百円でのセール価格というものだった。しかも、こってり味代表のとんこつ。

 自分が求めていた品を安く買えるようにしてくれた神様の気紛れに感謝。基本、俺は神様なんて信じていないが。それだけ嬉しかったって事だ。

 カップラーメンを一個だけ手に持って、カゴいっぱいにした主婦の中に気まずさを感じながら混ざって会計を済ませる。

 本日の晩飯の値段、税込みで百円なり。


 カップラーメンが入ったビニール袋を手に持ち、店から出ようしたら、そこには薄碧色のショートヘアの見覚えのある後ろ姿が目に入る。

 その後ろ姿は、せっせと器用にカゴからビニール袋に買った物を詰め込んでいる。


「沙姫?」


 名前を呼んでみると、ビクッとしてから薄碧色の髪をした少女が振り向いた。


「わっ……え、あれ? 咲月先輩? なんでこんな所に?」


 沙姫はキョトンとした顔をして、答えの分かり切った質問をしてきた。


「何って、買い物以外にねェだろ。それにお前こそなんで声を掛けられてビクついてんだよ」

「いやぁだって、こんな所で声を掛けられるなんて思わないじゃないですか」


 あぁ、まぁ分かる気もする。声を掛けた俺が言うのもなんだが、ここで知り合いに会うとは思っていなかったし。


「まぁ、そうだな。夕食の買い出しか?」


 既に買った物は全部ビニール袋に移し終わった後で、カゴの中は空っぽだった。

 代わりに一杯になった大きめのビニール袋と、半分ぐらいを埋めた普通サイズのビニール袋が沙姫の前に置かれている。

 大きめの袋からは、長ネギがひょっこりと顔……というか、体の半分近くがハミ出していた。


「いえ、調味料が一つ切れて、そのついでに買ってきてくれって姉さんに頼まれちゃって」


 それでこんなに買う羽目になっちゃったんです。と、アハハと気軽に笑う沙姫。

 調味料一つのついでにどんだけ買ってんだよ。頼まれた通りに買う沙姫も沙姫だが、頼む沙夜先輩も沙夜先輩だ。

 よく見ると、大きい方の袋にはみっちりと隙間を埋め尽くす様に物が綺麗に入り切っている。長ネギ以外は。

 一人暮らしをしてこういう所で買い物をするようになってから知ったんだが、買った物をビニールに入れるのにはセンスが問われる。

 いかに無駄なく、綺麗に、容量よく入れるか。大きさ、形、重さを考えて入れる順番と場所を考える。ちょっとしたパズルと言ってもいいぐらいだ。

 それでこの袋にこれだけ入れているって事は、沙姫は結構慣れていると思える。


「しゃーねぇな」


 カップラーメンが入った袋を持つついでに、大きい袋も右手で持つ。


「あ、いいですよ先輩! これぐらい自分で持てますよ!」

「いいっていいって。こんな大荷物を見せられて、ハイさよなら。なんて言えないだろ」


 袋を取り返そうとする沙姫をヒラリと避けて、店の出入口へ歩く。その後ろを沙姫は余りの袋を急いで持って足早に付いてくる。

 他の客の間を縫って自動ドアを通って外に出る。ムワッとする暑い空気が体にまとわり付いてきた。

 外は日が暮れ始め、少しずつ景色は夕焼け色に染まり始めていた。


「やっぱり悪いですよ、咲月先輩に持ってもらうなんて」


 スーパーから出ても沙姫はまだ言っている。俺が先輩だから、後ろめたさでもあるのか。だったらコッチには先輩としての意地がある。


「いーや、俺も先輩としての面子がある。だから断る」


 普段は別に年の上下なんてあまり気にしないんだけど。まぁ、今のは言葉のアヤっていうヤツで。

 それに絶頂に期した空腹よりも、俺の小さいプライドが勝ってしまった。腹の虫も『それなら仕方ない』と言うかのように、騒音を出さなくなった。

 後ろを付いてくる沙姫は、なかなか袋を返してくれない俺に向かって『うー……』と唸なっている。


「ほら、それによ。この間もらった肉まんのお礼もしたいしよ」


 歩きを止めて後ろを向き、沙姫の様子を伺う。

 言い返してこなくなった沙姫を見て、もう一押しすれば落ちると思い、適当にそれっぽい事を言い加える。


「お礼も何も、あの肉まんは私が咲月先輩にお礼としてあげた物なんです! だから咲月先輩からお礼をされる覚えはあ・り・ま・せ・ん!」


 沙姫はズイッと凄い勢いで顔を近付け、言葉のカウンターを喰らわせてきた。


「あ、アレ? そうだったっけ、か?」


 あ、そうだった……確かあれは沙姫が言う通り、俺がお礼として貰ったんだった。

 ぐっ、ヤバイ。ここまで来ておいて墓穴を掘っちまった。どうする…!? 他のそれっぽいヤツを……いやダメだ。他に思い付かん。

 沙姫のカウンターは見事ヒット。もう滅茶苦茶ダメージが足にきて立ってるのがやっと、みたいな。

 沙姫はまだ眉を逆八の字にしている。

 このまま行けばKOされかねない。と、思っていると――。


「……はぁ、分かりました。咲月先輩の厚意を無下にするのも悪いですし、今回は私が折れます」


 まさかの沙姫の降参で試合終了。深い溜め息を吐いて、沙姫の眉が逆八の字から八の字になる。

 俺の粘り勝ち、と言っていいのだろうか……?


