No.40 The day when it rained by2
◇
時刻は少し遡る。
黒に色付けされ、闇に塗りたくられた街並み。昼間の賑やかさ、溺れてしまいそうな程の人混みも、今は見る影すら無い。
人がいない道路では、信号は意味を成さずに無音で点灯している。
まるで、人という存在が全て消えてしまったかと思ってしまう。
しかし、そんな闇の中に、ヒトがいた。
赤茶い髪と、赤茶い双眸をした――――ブレザー姿の、一人の少女が。
◇
「……やっぱり、いる」
ぽつりと、小さな声で呟く。
嫌いな闇に支配され、黒く染まった街並み。
そして、隠そうともしない、悪寒にも感じる雰囲気。
私には解る。この感じ慣れた雰囲気は。
「――――テイル」
忘れる訳がない。
この雰囲気、感覚は間違いなく……テイル。
私の監視役でもあった、あの金髪の人。
「……なに?」
小さい何かが、頬に当たった感触がした。
それと同時に、足元の地面に丸い染みが出来たと思えば、空から水が落ちてきた。
「……雨」
空を見上げ、落ちてきた正体の名前。
強くなっていく雨が頬だけでなく、髪や服をも濡らしていく。
嫌いな闇と静寂に包まれていた街に、雨音が響き始める。
どんなに静かな所でも、音を奏でてくれる。だから、私は雨が好きだ。
私の数少ない、好きな物の一つ。
だけど、今夜は変わった夜。空には星が輝いているのに、雨が降るなんて。
本当に、変わった、夜。
「……ごめんなさい」
空を見上げたまま、口を僅かに動かして言う。
雨音に掻き消される位に小さく声で。
誰に放ったか解らない、弱々しい声。
橙色のブレザーの袖上から、左手で右手首を押さえる。
「……行かなきゃ」
空を仰ぐのを止めて、正面を向く。
雨に濡れた赤茶い前髪から、水滴が流れ落ちる。赤茶い瞳が見つめる先には、赤い鳥居。
そこはかつて、私が錯乱して、暴れた場所。
そして、あの人を斬ってしまった――――神社。
街の殆んどを覆ってしまう程の悪寒が、この上にある神社から放たれている。
「……うん」
神社へ続く階段を見つめ、意を決するように頷く。
上に行くにつれ、闇は深くなっている。
だが、私は行かないといけない。
――――時間がもう、無いから。
鳥居を潜り、神社へ繋がる石の階段を登っていく。駆け足で、一段一段。
階段の段数が残り少なくなっていく度に、肌に感じる雰囲気は強くなる。
階段を登りきり、広い場所へと出た。
「……ここじゃない、奥」
風のように、奥の方からテイルの雰囲気が流れてきている。
風と言うより、突風に近い。
歩き出して、広場から繋がっている奥へ向かう。
周りを林に囲まれた細い砂利道。風で揺れる木々の葉は擦れ、騒めく。まるで、先を行く私を嘲笑うかのように。
ざらざら、ざらざら、と。
砂利道を抜け、出たのはまたしても広場。
しかし、さっきの所よりは少し狭い。
そして、正面の奥には大きな古びた社があった。
「……いる」
雰囲気が、それを物語っている。
鳥居の外や、街にいた時とは比べ物にならない程に強い雰囲気を感じる。
肌を伝う水滴が、吹き飛んでしまいそうな。
「ほっ! なんや、珍しいお客さんが来よったなぁ」
――声。
聞き覚えのある、あの声が確かに聞こえた。
「……ッ!」
咄嗟に身構え、視線を動かして辺りを見回す。
だが、どこにも奴らしき姿は見えない。
「ほんま、久しぶりやなぁ―――“出来損ない”」
カキン、と金属が擦れる音と同時に、小さな火が現れた。
社の賽銭箱の前に、テイルの姿を僅かに照らして。
「一ヶ月ぶり、か? いや、そんな経ってへんか?」
小さな火の正体は、ライターだった。
テイルは、そのライターでタバコに火を点ける。
「ま、用無しになったガキの事や。どうでもええけどな」
紫煙を口から吐き出して、テイルは数歩前に出る。
「で、用無しになったお前がなんの用や? 捨てられた恨みでも晴らしに来たんか?」
「……」
「なんや、ダンマリかいな。相ッッ変わらず無愛想なやっちゃなぁ」
やれやれ、とテイルは両手を軽く上げて首を振る。
「……他はどこ」
「あん? なんやて?」
「……あなただけじゃない筈」
奴の軽口に付き合うつもりは無い。
