No.56 味方の見方
白羽さんとの組手を終えて、事務所に戻ってきたのが三十分前。
草っ原の上だったとは言え、何度も地面に転がされて服も肌も土だらけの草だらけ。
なので、汗を流すのも含めてシャワーを浴びてきた。
「ふぅ」
バスタオルで濡れた頭を拭きながら、ベッドに腰掛ける。
腕の所々が擦り傷でシャワーの時に染みたが、まぁ放っておいて大丈夫だろ。
別に血が出ている訳でもないし、深雪さんの所に絆創膏を貰いに行くまでもない。
部屋に戻ってくる前に給湯室に寄って、冷蔵庫から缶ジュースを取って来た。
飲み口を開けるとプシュッと炭酸が抜ける小気味良い音がして、一気に煽って喉の渇きを潤す。
「っかー」
半分ほど飲んで缶から口を離し、大きく息を吐く。身体を動かした後の水分ほど美味いものはない。
スポーツをした後に炭酸系のジュースを飲むと太るとか聞いたことがあるが、まぁ気にしない。
それに屁理屈を言うなら俺がさっきまでやってたのはスポーツじゃなくて組手だし。本気の殴り合いだからセーフ。
もっとも、殴り合いって言うか一方的にやられっぱなしだけど。
「さてと、これから何すっかな。天気もいいし、布団でも干すか」
もう一口ジュースを飲んで、部屋の窓から覗ける青い空を眺める。
白羽さんとの組手も終わって、午後の予定も真っ白。出掛ける予定も出掛けないで部屋で何かする予定も、何にも無い。
本日も三十度を超える真夏日。雨も降る予報も出ていないし、最近干していなかった布団を干すには絶好の日和だ。
俺は今も白羽さんの事務所で寝泊りしていて、部屋で使っている物は自分で洗ったり干したり、掃除をしている。
なら、真っ白な予定を無理矢理に埋めようと考えた結果、思い浮かんだのが布団干しだった。
「本当なら、もう事務所に居る必要は無いんだけどなぁ……」
ぽつりと呟き、テーブルの上に畳まれた黒いリボンを見る。
俺がこの事務所に寝泊りしていたのはモユが居たからだったが、そのモユは……もう居ない。
白羽さん達にはこのまま部屋を使っていいと言われて、あれから自宅には帰らずに使わせてもらっている。
白羽さんとの組手があるし、毎日電車を使って自宅から事務所まで通うのも金が掛かる。なので、お言葉に甘えてもう少しお世話になっていた。
事務所は自炊しなきゃならないけど、それは自宅でも同じだし。水道光熱費が掛からない分、こっちの方が節約にもなる。
……って理由は付けれるけど、やっぱり心の何処かでは――――。
「名残惜しいと感じてんのかな……」
短い間だったけど、モユと一緒に暮らしていた日々が。何気無く過ごしていた時間が。アイスをあげていた毎日が。色んな事をした思い出が。
沢山詰まっているこの場所を……離れてしまうのが寂しくて、適当な理由を作って居座っているだけなんじゃないかと、自分で自分の心を詮索してしまう。
モユの死は受け止めて、今はもう前を見ている。けどやっぱり、思い出の場所から離れるのは辛いし、切ない。
形として残るモユとの思い出の物は殆んど無くて、残っているのがお下がりで貰った服と黒いリボンだけ。
それもあって一層、共に過ごした場所が大切に思えてしまう。
「っと、ダメだダメだ! 変に考え込むとナーバスになっちまう」
暗くなりそうだった気分を、缶ジュースと一緒に飲み込む。
どんなに考えたって、後悔は無くなる事は無い。ああすれば良かった、こうすれば良かった。必ずそんな風に思ってしまう。
考えるのはどうすれば良かったじゃなく、これからどうするか。月並みな言葉だが、それが必要なんだ。
SDCで最後まで勝ち残る事、勝ち残って願いを叶える事、先輩を救う事。その為には、俺が強くなくちゃいけない。強くならなきゃいけない。
そして、俺が今すべき事は……。
「布団干す前に、昼飯を食うか」
腹が減っては戦は出来ぬ。時間も昼時になっていて、俺の腹も空腹を訴えてきている。
今日の昼飯も野菜炒め。モユと住み始めてからほぼ毎日食べていた野菜炒め。それがまだ俺のメインディッシュとして採用されている。
まさか野菜炒めがモユとの思い出の一つになろうとは誰が思っていただろうか。俺は全く思ってなかった。
「昼飯がまだだったら深雪さんの分も作るか」
まだ少し濡れていた髪を最後に一回、ぶっきらに拭いてタオルをベッドの上に投げる。あとで布団と一緒にこのタオルも干すか。
と、ベッドから立ち上がったところで、テーブルの上にあった携帯電話の音楽が鳴り出した。