「それに、咲月先輩に私が折れるまで一人でずっと歩いて行かれると困りますし」

「あ? なんで困るんだ?」


 言った意味が分からず、理由を聞く。すると沙姫はまた、さっきと同じように溜め息を吐く。

 いや、さっきのとはワンランク上だ。今のは肩の力が抜けて下がってしまうぐらいの溜め息だった。


「咲月先輩、私の家がどこにあるのか分かるんですか?」

「あ……」


 なんともはや、なに自分でベタベタなボケをしているんだ。自分で自分に呆れてしまう。


「知らねぇや」


 でしょ? と言いながら沙姫は両手を腰に置く。自分だけじゃなく、沙姫も呆れた顔をしている。

 今さら気付いたがつまり、俺は沙姫の家がどこか分からないのに先頭を歩いていた訳だ。馬鹿以外の何者でもない。

 沙姫の荷物を持ってあげたのは、自分がやりたいと思ったからやっているだけ。

 自分の意思でやってるのだから、別に周りから格好付けてるなんて言われても構わない。


 だけど、今の家が知らないってのは恥ずかしい。誰かに言い触らされたら赤っ恥モンだよこりゃ。

 でもまぁ、学校での知り合いは殆んどいないからな。よく考えたら、思ったほど困るものでもないか。

 というか、こっちに住み始めて一年以上も経っているのにも関わらず、学校の知り合いが少ないって方が問題だろ。


「じゃあ、もしかしてコッチは逆方向だった?」


 後ろにいた沙姫の所まで歩き、来た道を指差して戻ろうとする。


「いえ、この道で合ってますよ」


 ……あぁ、そう。道は合ってたんだ。


「じゃ、行きましょうか」


 沙姫は俺の隣まで近づき、さっきまでの呆れ顔は消えてニッコリと可愛いらしい顔で笑った。

 道に映る、夕日に作られた二つの影がゆらゆらと動く。

 自分の分身でもある影は、本物よりも背が高く、道路の電柱や塀に触れる度に何度も形を変える。

 ちょっとした化け物とも思えそうだ。そんな影が仲良く並んで歩きながら世間話をしている。


「へぇ、じゃあ沙姫はいつもあのスーパーで買い物してるのか」

「はい。仲のいい店員もいますし。なにより、小さい頃よく母に付いて行っていた所ですから。なんか今さら別の所で買うのもなぁ、って」

「あー、その気持ちは分かる」


 自分の中に変なこだわりが出来ちゃうんだよな。

 今住んでいるこの街にはそんな店はないが、地元には俺もそういうのあったし。もう一年以上も顔出してねぇや。

 盆にだけ、凛の墓参りの為に地元に帰るけど……用が済んだらすぐに帰るからな。昔を振り返って少し、しんみりしてしまう。

 地元にいい思い出なんて殆ど無いが、しんみりしてしまう自分がいるって事は、心のどっかではやはり地元が好きだと思ってるんだろうな。

 っと、ホームシックになる前に思い出に浸るのはやめよう。頭を切り替え――。


「っとと」


 隣で歩いている沙姫にすら聞こえない程小さい声を出しながら、横にずれる。沙姫の肩がぶつかりそうになったからだ。

 別にぶつかったからどうなるって訳でもないんだが、ぶつかるよりぶつからない方がいい。なので、沙姫に気付かれないようにさり気なく回避。

 今ンとこ、ここまで来るまでに三回位ぶつかりそうになった。あ、いや、今ので四回だ。


「そう言えば、咲月先輩の家ってどこなんですか?」


 さっきまでの行き付けの店の話から話題はクルリと変わり、沙姫は俺の家の場所を聞いてきた。


「俺の家?」


 一応聞き返してみると、沙姫は『はい、そうです』と首をコクリ。

 俺の家はこの街の駅から、まず新幹線で……って、実家の事を聞いているんじゃないよな。そんなの聞いてどうするって話だし。

 この街のどこに住んでいるのかを聞いてるんだよな。


「ん、逆方向」


 隠す必要もないから正直に話す。


「逆方向なんですか? じゃあなんか、余計に悪い気がしてきた……」

「だからそんな気にすんなっての。これは俺の意思でやってんだからよ」


 そう言いながら、右手に持っている袋を軽く持ち上げる。それと同時に影も動き、袋からはみ出てる物の影がより一層長くなった。

「んー、それもそうですね」


 沙姫は頬っぺたに人差し指を当て、少しだけ考え……いや、考えたかどうかさえ怪しいぐらいの速さで返答。そんな沙姫の態度にちょっとだけ淋しさを感じる俺。


「なんか……すごくあっさり納得したな、今」

「だって、咲月先輩が気にすんなって言ったんじゃないですか」


 まぁ、そうだけどよ。でもいや、なんつーかこう……いや、そうですね。その通りです。そっちの言う通りです。


「それに、さっきので咲月先輩が顔に似合わず結構頑固だっての知りましたから」


 エヘヘ、と沙姫は笑い、その笑顔を夕陽が照らす。

 夕陽の光が、沙姫の額に薄らと出ていた汗を光らせ、昼間の屋上で見た笑顔よりも断然可愛く感じさせる。

 不覚にも一瞬だけ見とれてしまった。


「あれ、咲月先輩どうかしました?」


 その見惚れてしまった時に沙姫と目が合い、ぼうっとしていた俺を不思議に思った沙姫が、大きな目をパチクリして聞いてきた。

 それでハッと我に返る。


「あ、あぁいや、その……あれだ、沙姫の私服姿は初めて見るなぁ、と思ってよ」


 即座に苦しい言い訳を作る。正直に見惚れてました、なんて恥ずかしくて言えるか。


「服……ですか、私の?」


 俺の誤魔化しの言い訳を真に受け、沙姫は自分の服を確かめるように見る。


「ほら、肉まんも学校で貰ったから制服だっただろ? だから私服が新鮮に感じるんだよな」


 沙姫の私服の話になったのは本意では無かったが、新鮮に感じるってのは本心だ。

 沙姫は上に白いフード付きのベスト、中には黒いTシャツを着ている。下は半ズボン、じゃ無いよな。ジーンズ生地で、短パン程の長さのを履いている。

 俺は初めて見るからそうだとは言い切れないが……恐らく、これがホットパンツと言うものなんだろう。


「って咲月先輩。よく考えてみたら、前にSDCで会った時も私は私服だったんですけど」


 沙姫は動かしていた足を止めて、視線を服から俺に変える。

 あれ、そうだったっけ?


「前って……助けてやった時、の?」


 それに合わせて俺も足を止め、沙姫の言う『前』を思い出す。


「その時もですし、前回のいきなり襲われた時もです!」


 マジか? やべ、まったく覚えていねぇや。

 本日二つ目の墓穴を掘っちまった。自分が死んでも使うのは一つだけで十分なのに。


「っておい。襲われたとか勘違いされるような言い方はやめろ」


 確かにいきなり手を引いて茂みに突っ込ませたが、その言い方は高確率で誤解される。マジでやめろ。

 幸い、周りに他に人がいなかったから良かった。


「でもSDCの時だったから、私服と言っても動きやすいようにってジャージでしたからね」


 アハハー、と沙姫は笑う。

 んだよ、それじゃ私服だけど私服って言えないじゃねぇか。じゃあ、私服っつう私服をちゃんと見たのは、本当に今日が初なのか。

 自分と歳が近いヤツの服装っつったら、学校で見る制服ぐらいなモンだからな。改めて見るとやはり、新鮮に感じる。


「あ、ところで先輩は何を買ったんですか?」

「は?」


 沙姫の家に向かうのを再開し、止めていた足を動かす。

 いきなり何を? なんの事を言っているのか分からず、返答に困る。


「袋の中身です。ふ・く・ろ・の! 咲月先輩も何か買ってたじゃないですか」


 あーあー、スーパーで買った物ね。服の話から急にスーパーの話に戻るとは……話の方向がぐるんと二転三転する困った娘だな。


「俺が買ったのはカップラーメンだよ、カップラーメン」


 ほらよ、と沙姫にカップラーメンの入った袋を見せる。

 財布に優しく身体に悪い学生のお友達。人類史上最大にして最高の発明品、カップラーメン。お湯を入れるだけですぐ食べれる優れ物。素晴らしいね。


「カップラーメン……ですか。しかも一個だけ。夜食用とかですか?」

「夜食用? なんで? 今日の晩飯に決まってるだろ」


 だからわざわざ、こんな混みまくる時間帯にスーパーに行ったんだ。でなきゃ行きませんって。


「えっ、これが今日の夕飯なんですか?」

「だからそう言ってんでしょーが」


 そう言って沙姫は、もう一度カップラーメンの入った袋を見る。


「……なんだよ?」

「んー……咲月先輩の両親は旅行に行ってるとか、そんなですか?」


 なんて沙姫に言われ、頭の上にハテナマークが出てくる。


「なんで?」

「いやぁほら、夕飯がカップラーメンだから……親が出掛けてるのかなぁ、って」


 出掛けてるって、なんでだ? 一人暮らしの学生がカップラーメンを食べるのは普通だと思うが。

 頭の上のハテナマークが一つ追加。


「ってあぁ、そうか」


 それだ。なるほどね、沙姫の言っている意味が分かった。


「俺、一人暮らししてんだよ。こっちで」

「えっ、咲月先輩って一人暮らしだったんですか!?」


 大きな目をさらに大きくさせて驚く沙姫。

 そうだよ。沙姫は俺が一人暮らしだってのを知らないんだった。普通なら両親と一緒に住んでいるモンだと思うよな。

 それで晩飯がカップラーメンってなれば、沙姫のように思ってもおかしくはない。


「そ。今日はヤボ用があって疲れてさ。なんか晩飯を作るのが面倒臭くなって、それで今日はカップラーメンに」

「ほぇー……すごいですねぇ、高校生で一人暮らしだなんて。大変じゃないですか?」

「んー、越してきたばっかの頃は大変だったけど、もう何だかんだで一年以上経ったからな。慣れた」


 初めは本当に大変だったな。洗濯物とかが溜まって溜まって。ま、今言ったように慣れればなんて事はない。

 洗濯物を洗ってる最中に買い物をしてきて、帰ってきた頃に洗い終わって干す。で、飯の準備みたいな。

 最初は何をするにも一つずつだったから時間が掛かった。


「でも、カップラーメン一個じゃ足りなかったりしませんか?」

「その辺は大丈夫。家には余ったごはんがあるから」


 一緒に食べて良し、残ったスープに入れるも良し。ラーメンとごはんの組み合わせにはハズレは無いのだ。


「だからって、カップラーメンばかりじゃ体を壊しますよ?」


 そうだぞ、野菜も食べなさい! と言うかのように、長ネギの影が伸びたり縮んだり。


「別にいつもカップラーメンを食べてる訳じゃなねぇよ。一応これでも自炊してんだから」


 嘘じゃないぞ、本当だ。ただごくたまに、だけどな。だから、普段はコンビニで売ってる物か食べないかの二択だ。


「へぇー、咲月先輩って料理作れるんだ」


 沙姫は意外だ、って顔をしている。


「言っとくけど、お前が考えているようなのじゃないからな」

「……ですよねぇ」


 すんなり納得。多分、沙姫は一般家庭で出されるようなのを思い浮かべてたんだろう。

 しかし、そんな高等なものを作れる訳がない。作れるモンなんてシンプルかつ悲惨なものだ。

 適当な具材を混ぜたチャーハンとか、味付けは焼肉のタレだけの野菜炒めとか。世に言う、男料理ってヤツだ。

 自分で言うのも何だが、不味くはないと思う。


「ところでよ、お前ン家はまだ?」


 話が絶えなかったからあまり気にはならなかったが、スーパーを出てからそれなりに歩いた。

 別にまだまだ先って言われても大丈夫だが……その分、俺の部屋が遠退いていく。つまり、晩飯も遠くなる。


「一応、着きました」


 言われて歩きを止め、辺りを見回す。


「お、どの家だ?」


 キョロキョロと周りを見てもそれらしい家はない。

 自分から見て右っ側は壁。左っ側は家はあるっちゃあるが、裏側なのか玄関が見えない。って事は、この家は違う。

 もう一度周りを見直してみが、やはりそれらしいものはない。


「ここです」


 沙姫は右を人差し指で指す。

 右っ側? そっちは壁しかなかった気がするが、指された方向を確認してみる。


「どこ?」


 しかし、やっぱり壁しかない。


「だから、ここです」


 沙姫は変わらず壁を指差す。家どころか段ボールすらない。あれか? 沙姫は壁に住んでる壁女ってか?