私は目的を果たすだけ。
「……ふん。さすが、捨てられても元はこっちに居た奴や。よう解っとるやないか」
啣えタバコをしている口を小さく斜めにして、テイルは腕を組む。
「お前等、出てきてええで」
啣えたままタバコを吸い、吐き出しながらテイルが言う。
この広場にいる私以外の誰かに向かって。
「……ッ」
すると、辺りを囲む林の影から、数人の男性が現れた。
数は全部で……二人。
「なんだぁ? 懐かしい顔がいるじゃねェか」
そして、更に一人。
この場を覆っている闇とは相対色の、逆立つ白い髪。
剥き出しにされた、ドス黒い殺気。
そして、私と同類の武器を手にして。
――彼は、姿を見せた。
「よぉ、ガキ。捨てられて咲月ン所に尻尾振って拾われたらしいなぁ?」
カカッ、と声を上げ、コウは口を歪める。
「んで、俺等の前に現れたッて事ァ、とうとう向こうにも捨てられちまったか?」
口を大きく開けて、コウは下品に笑う。
「……これで、全部?」
首を右から左に動かして、現れた実験体を確認する。
「あぁン? 無視かぁ、このガキィ?」
笑うのを止め、一転して不機嫌になってこっちを睨み付けてくるコウ。
「まぁまぁ、ガキなんやからイチイチ腹ぁ立たせたら切りがあらへん」
怒りを露にするコウを、テイルが宥める。
「そや、今日はこれで全部や。人数が人数や、無愛想なお前でも少し怖じ気づいたか?」
「……そう、よかった」
「ほぅ? 何が良かったんや?」
一安心だと、小さく息を吐く。
「……テイルには関係無い」
正面の社の前に立つ、テイルを見据えて返す。
「……ふん、まぁええわ。で、この状況でどうするつもりや?」
二歩。
前に歩み出て、赤茶い瞳を向けて言葉を放つ。
「……戦う、つもり」
いつものように、無表情で。
「――ええ度胸や」
私の返事を聞くと、テイルは愉しそうに白いを覗かせた。
「そこのお前二人、相手してやれ」
テイルが視線を送ると、コウとは別の実験体二人が動き出す。
両方とも視点がはっきりしないで、目に生気が感じられない。
実験で、身体中を弄られたのだろう。恐らくもう、元には戻れない。
「……やったれ」
言葉と共に、テイルが顎を僅かに動かして合図する。
それと同時に、実験体の男二人がこっちに向かって走り出す。
「アアァァァァ!」
「オオォォォォ!」
既に言葉すら喋れない程に自我を失い、獣の雄叫びのように叫ぶ。
テイルが連れていると言う事は、この二人はスキルに目覚めている筈。
手加減は、しない。
「……」
無言で右手を動かし、横に伸ばす。
伸ばし切った所で、チャリ、と小さく鳴る音。
「ウァア!」
「ガァァ!」
男が二人同時に、私へ襲い掛かってくる。
距離はもう目の前。五メートルも無い。
「……ごめんなさい」
瞬間、右手首から目映い光が広場を埋め尽くす。
キンッ――と耳の奥に響くような、強い光。
そんな光が、一瞬だけ闇を切り裂いた。
「……」
そして、その一瞬の光が消えた時。
目の前にいた実験体の男二人は、真っ二つに分かれていた。
私が横一線に薙いだ、巨大な剣によって。
斬られた上半身は宙に浮き、下半身は地面に倒れる。
そして、浮いていた上半身も嫌な音を立てて、地面に転がった。
「はっ、やはりなぁ! まさかとは思うとったが……ほんまに持っとったわ!」
私が手に持つそれを見て、テイルの口端が釣り上げた。
「白羽からどうやって取り返そ思っとったが、そっちから持ってきてくれるとはなぁ。鴨がネギしょってやって来たってかぁ?」
この巨大な剣……『斬る』事に特化した、禁器を。
「ま、欲しいのはネギだけで、鴨は要らんけどな」
にんまり、と笑みを綻ばせ、煙を一口吸ってから啣えていたタバコを指に挟む。
「ってオイオイ。何か? あのチビガキが禁器を持ってっか確かめる為に、仕掛けさせたのかよ?」
コウが扱う、『崩す』事に特化した禁器――棍。
その根を肩に乗せ、テイルを横目で見る。
「ん? せやで。禁器があるか無いかで大分ちゃうからな。ガキんちょ一匹なら問題あらへんが……禁器を持っとるとなると話は別や」
「いいのかよ? もう使いモンになんねェぜ、アレぁよ」
「構わへん。あの程度のモンやったら、いくらでも居るやろ?」