取って画面を見てみると、着信相手は沙姫からだった。
「沙姫から電話? ……もしもし?」
『あ、出た出た。もしもーし』
電話に出ると、沙姫の声が聞こえていた。
よく言えば明るい。悪く言えば能天気。そんな声。
『もしかして寝てました?』
「起きてたよ。お前じゃねぇんだから夏休みだからって昼まで寝ねぇって」
『失礼ですね。いくら私でも十時には起きますよ!』
いやいや、十時起きでも十分遅いから。それもうおやつの時間ですから。
沙姫がだらしない夏休みを送っていて、沙夜先輩はストレスが溜まっているんではなかろうか。
「んで、何の用だ?」
『咲月先輩、今日の午後って予定ありますか?』
「午後? いや、これといって予定は無いけど」
『ホントですか!? じゃあちょっと私に付き合ってくれません?』
「……まぁ、別にいいけど」
布団を干すつもりでいたけど、それは明日でもいいか。
今週一杯はずっと天気が良いってニュースで言ってたし。
「付き合うのは良いけど、何をするんだ? 買い物か?」
『いえ、買い物じゃなくて組手ですよ、組手。私が咲月先輩に頼むと言ったらそれしかないじゃないですか』
「……へ? 組手?」
『そうですよ、組手です』
まさか組手だとは思っていなく、少し間の抜けた声で返してしまった。
よく沙姫とは組手をしてる。確かに、ちょっと前だったら俺も組手の誘いだと予想もしていただろう。
だけど、今は前と状況が変わってしまった。数日前……沙姫と沙夜先輩に頼んで、そして決意した事。
モユは生き返らせない。SDCでは各々の願いを叶える為に戦うと、最後に残った時は、お互い敵同士だと。
「いや、俺と組手なんかしていいのか?」
『え? なんでですか?』
「なんでって、前に話したじゃねぇか。SDCでお互いに残ったら、手加減無しで戦うって」
『ええ、言いましたねぇ』
「って事は、俺とお前は敵同士って事なんだぞ? 俺としては身体を鍛えられるから有り難いけど、敵に塩を送るようなもんだぞ?」
『んー、確かに最後に残ったら咲月先輩とは本気で戦いますよ。けど、そうなる前までは敵じゃないって事じゃないですか』
「は……いや、まぁ、そうだけど……」
『じゃあ別にいいじゃないですか』
あっけらかんと、沙姫は電話先で問題無いと返してきた。
SDCで最後に残ったなら全力で戦うと宣言した日から。俺はもう、二人とは会う事も話す事もないと思っていた。
なのに沙姫は別に関係無いと言う。そう、あっけらかんと。さっきも言った、よく言えば明るい。悪く言えば能天気。そんな声で。
だけど、その声が今は凄く心地良くて、気が抜けて。
「……っく、くくっ、ははははっ」
『さ、咲月先輩……? いきなり笑ってどうしたんですか……?』
沙姫と沙夜先輩と本気で戦うと宣言して、覚悟も固まっている。
でもどこかで、俺は必要以上に気負い過ぎていたのかも知れない。沙姫と沙夜先輩と戦う事を。
そんな自分の知らない内に張っていた気が緩んだのか、気付けば湧き出る笑いを声で出していた。
『私、なんか変な事言いましたか?』
「いや、っくく、なんでもねぇ」
電話の向こうで怪訝そうにしている沙姫に、まだ収まらない笑いを堪えながら返す。
確かに沙姫の言う通りだ。SDCで本気で戦うと言ったからって、何もお互いが敵になって決別しなきゃならない訳じゃないんだ。
俺が笑ったのはきっと、二人と仲違いをせずに済んだ事が嬉しかったのかもしれない。
『ちょ、なんか気になるんですけど!』
「気にすんな。お前は凄ぇなって思っただけだ」
『へ? 凄いって私がですか? なんでまた?』
「だから、気にすんなって。俺が勝手に笑ってるんだよ」
『むー、なーんか引っかかるんですけど』
まだ納得出来ていない沙姫。電話で顔は見えないけど、おそらく頬を膨れさせているのが想像出来る。
人ってのは誰かと争う時は誰しも心に余裕が無くなる。敵対する相手には、特に。
そういう場合は大概、敵か味方かの二別に考えてしまう。SDCのように一人だけしか願いが叶わないケースなんか、自分以外は敵だと考えるのが普通だ。
だけど沙姫は、俺がいずれ戦う相手だとしても、それが“競う相手”であり“敵”で無い事を理解している。
それを素でやっている沙姫は本当に凄いと思うと同時に、やっぱり俺はまだまだなんだと再確認させられた。
「あーっと、組手に付き合って欲しいんだろ? 俺で良かったらいくらでも付き合うぞ」