 自分で言っておいてつまらん、と心の中で失笑。あまりのつまらなさに、小さいため息を吐いて少し上を見上げる。

 すると視界に何かが入ってきた。壁はそんなに高くなく、てっぺんには何かある。

 よく見ると壁だと思っていたのは塀で、てっぺんに付いているのは瓦を並べられた屋根みたいなヤツだった。

 で、その塀を指差してるって事は……。


「……ここ?」


 俺も沙姫のように壁に指を指す。


「さっきからそう言ってるじゃないですかぁ!」


 何度も同じ事を聞く俺に、沙姫はご立腹。

 首を曲げて塀の長さを調べてみる。右から左へと、結構長ーく続いている。

 そうだな、大体五十メートルくらいありそうだ。て事はだ、それぐらいの広さの家ってなるな。


「ほぇー」


 無意識に気が抜けた声を出してしまった。


 まだちゃんと家の大きさを見た訳ではないんだが、敷地を遮る塀がこんな長くあったら嫌でもデカイのを想像しちまう。


「で、入り口はどこに?」


 ここから見た限りじゃ入り口らしい入り口は見当たらない。

 まさかここを昇ったり? と冗談を言おうとしたが、沙姫は今、少しご立腹なのを思い出してお蔵入りになった。


「こっちです」


 沙姫に先導されて、止めていた足を動かして続く塀が切れている所まで移動する。

 そして突き当たりの丁字路に出て、そこを右に曲がる。まぁ予想通りに塀がL字の様になって続いている。

 すると、まだ続く塀の真ん中辺りに入り口があった。そこまで沙姫の後ろを付いていく形で歩いていく。

 入り口は分かりやすく言うと、玄関ではなく『門』の一言。

 よく悪代官を裁く時代劇に出て来る様な大きいのでは無く、それよりも一回り小さくした感じ。それでも立派だ。


「咲月先輩、何やってるんですか?」


 俺が門を鑑賞している間に沙姫は中に入って行ってしまっていた。

 門の戸は閉まっておらず、両側とも開いていた。この中に家があるんだから、戸が閉まっていたら郵便屋さんとか大変だろ。入れなくて。


「あぁ、悪い」


 急ぐ素振りもせず、門をくぐって沙姫を追い掛ける。通る際に、自然と戸の方へと目が行った。

 扉は木造で年季が入っている。留め具として使われている黒い金具は、所々錆付いている部分があった。

 そして門の表には、大きな木製の看板が掛けられていた。その看板には、筆で書いた様な力強い文字で書いてあった。

 『水無月柳』と。


「ほぇー…」


 門を通り、沙姫の敷地に入っての第一声がこれだった。早くも二度目の気の抜けた声。

 門の入り口から真っ直ぐに石で加工された道。石畳と言えばいいのだろうか。それが家の玄関まで綺麗に繋がっている。

 その石畳の上を歩いて、水無月家の玄関まで誘導される。

 家は二階建。真正面しか見ていないから奥行きは分からないが、あの塀の長さを考えたら自然と想像出来る。

 庭もかなり広い。子供達が集まって遊べる様な空き地以上だ。大層に池まである。

 そして、一番驚いた理由が他にある。家とも負けないぐらいの大きさでそびえ立っている。

 道場だ。


 なんせ頭ン中に一切入っていなかったからな。というか普通、一般家庭を想像して当たり前に道場を思い浮べる奴はいねェだろ。

 なんて思ったら、実家に道場がある俺が言える台詞では無い事に気付いた。それどころか知り合いにもいるしな、道場持ってる人。でも本当に予想外だった。


「ただいまぁー」


 沙姫がガラリと玄関の引き戸を開けた。夕焼けの明かりのせいか家の中が暗く見える。沙姫は家の中に入り、玄関で靴を脱ぎ始めた。


「あれ、咲月先輩入んないですか?」


 俺が玄関の手前で止まっているのに、沙姫が気付く。


「いやー、ここまで持って来りゃ大丈夫だろ?」


 正直、入りたくない。理由は簡単。沙姫の親に会いたくない。ただそれだけ。本当、そういうのはかなり苦手だ。

 好きじゃない敬語を使わなきゃならないし、親の前だからって沙姫と話すのにも気ィ使う。だから気が進まない。


「何言ってるんですか。ここまで運んでもらったんですから、お茶ぐらい出しますよ」


 しかし、沙姫は俺の気持ちなんか知る訳もなく、スタコラと奥に入っていった。


「あ、おい」


 どうしようか……このまま荷物をここに置いて帰るって手もあるが、それはなんか後が気まずいしな。

 親が今、家にいないの一点賭けで行くか? だけど、もう夕方過ぎだから帰ってきている確率の方が高いよなぁ。

 しかも、このまま悩んでいたら沙姫を見失って、この広い家の中で迷子になる可能性も……。


「――よし」


 すーっ、はぁー。と深呼吸をして気合いを入れる。考えた結果、腹ぁくくる事にした。

 親がいたら適当に挨拶して速攻で帰ればよし!

 靴を脱いで家の中に入る。中に入ると外と比べて空気が冷たく、涼しかった。夏は涼しく、冬は暖かいってヤツか。

 玄関から真っ直ぐ続く廊下を沙姫は歩いていたので、見失わずにすんだ。

 ガサリと袋を持ち直して少し足早で付いていく。すると、廊下の渡る途中の左手側に開きっぱなしの戸があった。

 覗いてみると、そこは道場だった。


「そうか、妙に家と道場の間隔が狭いと思ったら……繋がっていたのか」


 俺ン家の道場は離れだったからな。いちいち靴を履き替えて外に出なきゃならなかった。

 実家にも道場があったせいか、違う物と分かっていながらも懐かしい雰囲気がした。


「咲月せんぱーい? こっちですよー」


 道場に見入っていた所を沙姫に呼ばれる。


「ん、あぁ……」


 少しだけ名残惜しさを感じながら沙姫の所まで荷物を運ぶ。


「姉さん、ただいまぁ。いるー?」


 戸を開けながら声を出す沙姫。

 連れてこられた部屋は居間ではなく、台所だった。戸が開かれただけで、鼻を刺激する良い匂いがしてきた。

 この匂いは一度嗅いだだけですぐ分かるもの。作るのが簡単で、しかも失敗する事は滅多にない。さらには作り置きが出来て三日ぐらい食える上に、飽きない。

 俺も何度か一人暮らしを始めてからお世話になっている。カレーだ。

 沙姫と戸の間からガスコンロの上に、コトコトと音を立てている鍋が見える。決定的だ。


「いるわよ。お帰り、お買い物ご苦労様」


 すると中から聞き覚えのある女性の声。

 あぁ、そうだった。沙姫の家なんだから、居て当然だよな。


「はい、これ」


 ドサリとテーブルの上に沙姫が持っていた袋を置く。


「沙姫、頼んだ物より少ないわよ?」


 ガサガサと袋の中を確認する沙姫の姉。


「残りはこっち」


 そう言って、台所の入り口前でつっ立っている俺を指差す。というか人に指を差すな。


「ども、こんちわ」


 苦笑いをしながら、空いている左手を胸の高さまで上げて挨拶する。


「え、咲月君?」


 沙夜先輩は目をパチクリして驚いた顔をしている。まぁ当然の反応だな。


「なんで咲月君が?」


 それも当然の質問だよな。沙夜先輩からしてみれば、俺が来る理由がねェもん。


「スーパーでたまたま会ったの。そしたら見ての通り」


 沙姫は沙夜先輩の隣に行き、少し屈んで冷蔵庫を開ける。


「あ、咲月先輩。袋はテーブルの上に置いちゃってください」


 冷蔵庫からお茶の入った縦に長い円柱のガラス容器を取り出した。そしてバタン、と冷蔵庫の扉を閉める。


「あ、おぉ」


 大量に物が入った袋を長方形の形をしたテーブルの上に置く。あー、結構重たかった。

 それにちょっと手が痛ェ。手の平を見てみると、持っていたビニール袋の線上に赤くなっていた。

 やっぱ俺が持って正解だったかな。沙姫にはちと重たかったかも。


「咲月君、本当なの?」


 沙姫が言っている事が本当か俺に確認する沙夜先輩。

 それに、どこか少し申し訳なさそうな顔をしている。妹が迷惑を掛けて、心配する姉ってとこか。

 まぁ、沙姫は迷惑を掛けてはいないんだけどな。むしろ俺が迷惑を掛けたって感じだし。


「いやまぁ、俺が無理言って持っただけですよ」


 小さなプライドの為にな。しかも空腹にも関わらず、目の前の飯を蹴ってまで。


「沙姫……?」


 沙夜先輩は多少疑いの目で沙姫に問い詰める。


「本当だってば。咲月先輩が親切に持ってくれたの。あ、咲月先輩、遠慮しないで椅子に座ってください」


 沙姫は戸棚からコップを2つ取り出し、ガラス容器の中身を注ぐ。

 うん、物は言い様ってのは本当だな。実際は俺が勝手に袋を持って半強制的だったのに。

 とりあえず沙姫に言われた通り、鞄は隣の椅子の上に置いて自分は手前の椅子に座る。


「はい、麦茶ですけど」


 座ると同時に麦茶の入ったコップが出される。

 ぬぅ、言われたままに座ってしまった……水無月姉妹の両親に会いたくないから即帰宅を決め込むつもりだったのに。

 しかし、お茶を出されたのに飲まずに帰るのも悪いからな。小さなプライドの次は、小さな良心で自滅しなきゃいいけどな、俺。

 出されたので一応麦茶を一口飲む。

 これで本日摂取した物の中に、水、アイスコーヒーに続いて麦茶が入りました。形ある物が食べたいです、ホント。

 そう思った瞬間、俺の中で眠っていた奴が起きた。

 ――――グギュルー。


「あ……」


 盛大に腹の虫が鳴った。

 なんとまぁ……このタイミングで起きますか、アンタは。

 荷物は届けたんだから、さっさと帰って食いモン寄こせ! と仰っておられる。

 ふむ、俺の腹の虫は空気が読めないらしい。けどまぁ、こんな香ばしいカレーの匂いを嗅いだら起きてしまうのも無理ないか。


「今の、咲月君?」


 街中だと人混みの雑音でかき消された腹の音は、ここじゃしっかりと部屋内に響く。

 そんな音を聞き逃す訳もなく、沙夜は発信源に聞いてきた。


「いやその……はい、俺です……」


 どうにか誤魔化そうかという案も一瞬頭に浮かんだが、誤魔化せるような状況じゃないので正直に吐く。


「随分と大きな音でしたねぇ」


 沙姫は笑うどころか、少し感心した顔をしながら麦茶をすすっている。

 いや、腹の音で感心されても……。

 今日は水分しか摂ってねェんだ。そりゃこんだけデカイ腹の音が出ても不思議じゃない……と俺は思う。


「それじゃあ晩御飯、食べていく?」


 ……え? ご飯?

