No.71 銀藍
「このまま落ちろよ……!」
しかし、まだ力は緩めず。油断せず。
奴の手は、まだ拳を握っている。意識を留めている。俺は知っている。
こいつの厄介さを、しぶとさを。往生際の悪さを、知っている。
「か、は……っは、ぁ……」
「な、に?」
「はっは、は……は、はは……!」
ぐ、ぐぐぐ、ぐぐ。
短く小さく、弱く脆く。絶え絶えだった呼吸は声を変え。
酸素を欲する抗いの渇声は一変し、途切れ途切れの渇笑へと。
「くっは、ははっは、は、はは……」
奴の背筋……大円筋や広背筋が張り、固くなっていくのを肌で感じる。
背中から被さり、首を絞めていた俺の体が、段々と。徐々に。横たわっていた状態から直立へと体勢が変わって。
気付けばコウは両足で立ち上がり、おんぶされているような格好になっていた。
「こ、いつ……!」
「っぱよぉ、こうじゃ……ねぇ、と、なぁ……?」
再度、俺の腕を掴む、奴の手には。
さっきとは全く違う、掴まれた腕の骨が軋み、肉が潰れそうな馬鹿力が復活していて。
組み絞めている腕の力を強めるも、そんなのは虚しく。奴の首との間に作られていく隙間。
「まだこんだけの力が……!」
「オチて終わるなんてよぉ……そんな決着はつまんねぇからなぁ!」
ついに裸絞をしていた腕が振りほどかれてしまう。
そして、その掴まれた腕をそのまま。一本背負いの如く、前に引っ張り出される両腕。
視界が急回転したと思った瞬間、背中に硬い何かをぶつけられた。
「ぐっふ、ぁ!」
背中を襲う激痛と、回転した視界が天井で止まったのを見て気付く。
硬い何かと思っていたのは床で、ぶつけられたんじゃなく、自分からぶつかったんだと。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
頭を項垂らせて前屈みになり、息を切らすコウ。
額には玉のような汗を浮かび、相当の無理をしての行動だったのは見て明らかだった。
しかし、奴にもダメージが現れ、限界も見えてきたと喜んでいる場合でも無い。
背中を強打して広がる痛みに加え、横隔膜が一時的に麻痺して呼吸がままならない現状。
身体を起こそうと四つん這いになるも、呼吸が出来なくてなかなか動けない。
「はぁ、はぁ。危なかったぜ、今のぁよ……なぁ?」
「くっ……!」
「っとぉ、させるかよ」
フラフラと覚束無い足取りでコウが近付き、見下ろしながら睨めつけ。
俺が手を伸ばした先にあった椅子を蹴り飛ばした。
「ッラァ!」
「がッ!」
そして、ぶっきらぼうに蹴られる横っ腹。四つん這いが仰向けにされ、痛みから蹴られた箇所を手で抑える。
背中に続いて脇腹にも痛みが追加され、暴れまわる痛み。
痛みが暴れる背中と脇腹。呼吸がまだ回復せず、息苦しくて出る声は掠れてしまう。
……さらに。
「首絞めってぇのはよぉ」
「ッ!?」
悶絶している最中、腹に感じた重みに目を開くと。馬乗りになったコウが眼前に映された。
抵抗しようと右手を動かそうとするも、奴の左足で踏みつけられて自由を奪われてしまう。
「こうやンだよッ!」
「っか、は……!」
言って、俺の首へと伸ばされた両腕。
息が出来ていない所へ追い打ちを掛けるかのように、奴の指が首の肉にめり込んでいく。
「あ、がっ……っ、はっ!」
容赦無く、手加減無く、情けも無く。
ぎちぎちと軋む、首の骨。きりきりと絞られる、喉の気道。
「また物投げて逃げるつもりだったか? 何度も同じ事ばっかじゃあなぁ、馬鹿でも学習するぜ」
「が、っふ、ぐ……ぅ!」
コウは余裕を見せつけ、握り絞める肉の感触を楽しみ、優位なこの状況を味わう。
興奮する感情が堪えきれずに歪ませる口から覗かせる、白い犬歯。
奴は俺の腹に乗り、利き腕である右腕は左足で踏まれてまともに動かせない。
両足は自由だが、この体勢じゃ力を込めて蹴る事も出来ない。
「すぐには殺さねぇ。ただ、てめぇが目ぇ覚めた時には両足ぐれぇは無くなってっけどなぁ!」
だから、笑う。奴は笑う。この絶対的有利な状態を楽しみ、浸り、噛み締め。
結果――――。
「そう、やって……舌舐り、して……る、時点で……」
「あァン?」
――――溺れた。
「学習してねぇんだよッ!」
◇ ◇ ◇
沙姫と沙夜先輩を連れて、離れる直前。
俺の隣に来て、あいつは言った。
「匕、用心に越した事は無いからな」
「……あぁ」
そう。そう言って、あいつは、エドは。
自分の懐から取り出した物を、俺に渡していた。
◇ ◇ ◇
パァン――――ッ!
