No.44 欠けた月 弐
* * *
――――やめろ。
黒が広がり、月も浮かばず雨降る中。暗闇に染まるその場所。見覚えのある、この場所。
周りを囲むようにある森林。開けた広場。真ん中にある社。地面には雨で水溜まりが作られ、傘も差さずにずぶ濡れで立ち竦む自分。
――――やめろ。
雨が冷たくて、服が濡れて寒くて、体が凍える。
そんな俺を、にやりと。タバコを吸い、紫煙を吐き出し、唇を三日月形に歪めて笑う。黒だらけの中、異様に目立つ三つ編みにされた金髪。
空気を入れ込み、赤みを帯びるタバコの先端。その度、タバコを吸う男の輪郭が現れる。
憎くて、憎くて、憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて。憎くてしょうがない男。あいつを殺した、テイル。
そいつは短くなったタバコを地面に落とし、靴底で火を消す。一歩、二歩、三歩。ゆっくりと足を動かし、こちらに歩み寄ってくる。
おもむろに右手を腰の裏にやり、大きく広げたその手には。指に挟まれた、四本のナイフ。
暗闇の筈なのに、そのナイフは不気味に光を放つ。
気に障る笑みを浮かばせ、テイルは近付く。
――――やめろ。
『お前は結局、何も出来へんのや。なーんにも』
手首の関節を鳴らしながら、苛立つ声で奴は喋る。笑って、楽しんで、面白そうに。
長い前髪で目は隠れ、背中まである三つ編みは近付く毎に小さく揺れる。隠れた目で、奴は正面。俺が立つ方を見て笑う、笑う。
けどそれは、確かに正面を見ていても、正面に俺が立っていても。奴の視線は俺を見ていない。ナイフを向ける相手が、俺ではない。
――――やめろ。
必死に叫ぶ。走り出して、殴り掛かって、止めようと。
しかし、身体は動かない。ぴくりとも、一切動かない。声すら全く、出てくれない。
『今もただ見とるだけで、動こうともせぇへん』
ぴたりと、テイルは止まった。
そこは俺の目の前ではなく、何も無い、真っ暗な空間の前。何も無い、誰も居ない筈なのに。酷い恐怖感と焦燥感に駆られる。
何が起こるか、俺は知っている。何をされるか、俺は解っている。“誰が死ぬ”か、理解ってしまってる。
だから叫ぶ。止めようと、助けようと、守ろうと。
だが、身体は動かず、声も出せず。ただ人形のように立ち尽くし、眺めているしか出来ない。
あの時と同じ。あの日と同じ。何も出来ない、何もしてやれない。
テイルはナイフを持つ右手を、上半身を捻り大きく振りかぶる。筋肉の塊のような太い腕を、可能な限りしならせ。
――――やめろ!
『ほな、ばいばい。ってか』
思いっ切り、力の限り。豪腕を、指の間から伸び出るナイフの刃先を。上から下へと。斜めに、そして一気に。
ブォン、という野太い風切り音をさせて、テイルは何かを――――誰かを切った。
腕を振るった勢いで中に浮いていた三つ編みが、テイルの肩にはらりと落ちる。
それと同時。俺の頬に、何かが付いた。生温かい、水のような何か。
確かめようにも身体は動かせず、手で頬を触れる事が出来ない。
赤黒い液体が流れ、足元には血溜まり。真っ黒な空間ではいやに目立つ赤色。黒を侵食するように赤は広がり、生温かい嫌な感触が足の裏にまとわり付く。
そして、どちゃん、と。何かが倒れた。血溜まりの上に、見えない何かが。
見えなかったそれは、薄らと、ぼんやりと。少しずつ姿を、形を、色を現す。見覚えのある、懐かしい、橙色の髪をした少女。
かつての――――彼女。
血溜まりの中に倒れ、ぴくりとも動かず肌は血に濡れて。あの日の、あの時の、あの場所のように。
『お前はそんまま、何もせぇへんで不貞腐れたまま死んでまえ』
倒れ横たわる凛の亡骸を跨ぎ、テイルがこっちに近付く。
ヴ、ヴヴッ――――。
テイルの身体にノイズが走り、姿が揺らぐ。映りの悪いテレビのように。酷くブレて、消えてしまいそうな位に砂嵐が入る。
そして。
『ガキ一匹どころか惚れた女ァすら守れねぇ奴なンてなぁ! 生きる価値なんざねェんだよ!』
ノイズが晴れて現れたのは、見知った姿をした白髪の別人。
仲が良かった先輩と同じ姿形をした、別人。先輩の中に入れられた別人格。
先輩本人であり別人で、別人であり本人。
『ハッははハァ! テメェは誰も何も! 他人も自分も! 誰一人何一つ! 助けれやしねぇンだよ! 守れる訳ゃねェンだよ!』
口を大きく開け、下卑に笑い。馬鹿にするように、見下すように。
『そりャァそうだ! 出来る事すらやろうとしねェで不貞腐れて、イジケてりゃぁなァ!』
黙れ、五月蝿い、喋るな、消えろ。お前に何が解る。何が理解出来る。
俺だって守りたかった、助けたかった! 頑張ったんだよ!