 腹の虫が小さくクキュルゥ、と賛成だと申している。

 ――が。


「いやいや、いい! 遠慮する! 勝手にお邪魔しといてそれは悪いから!」


 即却下。今のじゃ『飯を食わせてください』って言ったようなモンだって。

 それですんなり、じゃあ頂きます。なんて言ってみろ。卑しいにも程があるって。


「いいのよ? 遠慮しなくて」


 いやいや、遠慮するって。

 沙姫と沙夜先輩とは確かに知り合いなんだけど……よくよく考えてみると、面識が一、二回あっただけで仲がいいとは到底言えない。

 そんなんで晩飯を食べていくってのは気まずい。

 つーかそれより、食っていったら親と合うのは必須。それだけは確実に避けたい。


「やっぱり悪いからいいって」


 なので悪いが丁重に断る。正直、カレーは名残惜しいけど。


「でも咲月君の晩御飯、あれなんでしょ?」


 チラリと視線を曲げて、沙夜先輩はテーブルの上に置かれている袋を見る。

 そこには持ってあげた沙姫の袋と一緒に俺の晩飯が入った袋がある。

 沙姫のを置いた時に一緒に置いてしまったのだろう。袋の中からコンニチワ、とカップラーメンとんこつ味が顔を出している。


「あ」


 いやこれは保存用なんです、と言おうにも沙姫には晩飯だと言ってしまったから嘘はつけない。カップラーメンを見られたから、少し断りにくくなってしまった。

 どう――。


「そうですよ、咲月先輩。一人暮らしなんですから食べて行けばいいじゃないですか」


 ――しよう? と考えようとしたら沙姫が追い討ちをかけてきた。


「あら、そうなの? ならなおのこと食べていきなさいよ。一人だと大変でしょう?」


 前言撤回。少しじゃない、かなり断りにくくなった。

 ……はぁ、仕方ない。これはもう素直に言うしかないか。


「あの、確かに頂きたいって気持ちはあるんだけど……正直言うと、人ン家の親ってのが苦手で……」


 軽く苦笑いする。しかも異性の親となったら尚更。でもまぁ、人ン家の親が苦手ってのは俺だけに限らず人類共通だと思うけどな。


「あぁ、それなら大丈夫よ」

「……へ?」


 沙姫と沙夜先輩は隣にいるお互いを一度見て、軽い口調で話す。


「だって家は両親がいないんですもん」


 沙夜先輩に続き、沙姫が喋る。


「え? いない?」


 親がいる事が前提で沙姫の家に入った為、それは予想外過ぎる言葉だった。自分は言葉を発しながら少し固まってしまった。

 もしかして悪い事を聞いちまったかな……。


「ちゃんと生きているわよ。ただ二人共出かけてるのよ、出稼ぎみたいなものね」

「あぁ、そうなんですか」


 よかった、失礼な事を言ってしまったかと思ったよ。


「ん?」


 心の中で胸を撫で下ろしていると、さっきまで元気に喋っていた沙姫の表情が暗くなっているのに気付く。

 いつもの明るさは無く、何か思い詰めるような……。

 そんな表情で、沙姫は麦茶の入ったコップをただ見つめていた。


「だから、気にしないで食べて行きなさいって」


 沙姫が気になり、声を掛けようとしたら沙夜先輩に話し掛けられる。


「いやでも、それは……」


 一番気にしていた親がいないってのは助かったけど……それでもやはり、晩飯はちょっと悪い気がする。


「咲月先輩は一人暮らしだし、どうせ夕飯はカップラーメンなんですから断る理由なんてないじゃないですか」


 ぐっ……食べていきたくない一番の理由が解決した今、それを言われると本当に言い返せない。

 というか、沙姫は元に戻って普通に話してきた。さっきのは見間違い……か?


「それに、姉さんが咲月先輩に気を利かせてくれてるんですよ?」


 確かに、それを断るのも悪いとは思っているんだが……でもそれより、初めて来た家で晩飯を頂く方が悪い気がするんだよな。


「沙姫、無理言わないの。咲月君だって何か予定があるかもしれないでしょ?」


 予定なんてありません。部屋に帰って飯食って寝るだけです。


「ごめんね、咲月君。無理なら別に構わないから」


 沙夜先輩は自分が無理矢理俺を誘ったみたいに、申し訳無さそうに笑いながら話す。申し訳無いのは俺の方なのに。


「せっかく姉さんが誘ってくれたのに、勿体ないじゃん」


 頬を膨らませて姉である沙夜先輩に反論する沙姫。


「んー……」


 食べていくのも断るのも、どっちを選んでも罪悪感を感じるのが目に見えてる。

 口では帰る帰ると言っていた俺だが、麦茶を飲みながら心では迷っていた。が、そんな迷いを打ち壊す一言が放たれた。


「咲月先輩、さっきは私が折れたんですから、今度は咲月先輩が折れる番ですよ」


 これで折れた。心が。

 言い訳にするつもりではないが、沙姫にはさっき俺の勝手な言い分を聞き入れてくれたのに、俺が聞かないのもこれまた悪いと思った。

 なので、ここはご厚意に預かるとしよう。


「わかった、その通りだな」


 麦茶を飲み干して空になったコップをテーブルに置く。


「沙夜先輩、やっぱり頂いてもいいですかね?」

「全然構わないけど、咲月君は大丈夫なの? 予定とか」

「あぁ、全然大丈夫です。この後にある予定って言ったら帰って寝るだけですから」


 帰ってもやる事がないのを自虐ネタにして、ハハハッと笑う。


「ならやっと決まりね。沙姫、いつものは買ってきた?」

「うん、確か大きい袋の方に入れたと思ったけど」


 そう言ってテーブルの上に置いていた袋の中身を出していく沙姫。そして、その中身の一つを沙夜先輩に渡す。

 渡した物は缶詰めで、表紙には可愛らしいトマトのマークが描かれている。


「ト、トマトソース?」


 今も音を立てながら煮込まれている鍋からはカレーの匂いしかしない。そして、このタイミングで渡される缶詰め。となると、カレーに使うって事になる。


「これは家の隠し味なの。意外と合うのよ?」


 そう言って渡された缶詰めを一度テーブルに置く。そして、手首に付けていた髪止め用の輪ゴムを外して長い髪を束ねる。


「それじゃあ沙姫、もう少し時間が掛かるから咲月君を客間に連れていってあげて」


 髪を束ね終わった沙夜先輩は、近くの椅子の背もたれに掛けていたエプロンを取る。


「はーい」


 沙夜先輩に言われた事に返事をし、沙姫は自分と俺の空いたコップを洗い場に持っていく。


「じゃ咲月先輩、客間に案内します」


 と、廊下に出る戸を開ける。


「あ……ちょっと、いいかな?」


 エプロンの紐を結んでいる沙夜先輩と、廊下に出ようとしていた沙姫を止める。


「出来ればさ、料理が出来るまで道場を見せて欲しいんだけど」


 さっき廊下から覗いた時から、ちょっと気になっていた。

 客間に行っても何もしないで待ってるなら、その間に道場を見せてもらいたい。それに、道場が実家にもあるから懐かしいってのもある。


「別にいいですけど、道場なんか見ても暇ですよ?」


 ねぇ、と沙姫は同意を求めるように沙夜先輩を見る。


「別に咲月君がそれでいいなら構わないけど……じゃあ、客間じゃなくて道場にお願い」


 それに『はーい』と沙姫は返事をして、道場へ案内される。

 少し幅があり、普通と比べると広い廊下を沙姫の後ろを付いていく形で歩く。

 道場に繋がっている戸の前まで案内され、開いたままの戸から見える道場はやはり広い。


「はい、ここから入ってください」


 戸の方向に手を向ける。


「悪いな、変な事頼んで」

「別にいいですよ。でも、客間にならテレビぐらいあるのに道場の方がいいなんて変わってますね」


 まぁ、ね。否定は出来ない。暇を潰すのに道場ってのは可笑しな話だもんな。

 すると、沙姫は『あ……』と声を漏らした。


「もしかして、家に上がった時にここで立ち止まっていたのって……」

「あぁ、これが気になってさ」


 これ、と言った時に視線を道場に向ける。


「やっぱり珍しいですか? 道場って」

「いや、そういう訳じゃないんだけどな」


 視線を沙姫に戻して答える。道場を見て、実家と少し重なって懐かしく感じてしまった、とは恥かしくて言えない。


「ふーん。じゃ、ご飯が出来たら呼びに来ますから」


 そう残して沙姫は別の廊下を通って家の奥へと消えていった。

 ふぅ、と軽いため息。人の家とは言え、一人になった事で多少気が楽なった。やはり、学校とは別で人の家だと頭のどっかで気を使ってしまう。

 さて、と。道場へ繋がっている戸をくぐり、渡り廊下を通る。渡り廊下は学校のと似ていて、靴を脱げばすぐに中に入れるようになっている。

 渡り廊下は短く、ほんの数秒で道場の入り口に到着。静かに道場の中に上がる。

 ギ……。微かに床の軋む音がした。


 中は夕陽の光で照らされていたが、日が沈み始めたのか少し暗くなってきている。

 開けっ放しも何なので、入り口の戸を閉める。一度深呼吸をして二、三歩進む。

 道場の一番奥には、神棚が壁に掛ける形で綺麗に飾られている。

 腰に手を当て、首だけを左右に動かして道場を見渡す。道場というのはなぜか、神聖な雰囲気がある。そしてその場に座る。

 正座で座り、目を閉じて息を小さく吐いていく。精神を統一する、なんて大層なものじゃなく、静かに気を落ち着かせる。

 普通だったらこういう場合、正座ではなくて座禅を組むんだろうが俺は正座の方が慣れている。

 慣れていない座禅より、慣れている正座で。


 軽く握った拳は膝の上に置く。正座だけど、こうやって禅を組むのは久しぶりだ。

 一、二ヶ月間隔でたまに学校の屋上で一人の時にやっていたが、道場でやるなんて本格的なのは一年以上やっていない。

 こっちに来る前までの実家では、小さい頃から親父に言われて日課としてやっていた。

 越してきたばかりの時は部屋でやっていんだけど、バイトをするようになってからはやらなくなってしまった。

 こうして思い返してみれば、この街に来てから色々な事が起きている。


 SDC。

 連続行方不明事件。

 金髪の転校生。

 SDCと戸ヵ沢事件の関連性。

 ルールの変更。

 監視役と名乗る男。

 黒スーツの男。

 警察との協力。

 個技能力。


 そして、激変した先輩――――。



 考えてみると、ここ最近が特に事が起こり過ぎている気がする。何かが起こる前兆なのか……それとも、もう起きているのか。

 良くない予感がする。

 しかし、自分に出来る事は限られている。なら俺はそれをやるだけだ。

 願いを叶える事、先輩を助け出す事。それは変わらない。


 しかし、その二つを叶える為にはやらなくてはならない事がある。あの先輩を倒さなくてはならない。

 説得なんて通じる筈もない。殺してしまっては元も子もない。

 生かして捕える。それしかない。しかし、それが難しい。相手は俺を殺す気で来る。それをこっちは殺さずに倒さなくてはならない。

 向こうは本気でこっちは手加減をして勝てと言うんだ。難し過ぎる、今のままでは。


 白羽さんに言われた通り、万全の状態にしなければならないな。

 以前、SDCで相手にもならない雑魚に隠れていたのを見つかってしまった。

 つまり雰囲気を消すのも、辺りへの索敵も疎かになっていた。実家で毎日しごかれていた時なら、あんな相手に見つかる事なんて無かった筈。

 近い内にバイトもやめて無くなる。なら、丁度いい。空いた時間で鈍った身体を鍛え直すか。

 このままじゃ、あの先輩の相手は厳しい。以前の戦闘がその証拠。

 久々に……本気で調整をするか。


「ん……」


 ゆっくりと閉じていた瞼を開ける。夕陽の明かりは既に無くなり、道場の中は暗くなり始めていた。

 目を開けるとほぼ同時に、入り口の戸が開いた。


「咲月せんぱーい、ご飯出来ましたよぉ……わっ、真っ暗」


 ヒョコッと入り口から顔を出して、道場の中を覗く沙姫。全く電気を付けていない道場に驚いている。


「あれ? 咲月せんぱーい……いない?」

「いや、いる」


 暗い道場の中で影が一つ動き、外から入ってくる微かな光がその影を照らす。

 膝を立て、手をその上に乗せて立ち上がる。


「うわぁあ、ビックリしたぁ!」


 沙姫は少し悲鳴じみた声を上げてビクつく。


「なんでそんな驚くんだよ」

「そりゃ驚きますよ! こんな真っ暗の中、急に声を出されたら!」


 驚かされたせいか、声を高くして返してくる。もしかして沙姫って怖い物系が苦手なのか?