ベルトに挟んでいたソレを引き抜き、そして、同時に。
その引き金に掛けた指へ力を入れるのは簡単だった。
「づ、っあ……!?」
型式も何も知らない、銀色に光る銃器。
ただでさえ反撃されるとは思っていなかった上に、予想していなかった攻撃手段。
油断していた奴にとってこの攻撃は、僅かながらにも思考を固まらせる。
その隙を突き、再度奴の右手を狙い撃つ。痛みと衝撃から、加えて余裕を見せ付けていた油断から。
首を握り絞めていた手の力が、緩んだ。
「て、ん……」
「退けってんだ!」
「がぐぁっ!」
コウは予想外だった銃へと一瞬だけ目をやり、数コンマ遅れてやってきた怒りを顕にした。
そして、その目を再び俺へと向けた瞬間に、殴りつけるはグリップの底。
弾はゴム弾でも銃は本物。鉄製で重さもあれば強度も石よりも硬い。
マウントポジションを取られて力を入らない状態でも、それで殴れば十分な攻撃になる。
まともに喰らったコウは身体をよろめかせ、俺の右腕を踏んでいた足も軽くなり、ようやく解放された利き腕。
「重いん……だよッ!」
重心が崩れているを利用して、奴の服を掴んで横に引っ張る。
元々よろけていたのもあり、奴は簡単に床に倒れた。
「っは、はぁ! ぐ……ぅ!」
立ち上がって呼吸を大きくすると、腹回りに走る痛みに目を細める。
数メートル離れた壁のの隅に転がっている。これだけ離れているなら、コウにすぐ拾われて禁器を使われる事は無い。
なら、奴が禁器を拾ってしまう前に……!
「……オイ」
「ッ!? 足を……!」
がくり、と。動かそうとした足が動かず、よろめく上半身。いつの間にかコウに左足のズボンを掴まれていた。
まるで大岩に足を挟まれたように、左足が動かない。
「面白ぇ事してくれんなぁ!」
「うわっ!」
掴まれた足を思い切り引っ張られ、お返しと言わんばかりに再び床に倒される。
そして、目に入ったのは迫ってくる奴の足。
「ドラァ!」
「ぐうぅぅ!」
サッカーボールを蹴り飛ばすが如く、俺の顔面を狙っての蹴り。
咄嗟に両腕を交差させて防いだが衝撃は消せず。倒れていた俺はカーリングのストーンばりに滑らされ、教室のドアを巻き込んだ。
廊下に放り出され、軽くひしゃげたドアと一緒に冷たいタイルの上に転がる。
「ってぇ……ガードしてもこの威力かよ」
両腕から多少の痺れを感じつつも、片膝を付いて身体を起こす。
追撃が来る事を警戒していたが、コウは追っては来ていなかった。
「まさか、てめぇまで銃を持ってるたぁ思わなかったぜ」
ドアを失った教室の出入口越しに見えるコウの動きは遅く、鈍く。
床に落ちている禁器を靴底で転がし、その勢いで足の甲に乗せ、軽く蹴り上げる。
宙に浮いた禁器を掴み取り、コウはゆっくりとこっちへと向いた。
「上手く俺から禁器を手放させたァつもりだったみてェだが、残念だったなァ」
コウは顎を上げ、頭を微かに斜めにして。
不敵な笑みを浮かべて、禁器の先で床のタイルを小突く。
「もっとも、スキルがあるテメェにゃ禁器を持つ事すら出来ねェがな」
そう、それだ。禁器が厄介な理由のもう一つある。
禁器は破壊に特化していて、例外無く万物を破壊する。確かにそれは厄介で、一番警戒すべき点だろう。
だが、それとは別で厄介なのが“所持者以外はまともに扱えない”という事だ。
禁器が使える条件が“スキルを持たない”というもの。それ以外の者が使おうとすれば、禁器は異常なまでの重さになって、使うどころか持ち上げる事すら叶わない。
「そろそろ限界かァ!? 咲月よォォォ!」
「こ、の……!」
禁器を構え、駛走するコウ。
腹部と背中に今だ残る痛みを無視して、右手に持った銃を正面へと向ける。
「だろうと思ったぜェ!」
「なっ!?」
「ハッ!」
構えていた禁器を貫通させるは、残っていたもう一枚の教室のドア。