「違ェねェ」
コウはハッ、と漏らして、テイルに笑って返す。
「さァて。連れの二人が仲良く真っ二つになっちまッた訳だ、が……」
トン、と肩に乗せていた棍を軽く浮かせ、コウは鋭い眼光をこっちに向けてきた。
「目には目を、ってかぁ……」
言い切った刹那。
コウはその手に持った物を、隣接していた一本の木に振るい落とす。
「なァ?」
棍が木を抉った瞬間に、破裂音にも似た音をさせて、触れた周辺の幹がバラバラに霧散する。
根からの支えを失い、切断された上部の幹は重力の流れに逆らえず、轟音を立てて地に伏す。
対象が二つに、形が崩れた。
「……ッ」
禁器の大剣を両手で持ち、切っ先をコウに向けて構える。
「こちとら病み上がりだ。リハビリ相手にゃあ丁度良いぜェ」
棍を持ち直し、コウは愉しそうに唇を歪める。
数十メートルの距離を挟み、互いに視線をぶつけ合う。
「ちょーっと待ち。ヤル気満々なとこ悪いけどな、お前は引っ込んどれ」
社の屋根の下から動かなかったテイルが、おもむろにタバコを吸いながら雨の下まで歩み出た。
タバコの先端を赤くさせて。
「あァん? まさか、テメェが戦るとか言うんじゃねェだろうな?」
「そのまさか、や」
落ちる雨とは真逆に、テイルは空に向かって煙を吐き出す。
「フザけんな。俺ぁ寝っぱなしだったから燻ってンだよ……!」
「お前、最強の矛と盾の話……知っとるか?」
「あん?」
「いや、この場は最強の矛と矛、か」
テイルは短くなったタバコを指で弾き捨てる。
タバコは地面に出来た水溜まりに落ちて、ジュッ、と音を立てた。
「――ええから、黙って俺に任せとき」
途端。
テイルから、とてつもないプレッシャーが放たれた。
「……ッ!」
まるで巨大な手に身体を握られてしまったかのような、強い圧迫感。
肌は電気が走ったみたいにビリつき、息苦しささえ感じる。
こんなに強力な雰囲気を放つテイルは、初めて見た。
「……チッ、わーったよ。俺ぁ見学してりゃいいんだろ」
舌打ちをして、コウは渋々といった様子で諦めた。
「で、チビガキとは言え、禁器持ちだぜ。勝てンのかよ?」
「はん、俺はお前等の監視役やで? モルモットより弱い奴が、監視役なんてやらへんわ」
テイルは片手を首元に当て、こきん、と首の関節を鳴らす。
「なら、いいンだけどよ」
コウは林近くから、社まで移動する。
「じゃ俺ァ、言われた通り大人しく見ててやるよ」
どっかりと賽銭箱の上に胡座を掻いて、頬杖する。
「ほな、待たせたな。お前の相手は俺や。するとは思えへんが、手加減なんて要らへんで。俺もするつもりあらへんから、なぁ?」
口調はいつもと変わらない――が、雰囲気は違う。
一切の緩みも無い。
「……ッ」
身構え、奴を凝視する。
テイルが戦う所を、直接この目で見た事は無い。けど、その実力は身を刺す雰囲気で容易に想像出来る。
油断や手加減なんて持っての他。一瞬の隙さえ、許されない。
「はん、一丁前に構えよってからに。殺気も放ちよる」
テイルは一歩、一歩と踏み出す。
「しっかしまぁ、よぉ何の躊躇も無く殺しよったなぁ。そこに転がる二人」
ぱしゃり、と水溜まりを踏み、数十メートルの距離で立ち止まった。
三つ編みにされた金色の髪は、雨に濡れて淡く光を反射する。
「……あの人達はもう、助からない。だから……」
「だから、なんや?」
「……殺した」
ただ無表情で、淡々とテイルに答える。
「っく、くっくっ……あっはっはっは! なるほどなぁ、お前は変わっとらへん! 俺と一緒にいた、人形の時と全くなぁ!」
愉快痛快といった風に、テイルは腹を抱えて笑う。
「実験で人を殺すんは慣れとるもんなぁ? しっかし、助からない言うても、そこの真っ二つにされた二人はまだ生きる事は出来たっちゅうのに」
「……違う」
「ん? なんやて?」
「……生きるのと生かされるのは、違う」
大剣の柄を握る手に力が篭り、ちゃき、と小さな音が鳴った。
「……ほぅ、言うようなったやないか。口が上手くなったんは白羽の影響か?」
腹を抱える程に爆笑していたテイルの態度が一転、落ち着いて含み笑いを見せる。
「まぁ、ええ。そんで……同じく助からんお前は、ボロクソになった身体で何しに来た?」