「いやだって、お前が呼んだんだろ」

「そ、それはそうですけど……でも真っ暗だなんて思わなかったんです!」


 沙姫と話しながら足を伸ばしたり屈伸をしたりする。

 足が久しぶりの正座で足が疲れたから、軽いストレッチを。すると左足からピリッと痛みがした。足が痺れてしまったようだ。


「ほら、咲月先輩。姉さんが待ってるんですから、早く行かないと!」

「あぁ、そうだった」


 晩飯が出来たんだっけ。俺の返事を聞く前に、先に家に戻る沙姫。

 驚かせたのが気に障ったのか、それとも早く晩飯が食べたいのか。ま、晩飯だろうな。

 いや、もしかしたらホラー系が苦手、なのかもしれない。機会があったらさり気なく聞いてみるか。からかうのにいいネタになる。


「……じゃなかった。飯だ、飯」


 ストレッチをやめて道場から出る。歩くとまだ左足から痛みとは言いにくい、妙な感覚が走る。痺れはまだ取れていないらしい。そんなに早く治らないか。

 歩けない程でもないし、ほっとけばその内治ってるだろ。

 沙姫に少し遅れて、沙夜先輩が待つ台所に向かう。渡り廊下から見える空は道場と違い、まだぼんやりと明るかった。

 台所へ続く廊下を渡り、台所の前に付くと、戸は開けられていた。沙姫が俺が来るのを知っていたから、自分が台所に入った時にそのままにしてくれていた。

 中に入ると、電灯の明かりが眩しく、キィンと目の奥が痛くなった。ついさっきまで真っ暗の中にいたんだ、当たり前だな。

 暗い所からいきなり明るい所に行ったら、誰でもなる。


「あ、咲月先輩来た」


 明るさに目を慣らせながら、さっき座った椅子の前まで移動する。沙姫は既に同じ椅子に座っていた。


「じゃあ咲月君、そこに座って」


 そう言いながら、沙夜先輩は手慣れた手付きで皿に炊きたてのご飯を盛っている。

 俺の目の前のテーブルの上にはスプーンとフォーク、小皿、コップが置かれていた。準備万端、出されたら後は食うだけって状態。


「はい、咲月君。不味かったら残しても構わないからね」


 最後にご飯の上にルーをかけ、完成したカレーが渡される。沙姫と沙夜先輩の分のカレーは、既に盛られていた。


「いえいえ、そんな事はないですよ」


 と言い切ってから、トマトソースの存在を思い出した。

 あ……もしかしたら、もしかしてがありえるかも知れない。

 いや、でも晩飯を誘うぐらいだ。自信があっての事だろう。そうだ、そうに決まってる。

 無理矢理根拠の無い理由で自分を安心させる。というか何失礼な事を言ってんだ、俺は。反省しろ。


「それじゃ、いただきまーす」

「いただきます」


 気付けば沙夜先輩は沙姫の隣の椅子に座り、二人揃って手を合わせている。

 それを見て、慌てて俺も手を合わせる。


「い、いただきます」


 スプーンを手に取り、いい匂いを香らせるカレーを見つめる。このまま動かずに見てるだけだと怪しまれる事は確実。

 意を決して、と言うのも重ねて失礼な話だが、スプーンでカレーを掬ってパクリ。一回、二回、三回。口に入れたカレーを何度も噛み、飲み込む。


「……うめぇ」


 物凄く美味い。なんだこれは。俺が過去に作ったカレーは何だったんだ? そう思ってしまう程に美味い。


「本当? よかった、口に合ってくれて」


 いやいや、これで不味いなんて言う奴なんていないって。一口、二口とカレーを口に突っ込む。


「咲月先輩、サラダ食べますよね?」


 カレーに無我夢中になっている所に沙姫が聞いてきた。


「ん、あぁ」


 不意に聞かれたので、自分の意志とは別に適当に答えてしまった。だけど野菜は嫌いじゃないし、サラダは食べたいから問題無し。

 沙姫は取りやすいように椅子から立ち、俺の小皿を取ってテーブルの中央に置かれた大きい皿に盛られたサラダを移す。


「はい、どうぞ」


 渡された小皿にはレタス、トマト、コーンに千切りされた玉葱のサラダが綺麗に盛られていた。

 今日、スーパーで買われた長ネギ君はいなかった。

 スプーンの隣に並んでいたフォークでサラダを食べる。口に入れた野菜は新鮮で、噛む度にシャキシャキと音がする。

 これもうめぇ。ドレッシングは何を使ってるんだろ? ドレッシングの塩っぱさと、コーンの甘味がまた良い具合になっている。

 いや本当、美味くて手が止まらない。あっと言う間にカレーが入っていた皿は空に。


「あら咲月君、おかわりは?」


 それに気付いた沙夜先輩が聞いてきた。

 一瞬、悪いかなぁ……なんて思うも、すぐにカレーの美味さを思い返して掻き消される。


「あ、すいません。じゃあお願いします」


 空になった皿を沙夜先輩に渡す。空腹の絶頂だった為、さすがに1杯だけでは満腹にはならなかった。


「うわぁ、やっぱり男の人って食べるの早いですねぇ……あ、姉さん。私もおかわり」


 俺の皿にご飯を盛り終わり、ルーをかけている沙夜先輩に沙姫は皿を突き出す。


「あんたも十分早いわよ……」


 そんな沙姫に、沙夜先輩は呆れた顔をする。おかわりをする沙姫と比べ、沙夜先輩はまだ半分ぐらいしか食べていない。


「はい、どうぞ」


 二杯目のカレーが渡された。どうも、と言って受け取って再び食べ始める。


「はい、咲月先輩。水です」


 いつの間に取ったのか、目の前にあったコップに水を注いで渡される。口にはカレーが入っていたので、『サンキュ』と目で礼を言う。

 二杯目にも関わらず、変わらないペースで食べる俺。と沙姫。

 やはり、この美味さを引き出しているのはトマトソースなんだろうか?

 それにカレーは家庭によって味が変わるって言うからな。あと作り方ってのもあるんだろうな。


 いやしかし……思ったんだけど、今のこの状況ってかなり良いんじゃ? だって、年頃の男が女性2人と飯を食ってるんだ。しかも女の子の家で。

 それに、沙姫と沙夜先輩って姉妹揃って美人だと思う。

 沙姫は明るくて活発な元気ッ娘。一緒にいたら楽しいだろうなって感じで、可愛い系。

 そして、沙夜先輩は気品があって大人びた女性。しっかりしていて人より物静かな感じで、こっちは綺麗系。


 対照的ではあるが、美人なのは変わりない。その二人と飯を食ってんだ、しかもカレーと言えど手作り。学校にファンの男子が居たら羨ましがるだろうな。

 ん? そういや、ウチの学校にファンクラブなんてあるのか?

 今度エドにでも聞いてみるか。学校で色んなモン調べてんだから分かるだろ。

 いや、どうだろ。SDCとまったく関係ないから知らなそうだな。なんて頭で考えながらも、手はしっかりとカレーを口に運ぶ。

 沙夜先輩が気を利かせてくれたのか、一杯目より量が多い気がする。とか思いながらもペロリと平らげる。

 最後に水を半分程飲んで終了。ごちそうさまでした。腹に手を当て、背もたれに寄り掛かる。


「咲月君、もういいの? おかわりは?」

「あ、いえ……腹いっぱいです、もう入りません」


 やろうと思えば今すぐにでもゲップを出せる。汚いからやんないけど。

 いやぁ、それにしても美味かった。これなら五月蝿かった腹の虫も満足しただろう。

 コップに残っている水を飲みながら休憩。

 気付けば、今使っているコップはさっき麦茶を出されたら時とは違うコップだった。柄は違うが、形は同じで気が付きにくかった。どこかでセットで売ってたのを買ったんだろうか。