『やった! 助かります、咲月先輩! 他に頼める人が居なくって……』
「まぁ、沙姫の友達で格闘技を習ってる奴は居ないだろうからなぁ」
『そうなんですよぉ……だから咲月先輩にしかいなくて』
「沙夜先輩とやんねぇのか?」
『あー、姉さんは今機嫌が悪いからちょっと……』
「どうせ、お前がだらしない生活してて沙夜先輩が怒ってんだろ」
『うぇ!? なんで分かるんですかっ!?』
「沙夜先輩が機嫌損ねる理由なんてそれしか考えられねぇだろうが」
『いえいえ咲月先輩、姉さんだって他の事で怒ったりしますよ?』
「例えばどんな事でだよ?」
沙姫はこう言ってるけど、俺はお前以外の理由で沙夜先輩が怒っている所を見た事無い。
普段から物腰が静かな沙夜先輩が怒る理由あるとしたら、余程の事なんだろうけど。
『例えば……そうですね、野球中継で見たかったドラマの放送時間がズレた時とか』
あ、思ってた以上にショボい理由だった。
『昨日なんてアレですよ、食器も洗い終わってお風呂も済ませて、アイスを食べながら好きなドラマを観ようと思ったら三十分遅延した時も怒ってましたし』
「そんなんで怒るなんて沙夜先輩の意外な一面だわ」
『待ってる間にアイス二個も食べてましたし』
いやまぁ、やる事やってあとは楽しみの時間って思ったら延長だった。ってのはちょっとイラっと来るかもしんない。
もし俺が日課のランニングを終えてシャワーを浴び、よっしゃ寝よう! って時にエドに邪魔されたらキレるもん。
まぁこの場合は人補正が入ってムカつき度が倍プッシュされてるけど。
「話は戻すけど、組手は何時に行けばいい?」
『咲月先輩が都合良い時間でいいですよ』
「んー、じゃ二時頃に着くように行くわ」
『はい、わかりました。あ、もちろん夕飯は食べて行きますよね?』
「ああ、ご馳走してくれるってなら喜んで食ってくよ」
『あはは、それじゃ姉さんに伝えておきますね』
「おう。じゃ二時にな」
『はーい、お待ちしてまーす』
通話が切れて、待受画面に戻る携帯電話。
組手だけでなく、夕飯に沙夜先輩の料理が食べれる事が確定した。夕飯は何が食べれるのか、期待で胸が膨らむ。
「いよっし、組手でへばらない様に飯食うか」
携帯電話を閉じてテーブルに起き、部屋から出る。
沙夜先輩が作る夕飯の為に昼飯を抜くって手も有りだが、さすがに空腹じゃ沙姫と組手はやれないだろう。
なので、しっかり飯を食って、しっかり組手して、それでしっかり腹を減らそう。
調理出来るキッチンがある給湯室。そこに向かう途中、広間で仕事をしている深雪さんを見付けた。
なんだか空気が不穏で、少し不機嫌そう。大きなテーブルに沢山の書類が散らばっている。
その中の一枚を手に取り、深雪さんは据わった目で書類と睨めっこしていた。
「あ、深雪さん、丁度良かった」
「ん? あ、あぁ、あら匕君。丁度良かったってなんか用?」
深雪さんは俺に気付くなり、書類を見られないようにと慌ててまとめ始めた。
俺を除いてここに住んでいる人は全員警察だからな。一般人の俺には見せられない物も当然あるんだろう。
「午後はちょっと出掛けてきます。沙姫に組手しないかって言われて」
「ん、わかったわ。今日も暑いから、運動するなら水分補給はしっかりとね」
「はい。あぁ、あとあっちで夕飯食べて来るから、戻ってくるのは九時過ぎになると思うんで」
「えー、いいなぁ。私も沙姫ちゃんの中華料理食べたい……」
「今日は沙夜先輩が作るって言ってたから、中華では無いと思うけど」
「沙夜ちゃんの料理もいいわねぇ。前に作ってもらった鯖の味噌煮、美味しかったなぁ」
深雪さんは頬杖しながら口元を緩め、涎を垂らしている。前に食べた時の味を思い出しているんだろう。
あの二人の料理は本当に美味いからな。
「大して美味くない俺の料理で良かったら、深雪さんの分の昼飯も作るけど?」
「食べるー!」
「じゃ、十分くらいしたら持ってくるんで、テーブルの上を片付けといて」
大して美味くないって所を否定されなかった事に多少の悲しさを感じながら、給湯室に足を向ける。
ま、沙姫や沙夜先輩の料理と比べられたら月とスッポンだからしょうがないけどさ。
それに本日も変わらず、例に漏れす。昼飯のメニューも野菜炒め。
「夕飯、楽しみだな……」
無意識にそう呟いてしまうくらいに。
今から作って食べる自分の野菜炒めよりも、沙夜先輩の料理が楽しみだった。