力任せに溝から引き剥がしたドアは、まるで西洋の巨大な盾のようにコウの姿を隠す。
「珍しく頭を使いやがって!」
これじゃ銃で迎撃しようにも、奴の体が隠れていては狙いようが無い。
だが、こっちから奴が見えないのなら奴もこっちを見えていない。だったら、左右に避けて銃で牽制しつつ距離を取る。
とにかく禁器が届く範囲には入らないようにしなければ。
「ほぉら……」
両足を踏ん張らせ、まだ息苦しさが残る中。
ダメージが大きい右腕側に避けるべきだと思考が答えを出した時だった。
迫ってくるドアの向こうから、奴の声が聞こえてきたと思った刹那。
「よっとァ!」
「な、にっ!?」
突如、まだ数メートル先にあった筈のドアが猛スピードで飛んできていた。
突然の飛来物に、原因を考える時間などある訳もない。思うより先に体が反応し、直撃を避けるべく左方向に飛ぶ。
飛んだ際に一瞬だけ見えたコウの体勢から理解した。同時に禁器をっ引っこ抜くと同時に、ストンプキックでドアを押し蹴ってたのだと。
なんとか当たる寸前に躱す事が出来たが、受身を取ろうにも体勢が悪く不格好に床へ着地した。
「っつ、ぁ……」
着地した際の衝撃で、再び痛みが起きだした腹部と背部。
吐き出した息は熱いようで、冷たいよう。痛みと疲労からか、まるで体中が錆びた金具のみたくぎしぎしと軋む。
「休む暇ァなんざ無ぇぜェ!」
「や、っべぇ……!」
絶好のチャンスを見逃さんと、突風の如く疾走するコウの姿。
牽制しようと銃を向けるも、ガードした時の痺れがまだ残って腕は小さく震えてしまう。
立ち上がりながら狙いを定めて撃ってみせるも、弾は掠りもせず。虚しく無駄弾を消費してしまうだけ。
「下手な鉄砲は撃っても当たりゃしねェな!」
そして、次に双眸が映したのは。
周りの壁や窓を巻き込みながら、大きく振りかぶる禁器と。
「はぁぁぁぁぁぁぁ、だぁぁっ!」
――――視界の外から伸び出る、一本の棒だった。
「がっぐぁ! なん、だァ!?」
完全な意識外からの攻撃に、コウは脇腹に与えられた衝撃に逆らう事は出来る筈も無く。
横に数歩分だけふらつき、状況の理解が追いつかないコウに生まれた意識の切れ間。
その僅かな間へ追撃を仕掛け出る女性は、淡く光る銀髪を靡かせ。
手にしたモップを手足のように自在に操り、眼前の標的へと攻め穿つ。
「ふっ! はっ! せやぁぁぁぁ!」
足を薙ぎ、頬を払い、胸を突く。
反撃させる間も、息つく間も無い。流れるような動きから繰り出される華麗な連撃。
足を狙って体勢を崩し、顔へと繋げて視界を外し、最後に全体重を乗せた突きが敵を吹っ飛ばす。
そして、その敢然と立ち構える後ろ姿は、見間違える筈が無い。
「沙夜……先輩ッ!?」
腰まで伸びた長い銀髪に、親しみのある声。
思い掛け無いタイミングで現れたその人の名前を、思わず声を大きくして口にした。
「咲月君、大丈夫っ!?」
「なん、で……」
身体を半身にして、モップは水平に構えたまま。
吹っ飛ばして倒れているコウへの警戒を弱めず、沙夜先輩が心配そうに声を掛けてきた。
「なんで戻ってきたんだっ!? あれだけ危険だって言っ……」
「出来る訳ないじゃないっ!」
「ッ!?」
「咲月君とエド君は命を張って、危険を冒して、心を削りながらも戦っている! 明星君と仲が良かった咲月君が、先頭に立って戦っているのよ!?」
視線の先では、コウが顎を摩りながら立ち上がる。
雑魚が邪魔ァしやがって。そう言ったのが微かに聞こえた。
「一番辛い筈の人が、一番苦しい戦いをしているのに!」
「っせェンだよ、クソアマ! 今度はあの世でオネンネさせてやっからよォ!」
邪魔された苛立ちと、攻撃された怒りから。コウは青筋を立て、眉間に集中する皺の束。
鬼々とした表情を露に、ストレスの原因となった人物へと駆ける姿は獣の如く。
しかし、怒気と殺気を放つ猛獣に、沙夜先輩は臆する様子を微塵も見せず。