 でも、俺だったら洗わずにもう一回使うだろうな。飯食う時にまた使うし……とか思って。

 これが男と女の違いってヤツか? いや、ただ単に俺が面倒臭がりなだけか。


「ごちそうさま、っと」


 少し遅れて沙姫も食べ終わる。

 沙夜先輩はおかわりをしていなかったので、俺と沙姫よりも早く食べ終わっていた。


「あ、食器はどこに?」


 食器を運ぼうと、椅子から立ち上がる。


「いいわよ、咲月君はゆっくりしてて。お客さんなんだから」


 そう言われて、食器を持っていかれる。


「沙姫、咲月君を客間にお願いね。後でお茶持っていくから」


 空いた皿が素早い手つきで重なっていく。カレーの皿、小皿、コップに分けられる。スプーンとフォークは、運びやすいようにカレーの皿の中にまとめて入れられる。


「じゃ咲月先輩、行きましょうか」


 沙姫に腕を掴まれて客間に連れていかれる。すると何故か、ほんのりと石鹸の香りがした。

 客間は玄関から一番近い部屋で、台所から廊下を挟んで隣の部屋だった。

 沙姫が障子の戸を開けて中に案内される。入るとその部屋は和室で、畳の匂いがしてきた。

 広さは大体十二畳ぐらいはありそうだ。テーブルは少し大きめで、冬にはこたつとしても使えそう。


「好きな所に座っちゃってください」


 そう言って沙姫は入り口から奥の位置に座る。

 俺は逆に入り口に近い所で沙姫と対面になる場所に座る。二人でテーブルを挟む形になった。

 壁に掛けられた時計を見ると、針は七時を過ぎを指してていた。


「咲月先輩、何か見たい番組はあります?」


 テーブルの上にあったリモコンでテレビの電源を入れ、チャンネルを回す。


「俺は別にこれといって」


 バイトでこの時間帯の番組は見れたり見れなかったりだからな。だから毎週欠かさず見ているっていう番組ない。


「うーん……じゃ、これでいっか」


 沙姫も見たい番組がなかったのか、適当に選んでリモコンを置く。テレビに映っている番組は、よくあるクイズ番組だった。

 いやしかし、あー……いいなぁ、畳は。寝っ転がったら気持ちいいだろうなぁ。

 でも、飯を腹いっぱい食った後じゃ寝ちまうだろうな。我慢だ。


「なぁ、沙姫?」

「はい?」


 ただテレビを見ているのもつまんないんで話し掛けると、頬杖をしてテレビを見ていた沙姫がこちらを見る。

 しかし、話し掛けたはいいものの何を話そうか……と考えていると、沙姫の首に掛けられている物が目に入る。


「……なんでバスタオル?」


 飯を食ってから真っ直ぐこの部屋に来たんだから、食事中も掛けてたって事だよな。今さら気付くなって感じだ。


「あぁ、ご飯前にお風呂に入ってたんですよ。髪がまだ乾いていなくて」


 そう言い、前髪をいじって笑う沙姫。

 あ、そうか。だからさっき石鹸の香りがしたのか。そういや服も変わってるな。

 上は黒いタンクトップに、下はジャージ。出掛けるような服装ではなく、部屋着ってヤツだろう。

 ただ、家に家族しかいないなら分かるけど、男の俺がいるのにその格好はどうかと思うんだが……。

 普通の服より露出の高いタンクトップだからか、妙に視線がそっちにいってしまう。

 ヘソまで出されちゃな、健全な男の子じゃしょうがない……いやいやダメだ。このままじゃ変に気にしてしまう。話題を変えよう。


「話は変わるけどよ、親が両方とも出稼ぎしてるって言ってたよな? って事は、二人でこの家に住んでるのか?」


 丁度良く、沙夜先輩が言っていたのを思い出して沙姫に聞いてみる。


「そうですよ。姉さんと私の二人だけです」


 髪の毛をいじるのをやめ、沙姫はそれに答える。

 沙夜先輩の話を聞いてなんとなく想像してはいたけど、やっぱりそうなのか。


「大変じゃないか? 二人だけで暮らすってのは」

「そうでもないですよ。それに、それを言ったら一人暮らしをしてる咲月先輩の方が大変じゃないですか」

「でもほら、俺はマンションだからいいけど……沙姫の家はこの広さだろ?」


 俺の部屋と比べたら何十倍だよ。しかも、道場に加えて庭まである。


「掃除とか大仕事じゃねぇか?」

「いえ、全然。ほとんどが使っていない部屋ですからね。だから、使ってる部屋以外の掃除はたまにやるぐらいでいいんですよ」


 あ、そうか。いくら家が広くても二人しかいないんだもんな。使う部屋も限られるか。


「台所はもちろん、客室のここは茶の間として使ってますから、こまめに綺麗にしてれば掃除も必要ないですし」


 なるほど、確かにそうだ。俺は使ったモンはそのままにしてたり、後回しにしたりしてるからな……それが理由で掃除してもすぐ汚くなんるんだな。


「それじゃ道場は? あそこもたまになのか?」

「いえ、道場は三日に一回は雑巾掛けをしてます。私と姉さんの二人でよく組み手などで使っているんですけど……やっぱり、あれだけ広いと埃も積もりやすくて」


 これは結構大変なんですよ、と苦笑する沙姫。


「あと廊下も同じぐらい箒で掃き掃除しますね、広くはなくても長いですから」


 いや、廊下としては十分広いと思うぞ。

 三人同時にすれ違っても余裕がありそうなくらいだからな。三人同時にすれ違うって言葉は変だが。


「それに掃除、洗濯、料理は曜日ごとに姉さんと交換してやってますから、意外と楽だったりします」


 この広さでも、俺と違って二人だもんなぁ。慣れってのもあるんだろうけど、やっぱり分けてやった方が捗るんだろう。


「あ? ちょっと待て。沙夜先輩と交換、って事は……」

「私も料理を作ったりしますよ。今日の当番は姉さんでしたけど」


 料理を作る……って沙姫が? 料理だけじゃなく掃除や洗濯も……?


「へぇ……」


 瞼を半開きにして、さも同情するような目付きで沙姫を見つめる。


「あ、その目はなんですか! その目は! 咲月先輩、信じてないんでしょう!?」


 そりゃあ、信じているか信じていないかで言ったら……信じていません。

 いやぁ、良い言い方をすれば元気っ娘だが……悪い言い方だとガサツそうに見える。そういうのは家事全般が苦手ってイメージがあるからな。


「いやまぁ、正直に言うと……うん、信じてねぇ」

「あっ、ひっどーい! それにまだその目で見るし!」


 目は半開きのまま変えず話を続ける。どうやら沙姫はこの半開きの目が気に入らないようだ。


「でも本当に沙姫は全部できるのよ?」


 突然後ろから声がして振り返る。すると、そこには湯飲みを乗せたお盆を持った沙夜先輩が立っていた。


「ちょっと姉さん聞いてよ! 咲月先輩ってば……」

「はいはい、わかってるから。だから今、本当だって言ってあげたでしょ。あんたの声、廊下まで聞こえるんだから」


 はぁ……と、沙夜先輩は半ば呆れ口調で話す。

 俺の後ろを通り、沙夜先輩は沙姫の隣まで移動する。

 持っていたお盆を一度テーブルの上に置き、乗っていた湯飲みを順に渡していく。


「はいどうぞ、咲月君」


 湯気が出ている湯飲みが目の前に置かれた。


「温かいお茶だけど、よかったかしら」

「あ、全然大丈夫です。ありがとうございます」


 置かれた湯飲みを取り、火傷をしないようにすする。思ったよりお茶は熱くなく、飲みやすかった。

 あ、緑茶だ。なんか落ち着くなぁ。


「ちょっと! 話が止まってますよ!」


 バンバンッ、とテーブルを強く叩く沙姫。お茶が零れないように手に持って地震対策。


「あー……料理の話だっけ?」

「そうです! 咲月先輩、まったく信じてないじゃないですか!」


 と言ってまたテーブルを叩く。


「信じたって。沙夜先輩が本当だって言うんなら信じるよ」


 流すように答えて、お茶をもう一口すする。


「ほら、咲月君も信じたって言ってるんだからもういいでしょ」


 沙夜先輩も同じく流すように沙姫をなだめる。沙姫にも湯飲みを渡し、畳の上に座る。


「うー……でも、姉さんが言ったからっていうのが気に入らない」


 拗ねるように沙姫は頬っぺたを膨らませる。


「沙姫が料理をねぇ……」


 湯飲みを片手に沙姫の作る料理を想像してみる。

 しかし……いや、やはりと言うべきか。頭に浮かぶのは俺が作るのと大差ないものだった。


「言っておきますけど、咲月先輩が思っているような料理じゃありませんからね?」


 考えていた事がバレたのか、言われてギクリとする。

 どっかで聞いた事があるような……いや、正しくは言ったようなセリフだ。意味合いはまったく逆だが。


「沙姫も私が作れない料理が作れたりするのよ」


 俺と沙姫の会話の雰囲気で内容を察したのか、沙夜先輩が話に入ってきた。


「え、マジで?」


 見た感じ沙夜先輩はなんでも作れそうなイメージだったんだけどな。カレーも滅茶苦茶美味かったし。


「だから、こう見えても沙姫も家庭科なんかも5なのよ」


 へぇー、意外だ。沙姫も、って事は沙夜先輩も家庭科は5なんだろう。そっちは意外でもなんでもなく予想通りだけど。

 だけど沙夜先輩。こう見えても、って……援護射撃してるのか貶しているのか分かりませんよ。

 しかし、本人である沙姫は『どうよ?』と言いたげに胸を張っている。つまり、沙夜先輩が言った事に気付いていない。

 ……ま、いいか。また騒がれるのも面倒だし。


「んで、沙姫にしか作れない料理って何なんだ?」


 普通に気になったので聞いてみる。


「中華です」


 沙姫は胸を張って、鼻高々に自信満々で答える。


「へぇー、それはまた凄い」


 沙姫が料理を作れるってのは予想外だったが、作れるのが前提で中華って聞くと妙に納得出来るな。

 あ、前提じゃなくて、ちゃんと作れるんだった。


「しかも、ギョウザやシュウマイなんか手作りなのよ」


 沙夜先輩もお茶をすすりながら会話に入る。


「手作り!? 自分で作れるんの!?」


 沙姫はふふん、と鼻息を漏らしている。

 すげぇ……俺が家でギョウザを食うとしたら、元々出来上がっている冷凍食品だそ。沙姫をかなり侮っていたな。


「作れるのはいいのよ。ただ、ただねぇ……」


 しかし、何故か沙夜先輩の顔の表情は曇っている。そして、しまいには畳に落ちてしまいそうな程の勢いでガックリと肩を落とす。


「ど、どうかしたんですか?」


 そのあまりの落としっぷりに、理由を聞かずにはいられなかった。


「……ツイのよ」

「え?」


 小さい声で、しかもごもっていてよく聞き取れない。


「キツイのよ、アレは」


 さっきよりは大きな声で、今度は聞こえた。

 キツイ? 一体何がどうなって中華がキツイんだ?

 よく見ると、沙夜先輩の肩は震えている。


「何よ、姉さんは美味しくないって言いたいの!?」


 自分の得意なのを話しているのに、困った顔をされるのが嫌なんだろう。多少、喧嘩腰で沙姫は沙夜先輩に突っ掛かる。


「違うわよッ!」


 いきなり沙夜先輩は声を出すと同時に、突き抜けてしまいそうな程強くテーブルを叩く。湯飲みが一瞬だけ空を飛んだ。


「わっ!」


 ついさっきまで顔を伏せていた沙夜先輩が急に大声を出し、少しとは言え喧嘩腰だった沙姫はビクリと驚く。


「おぉ!?」


 突然だったもんで当然、俺も驚く。

 知り合ってからそんなに間もない俺が言うのはどうかと思うんだけど……。

 沙夜先輩の性格で、叫ぶなんてのは珍しいんじゃないか? 初めて会った時も、落ち着いた感じがしたし。


「不味くないわ、むしろ美味しいわよ! ただねぇ!」


 沙夜先輩は声のトーンをそのままで話す。もしかしたら、またテーブルを叩くのではないかと思い、自分の湯飲みは手に持って再び地震対策。


「朝ご飯からラーメンや麻婆豆腐はないでしょ!」


 ……はい?


