No.54 しんどー
「楽しみにしているよ」
白羽さんは涼しげな表情で笑みを浮かべ、深く被っていたハットの鍔と少し上げた。
相変わらず真夏の炎天下の下で黒スーツ姿でネクタイをしっかり締めているのに、よくまぁ涼しげにいられるよ。
俺が一方的にやられたとはいえ、一応組手をしたんだけどな……それなのに一滴も汗を掻いていないってのはどうなんてんだか。
「君が眠っている間に買ってきた。飲むといい」
言って白羽さんから投げ渡されたのは、スポーツドリンクのペットボトル。外側には水滴が付いていて冷えていた。
「運動に水分補給は大事だからね。こう暑い日だと尚更だ」
自分の分も買ってきていたらしく、白羽さんは手にした飲み物の容器の飲み口を開けた。パキュッ、という音をさせて。
俺もペットボトルのキャップを開けて、口に含む。甘さを含んだ水が口の中に流れ、食道に冷たい感触が通っていく。
「……」
「うん? なにかな?」
「……いや」
飲み物を口にしている白羽さんを見ていたら、白羽さんは俺の視線に気付いて缶から唇を離した。
そう。“缶”から、だ。これだけでもう解るだろう。
白羽さんが飲み物を買ってきた、という時点で予想は出来ていたけども。やっぱり予想通りだった。
「……あぁ、そういう事か」
何かに気付いたと僅かに顎を上げ、白羽さんは少し申し訳無さそうにして。
「咲月君もコーヒーの方が良かったね」
そんな、俺が微塵にも思ってもいない事を言ってきた。
「いや、スポーツドリンクで十分ありがたい」
「そうかい? 私のをじっと見ていたからね。コーヒーが飲みたかったのかと思ったよ」
「さすがに身体を動かした後にコーヒーは飲む気になれぇよ」
俺と比べれば運動量はかなり少なかったとはいえ、組手の後にコーヒーを飲める白羽さんには関心してしまう。
「それにそのコーヒー、ホットなんだろ?」
「うん。やはりホットが一番美味しい」
涼しい顔で、そして平然と。このクソ暑い真夏の真昼間に、晴れた空の下。黒スーツで身を纏いネクタイを緩めてもいない。
こんな状況状態で缶コーヒーを、しかもホットで飲んでいるなんて……ここまでくるとちょっとした狂気を感じてしまう。
「さて、私はそろそろ事務所に戻るが……君はどうするかな、咲月君?」
左腕の裾を少し上げ、腕時計の針を確認する白羽さん。
組手に付き合ってくれる約束の一時間を迎えてんだろう。
「手を貸すかい?」
未だに立ち上がれず後ろにある木に背中を倒している俺へ、白羽さんは空いた右手を差し出してきた。
それを一瞥して、俺は強がって笑って見せる。所々に走る身体の痛みを耐えてながら。
「いらねぇよ。俺はもう少し休んでから戻る」
「そうかい?」
「あぁ、明日も頼むよ」
「明日も恐らく同じ時間になると思う、今日と同様に前もって連絡を入れる。では先に戻るとするよ」
強がる俺を見てクスリと笑った後、白羽さんは長い黒髪を靡かせながら背を向け、事務所へ戻っていった。
ザァァ、と周りの木々がざわめき、風が吹く。
汗で濡れた前髪が揺れて、火照った身体には心地良い。もう一口だけペットボトルの中身を飲む。
「っつー……」
身体のあちこちが痛む。痣の他にも擦り傷も多数あり、僅かに顔を歪める。
今日は風呂に入るのが大変そうだと思いながら、ペットボトルのキャップを閉める。
こっぴどくやられた。過剰表現でも何でもなく、本当に手も足も出なかった。
これだけ強さに差があるのに、白羽さんを本気にさせるまで強くなれるかは怪しいもんだ。いや、怪しいどころか、そんな未来が想像できない。
それ程に、差が離れている。そりゃもう、むしろ清々しくて笑っちゃう位に。
それでも、あの人は俺に期待してくれた。その期待に応えると、俺も答えた。
願いを叶える為に。約束を守る為に。先輩を、助ける為に。
痛む身体を動かして、右手を強く握る。
「しっかし、叶わねぇな」
作った拳を解き、力を抜く。
白羽さんとの組手で痣や擦り傷を負ったし、身体のあちこちが痛む。
けど、今こそ疲労やダメージでまともに動けない状態ではあるが、小さい頃にしこたまクソ親父にしごかれていたから感覚で解る。
この殆どのダメージは明日には抜けている。擦り傷も血は出ていないし、痣も跡が残る程でもない。
本当に白羽さんは、本気で手加減していたんだな。適度にダメージを与えて学習させ、適度な攻防で経験させる。
更には明日以降も組手をやる事を忘れず、一日で抜ける程度のダメージに抑える。
こっちは一発当てようとするのに必死だったのに、白羽さんは俺の事を考慮しながら組手をしていた訳だ。
実力の他に精神面でも差は大きかったみたいで。
「はぁ」
なんか、やっぱ白羽さんに本気を出させるの無理なんじゃないかと思えてきた……。
思わず溜め息一つ。寄り掛かっている木に頭も預け、空を見上げる。
木の枝葉が揺れて、木漏れ日が肌を照らす。
「あー……しんどー」