むしろ自ら双脚を動かして立ち向かって行き――――。
「自分だけ逃げて、隠れて、戦わないで怯えてるなんて……」
――――叫んだ。
「そんな情けない人間になるつもりは無いものっ!」
コウの禁器に対し、沙夜先輩は学校の掃除で使われるただのモップ。驚異の差は言葉にしなくても明らかだろう。
けどそれは、扱う武器だけを見ればの話であって。扱う“人”を見れば、話は変わる。
証拠に、考えもなくひたすら暴力を振り撒くだけのコウに対して、沙夜先輩は無駄のない流水に動き。
コウが禁器を振るうよりも先に、確実に。その右腕へとモップを突き刺し、その行動を起こされる前に挙動を潰した。
「だから戦うわ! “私達”も!」
そして、反回転させて突き出すはモップの尻。
鋭利ではないにしろ、直径数センチの棒でも局部にダメージを与えるのには十分で。
コウの右手首に棒先がめり込み、電流が走ったような痺れる痛みに奥歯を噛み締める。
「い、っづ……!」
「はいっ!」
痺れから右手の力が緩んでしまった瞬間。
沙夜先輩はモップを縦に回転させて振るい、コウの顎を下から搗ち上げた。
続けて、腹部にモップの頭を押し突いたと同時に。
「沙姫ッ!」
「まっかせて!」
沙夜先輩の呼び声に応え、現れるはもう一人の乱入者。
藍色の髪を揺らし、健脚を披露して。気付けばコウの背後に張り付くは、固く握られた両の拳。
コウが背中から感じ取った違和感に振り返る間も与えず。
「せあぁぁぁぁぁぁぁ!」
気迫が籠った一声と共に放たれる、双拳の技。
両足を開いて腰を落とし、踏み出す足と打ち込む腕を連動させて。
「ぐごあっ!」
首裏、背中、腰。正中線に撃ち込まれる三連打。
防ぎようもない背後からの攻撃に、コウは背中を仰け反らせて膝を突く。
「姉さん!」
「わかってる!」
沙姫は後ろから左手でコウの肩を押さえ、右手は右前腕を掴んで後ろへと捻り上げる。
関節技を入れられたコウの右腕は無防備になり、そこへ沙夜先輩が追撃を放つ。
「ッ、てェ!」
右手の甲に打ち込まれた一撃に、コウは堪らず顔を顰めて。
関節技で力を入れられない状態だったのに加え、さらに長物による薙ぎ払いの叩打。
驚異の打たれ強さを持つコウでも、今までのダメージが蓄積していたのも重なり耐える事は叶わず。
高い金属音を廊下に響かせ、禁器を床に落とした。
「やった……!」
「沙姫、もういいわよ!」
「りょーかい!」
禁器が手放されたのを確認して、言葉を発しながら壁際に移動する沙夜先輩。
沙姫も関節技を決めていた両手を離し、半歩だけ後ろに下がる。
そして、同じく後退すると思えば。
「こん、ガキィ!」
「はぁぁぁぁ……」
一歩。沙姫は右足を一歩だけ、前へと踏み出す。
正面ではなく、左斜めに。時計で言う十一時の方向へ。
地面を踏ん張る足から始まり、足首から膝、股関節、腰。踏み込んだ力はバネになった全身で増幅されて。
踏み込み、捻り、加速し、増幅した力を一箇所に集中させて放たれるその技は。
「ふんッ!」
まるで巨大な岩と化した沙姫の渾身の一撃。
鉄球が直撃したと錯覚してしまう程の強力な衝撃が、コウの背面にぶち込まれた。
「かっ――」
苦痛を表す短い悲鳴が吐き出されるも。
声をかき消す速さで、コウは廊下の端まで一気に弾き飛ばされた。
「沙姫、お前も来たのかよ!」
「当然です! 私達だけ逃げたら、明日のご飯が美味しくないですもん!」
こっちへと振り返り、沙姫は俺の所へと歩み寄って来た。
そして、少し悲しげな表情を浮かべ、眉を僅かに中央に寄せながら。
「それにもう、事終えてから悔いるのは絶対にゴメンですから!」
一緒に過ごした少女を思い出しながら、あの時の気持ちを頭に過ぎって。
でも、その瞳には強い意思を確かに感じる。俺と同じ意思を、決意を。
二人はその目の奥に、確固たる想いを宿していた。