「だって美味しいじゃん! 姉さんも好きでしょ!」

「美味しいとか、好きか嫌いかじゃないわよ! 朝から油っぽいものを出さないでって言っているのよ!」


 俺の目の前で兄弟喧嘩をし始める2人。いや、手は出していないから兄弟口喧嘩か。

 俺はお茶を飲みながら傍観者を決め込む。一人っ子だから兄弟喧嘩が珍しかった。正しくは兄弟じゃなくて姉妹だけど。


「あんなのを出されると、朝から胃が重いのよ!」


 って事は沙夜先輩、文句は言ってもしっかり食べてんのね。


「それは姉さんだけでしょ! 私はそんなのなった事ないもん!」


 いやぁ、それはお前だけだと思うぞ。朝から麻婆豆腐はかなりレベルが高いって。なんのレベルなのかは置いといて。

 なんて二人の言葉に対して心の中で自分の意見を答える。


「咲月先輩はどう思いますかッ!?」


 すると沙姫がいきなり俺に話を振ってきた。傍観者を決め込んでから、ものの数十秒でそれは終わった。


「お、俺……?」


 二人の視線は俺に注がれる。目付きが物凄く怖いんですけど?

 うーん、曖昧な答えを言うと火に油を注ぎそうだし……変にどっち付かずの答えだと、矛先を俺に変えてきそうだ。

 ここは正直に自分が思っている事を言った方がいい。だって二人ともスゲェ怖ェんだもん。


「あ、朝から麻婆豆腐はキツイ……かな」


 二人を交互に見るも、沙姫を見るのも沙夜先輩を見るのも出来ず、視線が泳ぐ。


「ハハ、ハ……」


 なので、視線を泳がせながら笑って誤魔化す。しかし、笑っている顔が引きつっているのが自分でも分かる。


「ほら、咲月君だってこう言ってるじゃない」


 キッ、と鋭い目付きで見ていた沙夜先輩の視線は沙姫へと戻る。それと、沙夜先輩の声は元の大きさも戻っていた。


 俺の意見が沙夜先輩と同じだったからか、声には余裕がある。


「むぅー……」


 対する沙姫は、また膨れっ面になっている。2対1だと勝てないと思ったのか、静かになった。俺を睨んでいるような気がするが、気のせいだろう。そうだと思いたい。


「……わかったぁ。朝から中華料理はやめる」


 ちぇ、なんて言いながら渋々折れる。第3者を巻き込んだ姉妹戦争は決着を迎えたようだ。


「助かったわ、咲月君。ありがとう」


 革命に成功した沙夜先輩は沙姫に反して笑顔だ。それだけ嫌だったんだな。


「いや、別にそんな……」


 麻婆豆腐はキツイけど、ラーメンなら朝からでもイケるってのは……言わなくて正解だったな。言っていたら延長戦になる所だった。


「……ふーんだ」


 いじけたように声を出して、沙姫が立ち上がる。


「どこ行くのよ?」

「だ、い、ど、こ、ろ。お煎餅持ってくる」


 少し投げ遣りな感じで沙夜先輩に答える沙姫。本当にいじけたのか?

 廊下に出ようと、入り口の近くに座っている俺の後ろを沙姫が通る。とその時……。


「……裏切り者」


 小さく背中に向かって呟かれた。


「ぐっ」


 この言葉で、少しだけ罪悪感が湧き出てきた……って、元から仲間になったつもりも裏切ったつもりも無いんですけど。

 そもそも姉妹喧嘩に関係のない俺を巻き込むな。傍から見ればどっちもどっちって感じなんだから。


「でも、そんなに嫌なもんなんですかね?」


 沙姫が台所に行っている間に、ちょいと話を聞いてみる。別にたまに出されるぐらいなら大目に見てもいいと思うけど。


「咲月君、あなたが思っている以上にアレは酷いのよ」

「はぁ……」


 今までのを振り返っているのか、笑顔だった沙夜先輩の顔は十数分前の困り顔になっている。


「一週間よ、一週間! 一週間に三度、ローテーションで料理が変わって朝に出されるのよ!?」


 沙夜先輩は肘をテーブルに付き、おでこを手に乗せてうなだるている。

 ……前言撤回。どっちもどっちじゃねェ。沙姫、確実にお前が悪い。

 そりゃ沙夜先輩が文句を言いたくなるのも無理ないわな。むしろ今まで耐えていたのが凄いくらいだ。


「ま、まぁ良かったじゃないですか! それが無くなったんだから!」

「そ、そうね」


 うなだれていた頭を起こし、髪を手でかき上げて耳にかける。


「でも沙姫の事だから、肉まんなんかもご飯として出しそうだな……」


 以前に、学校で肉まんを貰った時の事を思い出し、冗談混じりに言ってみる。この時期に一体どこで買ったのか不思議でならない。


「あぁ……そうだ、それもあったんだったわ……」


 ガクリと再びテンションが下がる沙夜先輩。せっかく耳にかけた髪が落ちる。


「まだ何かあるんすか?」


 あまりの落胆ぶりに聞かずにはいられなかった。


「一週間のローテとは別で、肉まんは必ず週一で出るのよ……」

「……」


 あまりに可哀想過ぎて声が出なかった。それと同時に、沙夜先輩に対して尊敬の気持ちが出てきた。

 沙姫、偏食にも程があるぞ。


「姉さーん、買い置きのお煎餅無くなっちゃったよー……って、どうかしたんですか?」


 廊下から声を出しながら、煎餅を取りに行った沙姫が戻ってきた。


「姉は大変だな、って話をしていたんだよ」


 沙夜先輩に同情と尊敬の意を込めて沙姫に答える。

 沙姫はその言葉の意味か分からず、『はぁ』と一言だけ言って元いた場所に戻る。


「姉さん、お煎餅これで最後だよ」


 沙姫は座りながらテーブルに持ってきた容器を置く。

 容器は直径三十センチ程で木で出来ており、中にはもちろん煎餅が入っていた。


「あら、じゃあ今度買っておかないといけないわね。気付いていれば、今日頼んだのに」


 沙夜が横から手を出して、容器から一枚煎餅を取る。


「咲月先輩も、はい」


 そして沙姫に容器ごと持って差し出される。沙夜先輩はともかく、カレーを二杯も食ったのに沙姫はよく晩飯のすぐ後に食う気になるな。

 俺はあれで腹一杯なんだが。まさか、あれで沙姫は腹八分って事はないよな……?


「んじゃ、一枚貰うわ」


 でもまぁ、極限まで腹が苦しい訳でもないし、煎餅ぐらいなら全然入る。なので、差し出された容器から煎餅を一枚拝借。

 煎餅はあまり大きくなく、野球ボールぐらいの大きさだった。見た目は普通の醤油煎餅で、定番の四角い海苔も付いている。よくある普通の煎餅だ。

 一口噛ると元々あまり大きくない為、一度に半分近く食べてしまった。そして、噛むとバリボリと煎餅特有の音と、甘塩っぱさが口に広がる。


「ん、あれ?」

「あ、気付きました? 少し辛くありませんでした?」


 沙姫が言う通り、ピリッと舌に刺激がした。確かに辛いのだけれど、唐辛子などのような辛味ではなく、爽やか感のある辛味だ。


「このお煎餅ね、風味を出す為に海苔の下にワサビが塗ってあるのよ」


 へぇ、煎餅にワサビがねぇ。意外にも結構合うもんだな。この辛さが鼻を通り抜ける感じがまた……。


「ちなみにこれ、わびさび煎餅って言うんですよ」


 わびさびって……わびはワサビと掛けてるのは分かるが、さびは何だ?