なのに……周りは俺に沢山隠し事をして、モユも自分の身体の事を黙っていた。大事事を言わないで、重要な事を教えないで。
それで何とかしろってのが無理だろうが!
『はん、しまいにゃ自分を正当化して言い訳かいな。さらにイジケて周りに八つ当たり。気ぃ遣うてくとる周りもいい迷惑やで、ほんま』
コウの姿が水面のように揺れたと思えば、またテイルが現れる。呆れたと肩を上下させながら溜め息を吐いて。
五月蝿い、五月蝿い。五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い。
『そうやって生きもせず、死にもせず。中途半端にイジケ不貞腐れたまんまやらな――――』
常人の倍はある太い腕を伸ばし、俺の首を掴み、そして握る。
相変わらず身体は動ない。抗も出来ずされるがまま。気道を絞められ、呼吸が出来ない。
『そのまま、逝ね』
俺の首を掴むテイルの力が、徐々に強くなる。
指がめり込み、爪が食い込み。ひゅっ、と口から空気が漏れる。
『現に今も、テメェ自身すら死にそうなのに、動こうともしねェ』
また、ゆらり。テイルからコウに姿が変わる。
片手だったのを両手にし、俺を身体ごと持ち上げる。
『彼女を見殺し、赤茶髪のガキを見殺し、次は自分を見殺すッてかァ?』
違う、違う違う違う。違う違う違う違う違う違う違う違う!
俺は見殺してなんかいない! 俺だって助けたかった、救いたかった、守りたかった!
けど俺は、凛を死なせてしまってから何一つ変わらず、誰一人守れなく、今までの全てが無駄だった。全部無意味だった。
変わったつもりでいて、変えたつもりでいて。でも、それは“つもり”でしかなかった。
自分で勝手に変わった気でいて、根拠の無い噂にすり期待して、願望いを叶えようとずっと戦ってきて。
結局それも空回り。凛の死を受け止め、受け入れ、乗り越えてた筈だった。なのに同じ事を繰り返し、同じ過ちを犯した。
もういい。もう嫌だ。もう沢山だ。もう休ませてくれ。
『ハッ! なら、このままテメェを見殺しにして、死ね』
唇の片端を高く釣り上げ、俺の首を強く握り絞める。
笑い、狂笑い、ワラウ。
俺を殺すのを楽しみ、壊すのを愉しみ。ケーキの蝋燭を吹き消す直前の子供のように、ワラウ。
『そして、今度は――――』
首の骨が、ぎちぎちと軋む。
あぁ、あと少し。あと少し力を加えるだけで、俺の首は折れるだろう。
唯一動く目を動かして、俺を殺そうとするヒトを見る。
白髪をツンツンに立てて、円形の色眼鏡を掛け、耳にピアスを付けた――――。
『俺を見殺すのか、咲月』
コウではなく、俺の知ってる、仲が良かった。あの先輩が、いた。
苦痛に顔を歪め、俺を恨めしそうに睨む、先輩が――――。