 残りの半分を口に入れ、お茶をすする。


「そういえば話は変わるんだけど、咲月君ってたまにタメ口になるわよね」


 沙夜先輩は頬杖を立てて新たな話題を振ってきた。


「え、マジですか……?」


 やっべぇ、またやっちまったか。意識はしているんだけど、必ずどっかでボロが出るんだよなぁ。


「すんません。俺、敬語ってなんか苦手で……」

「あ、私は別に構わないのよ?」


 パタパタと胸の前で両手を振る。


「ただほら、やっぱりそういうのに五月蝿い人もいるから。学校じゃ先輩後輩って立場もあるしね」


 あぁ、沙夜先輩は俺に気を使ってくれたのか。


「あー、居ますね。そういう奴」


 確かに、そういうのに喧しくてウザイ先輩とかいたもんな、中学で。しかし、悲しい事に俺は今の学校で知り合いの先輩はほぼいない。

 だけど沙夜先輩が俺を思って言ってくれたんだ、気には止めておこう。

 つーか、あれ? 考えてみたら今日、白羽さんと話していた時もほとんどタメ口だったような……。

 もしかしたら俺、自分で思っている以上に敬語が苦手なのかもしれないな。心の中でも反省しながら、ぬるくなってきたお茶一口飲む。


「あ、沙姫も敬語とか面倒だったらタメ口でも全然いいぞ?」


 沙夜先輩の隣でバリバリとわびさび煎餅を食っている沙姫。自分は先輩に向かってタメ口をしているのに、後輩に対しては敬語使えってのは無いからな。


「私ですか? んー……いえ、私は今のままでいいです」


 頬っぺたに人差し指を付けて、沙姫は少しだけ考えて返答する。


「ん、そうか?」

「はい。なんかもう、この話し方に慣れちゃいましたし、話しやすいです」


 まぁ、本人がそういうならいいか。話し方なんて無理矢理変えさせるもんじゃないしな。

 それに俺もタメ口でいいとか言ったが、今の喋り方が定着してしまってタメ口で話す沙姫が頭に思い浮かばない。

 ふと何気なくテレビを見ると、クイズ番組はもう終わる間際でテロップが流れ始めていた。

 やっていたクイズ番組は特番だったのか、始まったのが七時だったのに、時計の針は九時になるちょっと前を差している。


「じゃ、そろそろ俺は帰らないと」


 気付かない内に大分話していた。まさか、もう二時間も経っていたとは。さすがにこれ以上お邪魔する訳にはいかないだろ。


「あ……そうね、もう九時になるものね」


 時計を見て、沙夜先輩もこんなに時間が経っているとは思っていなかったのか、少しだけ表情が驚いていた。


「そういや鞄……」


 どこにやったっけ? 今ごろ手元に無い事に気付いた。


「あ、台所の椅子に置きっぱなしだったわね。待ってて、今持ってくるから」


 沙夜先輩は湯飲みを置いて、スッと立ち上がって廊下へ出ていく。


「そうだ、咲月先輩。せっかくなんで携帯電話の番号とアドレス教えてくださいよ」


 煎餅を片手に、思い付いたかの様に言い出してきた。


「ん? あぁ、別にいいぞ」


 何がせっかくなのかは分からないが、教えて困るものでもない。なので、ズボンの左ポケットから携帯電話を取り出す。


「って、あ……そうだ。私の携帯、部屋に置きっぱだった」


 沙姫は履いているジャージのポケットが付いている部分を、何度か叩いて何も入っていないのに気付く。


「なら、なんか書くモンとペンとか無いか?」


 沙姫はわたわたと千手観音みたいに手を動かしている。


「あぁ、そか。ありますよ」


 持っていた食べ掛けの煎餅を口に咥え、沙姫の後ろにあった戸棚からメモ用紙とボールペンを取り出した。


「ふぁい」


 それを沙姫から渡される。物を食べながら喋るのを行儀悪いと言うが、物を口にくわえながらの方が行儀が悪いと思うぞ。

 沙姫は気付いていないが、煎餅のカスが零れ落ちている。

 しかし、それを教えずに受け取ったメモ用紙に番号とアドレスを書く。


「わ、すごい。自分の番号とアドレス覚えるんだ」


 携帯を見ないで書いていく様に、沙姫は驚いていた。


「いや……覚えてるだろ、普通」

「私は覚えられないですよぉ、アドレスとか長いじゃないですか」


 あー、アドレスは確かに長いな。覚えるのには少し大変かも。


「っておい。長いって言っても自分で決めたアドレスだろうが」


 だったら簡単に覚えられるだろ。自分の好きなスペルを入れたり、覚えやすい様にしたりしてんだから。

 沙姫も本当に俺と同じ学校なのか? 入試倍率もそれなりに高い進学校なんだけどな……。


「ほらよ」


 メモ用紙に書き終わり、ペンと一緒に返す。


「えっと、ディープクエ……ブ?」


 紙に書かれたアドレスのスペルを読もうとするも、沙姫は読めずにハテナマークを出している。


「ああ、それはディープキューブって読むんだ。そのアーティストが好きでさ」


 だからアドレスの一部に入れている。スペルも覚えやすいし。

 沙姫はへぇ、とまじまじとを見つめている。


「咲月君、はい鞄」


 少しして台所から俺の鞄を持って沙夜先輩が戻ってきた。


「あ、どうも」

「それと、はいこれ」


 立ち上がって沙夜先輩から、鞄とカップラーメンの入った袋を受け取る。

 すると、カップラーメンの袋とは別にビニール袋に包まれた四角い容器が渡された。


「なんです、これ?」


 自分が持っていた覚えなど当然ある訳もなく、渡された物が何なのかまったく分からない。


「カレー。咲月君、結構気に入ってたみたいだったから。余りだけど、良かったら食べて」

「マ、マジで!」


 ニッコリと笑っている沙夜先輩の笑顔がまるで女神のようだった。と言うのは言い過ぎたか。しかし、それ位嬉しかった。


「さっき加勢してくれたしね」


 沙姫には聞こえないように話す沙夜先輩。沙夜先輩の笑顔は可愛いと言うより綺麗で、見ていたら何故か恥ずかしくなってしまった。


「そ、それじゃ有り難く貰います」


 照れを隠しながら鞄に容器の入った袋を入れる。

 大丈夫だとは思うが、一応鞄の中で横になったりして零れないように気を付けないと。


「今日はごちそうさまでした」


 カレーのお土産まで貰って……本当にごちそうさまです。わびさび煎餅も美味かったし。名前の意図はよく分からなかったが。


「沙姫、咲月君を入り口まで送ってきてあげて。ついでに門の扉、お願いね」

「はーい」


 沙夜先輩に言われ、立ち上がる沙姫。

 思えば、沙姫って沙夜先輩の言う事を文句言わずにちゃんと聞いているよな。朝から中華事件は別として。

 やっぱ、姉としての威厳があるのかな。怒ったら結構怖そうだもんな、沙夜先輩。

 客室から出て、玄関で靴を履いて外に出る。


「お邪魔しました、っと」


 靴の爪先を地面に叩き、靴に足をフィットさせる。当たり前だが、外は陽が落ちて真っ暗だった。


「私の携帯番号、後でメールで送りますから」

「おぉ、わかった。来たら登録しておく」


 家の玄関から門までの数メートルの距離を歩きながら話をする。来た時と同じく、門をくぐって水無月家の敷地から出る。


「それじゃ咲月先輩、気を付けて帰ってくださいね」


 沙姫は開けておいた門の扉が勝手に閉まらないようにしておく為の、少し大きめな石を足で動かす。

 動かすと言うより、足の裏で押して転がす形で移動させている。


「扉、手伝おうか?」


 あまり門は大きくは無いと言っても、やはり通常の扉と比較すれば門の扉は大きくて重そうだ。


「いえ、大丈夫ですよ」


 しかし、沙姫はすんなりと断った。


「重そうに見えますけど、コツがあるんですよ。ホラ」


 すると、沙姫は軽々と動かして片方の扉を閉める。いらない心配だったようだ。


「みたいだな。んじゃ、帰るわ」

「はい、お休みなさい」


 ブラブラと手を振り、鞄の中を気にしながら帰る。

 来た時とは違い、暗くなった道を歩いていく。来る時は夕暮れ色で明るかったのに、今は暗くて別の道に見えてしまう。

 とんだ寄り道をしてしまったな。

 ただ荷物を持ってあげるだけのつもりだったのに、晩飯を頂いてしまった。


「っと、こっちか」


 十字路に出て、来た時の道を思い出して右に曲がる。俺が借りているマンションは、駅から見て右方面。で、沙姫の家は逆の左方面。

 なので、こっちの方にはほとんど来たことがなく、道を間違えたら迷う可能性がある。

 だから分かれ道に出会う度に思い返す。しかも、沙姫の家からの帰り方が分からない為、一旦スーパーまで戻らないといけない。

 面倒臭いが、帰り方が分からないんじゃしょうがない。普段は駅前か商店街にしか行かないからな。そんな俺の行動範囲の狭さが、今になって仇となった。

 沙姫の家に行く時は二人で話ながらだったせいか二十分ちょい掛かったのに、帰りは十分程度で商店街の入り口に着いた。

 やっぱり一人で黙々と歩くほうが速いんだんな、当たり前だけど。

 入り口から見える商店街は、時間が時間なだけに店は全て閉まっている。夕方に来た時のような賑わいなどある筈もなく、昼と夜との差が寂しく感じさせる。


「……って、よく考えてみたら別にスーパーまで行かなくてもいいんじゃねェか」


 マンションまでの帰り方が分かる所まで行けばいいだけ。だったら商店街から帰り方がわかるのに、いちいち商店街の中にあるスーパーにまで行く必要はない。

 商店街まで来たんだから、後は自分の部屋に帰るだけだ。

 入ろうとした商店街の入り口に背中を向けてマンションのある方向へ歩きだす。


 いくら夜だと言っても、まだ九時を過ぎたあたり。深夜ではないのだから当然、人が歩く姿は見かける。

 駅前なら飲み屋もあるからまだ賑やかだと思う。しかし、ここまで来るのにすれ違った人は二、三人。それはまだ納得出来る。

 だけど駅前ではないにしろ、駅前の近くにあるこの商店街の人のいなさは異常なんじゃないだろうか。

 今、この位置から人影がまったく見当たらない。


 きっと、この街に住んでいる殆んどの人が恐怖しているんだろう。『連続行方不明事件』に。

 現在、俺が知っている情報では十五人が既に行方不明となっている。だけど、この情報はあくまで一般人が知っている程度のもの。

 警察が公式に発表した人数をニュースで報道されただけだ。実際はもっといなくなっている。

 もしかしたら、自分も行方不明になってしまうんじゃないか……そう怖れて、夜は出歩かないようにしているんだろう。

 そんな時に、夜の仕事をしている人は大変だろうな。コンビニやファミレスとか。前者は俺が当てはまるけど。かといって、生活するには仕事を休むわけにもいかないからな。


 赤信号に捕まり、横断歩道の一歩手前で止まる。人影は見当たらないものの、車は頻繁に目の前を通っていく。

 なかなか色が変わらない信号を待っていると、左ポケットから振動が伝わってきた。犯人は言わなくても分かる。携帯電話だった。

 ポケットから取り出して、携帯を開くとメールが来ていた。携帯の画面の明かりが眩しく、少し目を凝らしてしまう。

 受信フォルダを開くと、知らないアドレスからのメールだった。しかし、未登録の人からメールが来る心当たりがあるのでメールを読む。

 案の定、沙姫からだった。


『こんばんは、沙姫です。もう家に着きましたか?

 咲月先輩の登録したのでメールしました。

 姉さんにも咲月先輩の教えたので、私の電話番号と一緒に姉さんの番号とアドレスも送ります。

 なので咲月先輩もちゃんと登録してくださいよ?

 今日は荷物を持ってくれて助かりました』


 なんて内容で、可愛らしい絵文字を所々に使っている。文章の下に、確かに書いてある通り沙姫の電話番号と沙夜先輩の番号とアドレスが貼ってあった。

 すると、貼ってあった番号の下にまだ文章があるのに気付く。


『PS.姉さん、学校じゃ美人って有名で人気が凄いんです。

 だから、大切にしなきゃダメですよ?』


 そして文の最後にニヤついた絵文字。番号とアドレスをどう大切しろってんだ、まったく。

 信号も青になり、横断歩道を渡りながら二人の番号とアドレスを登録する。登録した事を適当に書いたメールを沙姫に返信して、携帯をポケットに入れる。

 夜の街並みに淋しさを感じながら、自分の部屋へと歩いて帰る。




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