「……ッ!」
「なんや、意外か? 監視役の俺が知らん訳あらへんやろ。誰がお前に投薬しとた思うとんねん」
そう言って、また含み笑い。
「薬を投与しのうなってから……大体三週間っちゅう所か。身体に何かしらの異変がある筈なんやけどなぁ」
「……ッ」
「っくっく、やっぱりなぁ。目やてもう、大して見えてへんのやろ……?」
「……関係、無い」
眉を潜め、大剣の矛先に立っている金髪を見据える。
霞み掛かり、ぼやける双眸で。
「今じゃ、その無愛想もただの痩せ我慢にしか見えへんわ。」
はん、と鼻を鳴らし、肩を竦ませるテイル。
「ほな、お喋りは終いや。ガキはもう寝る時間やさかい」
テイルは上半身を捻り、右腕を後ろへ伸ばす。
「――――禁器、返してもらうで」
発声と同時。
テイルは後ろにやっていたその太い腕を、思い切り振りかぶった。
「……ッ!」
刹那。
細く鋭い光が、直線を描いて飛来した。
咄嗟に横に飛び、光ったそれを回避をする。
「ほっ、腐っても実験体ってか。なかなか良い動きしよる」
攻撃を躱されても、テイルは余裕を見せている。
「けど、完璧には躱せなかったようやな」
「……ッ!?」
ちょいちょいとテイルに指差され、自分の身体を確認してみる。
すると、右頬、右腕、左太股に切れ目が入り、傷口から微かに血が流れていた。
「……これがあなたの、スキル?」
「さぁて、なんやろなぁ? 教えたる義理はあらへん」
惚けた口調で喋り、テイルは右手をブラブラと振って見せる。
テイルが手を振った後、確かに何か光った。
それが恐らく、今の見えない攻撃を解く鍵。
「ほらぁ、休んどる時間はあらへんでぇ!」
「……くっ!」
キラリと、また細い光が直線に飛んできた。
それを再度横に飛んで避ける。その際、光がスカートに掠り、切れ目が入った。
しかし、次の瞬間。背後から異音が耳に響く。
ドッ――という、何かが突き刺さるようた音。
「ありゃ、しもた」
そして、テイルの失敗を表すような声。
「……これが、光の正体……」
振り返って背後を、ついさっき自分が立っていた場所に、異音の答えがあった。
いや、正しくは立っていた後ろに生えていた、木に。
「……ナイフ」
刃渡りは大体十センチ、幅は三センチ程のナイフ。
それが、光って飛来していた物の正体だった。
「……これを、投げてた」
「なんや、もうバレてもうた」
チッ、と舌打ちして、つまらなそうに漏らすテイル。
「……わかってしまえば、問題無い」
大剣を構え直し、テイルに向ける。
光っていたのは、ナイフの刃が反射していたから。
服が破け、肌が切れたのも理由が付く。
「種が解っただけで、いい気にならへん方が身の為やで!」
またも、テイルはナイフを投擲。
私の身体を目掛け、数本の光の矢が高速で飛んでくる。
「……」
それを無言で、斬る。
飛来してくる線に合わせ、大剣を薙いで。
――――キン、キン。
金属がぶつかり合った甲高い音。
――――カラ、カラン。
そして、複数の渇いた音が地に転がり落ちた。
「さっすが禁器や。金属製の刃物すら豆腐みとう斬ってまう」
その切れ味に、テイルは口笛を吹いて驚きを述べる。
「……やる」
大剣を横に構え、疾走る。
テイルとの距離は三十メートル前後。
ナイフの投擲が止まっている今の内に、その距離を詰める。
「おっとぉ、させへんでぇ!」
近付かせないと、両手によるナイフの一斉投擲。
数は全部で六。大丈夫、行ける。
大剣を握る力を強め、向かってくる短刀に気を集中させる。
「……ッ」
右足を強く踏み、自身の軌道を僅かに左へずらす。これで二本。
透かさず、構えていた大剣を袈裟斬りで光る線を払う。さらに、三本。
そして、残った一本は首だけを動かして、紙一重で躱す。
チッ――と掠り、赤茶い髪が僅かに切れて宙に舞った。
全部で六本。
退かずに前へ進み、距離を詰めてながらの回避。
「突っ込みながら躱しよった……!?」
奴との距離はもう十メートルを切った。
ナイフは投げた直後。もう一度手に持ち直す時間は無い。
「……これで」
がら空きの頭。一撃で終わらせる。
奴を斬る事を想像する。頭から、ばっさりと、一振りで、真っ二つに。
ただひたすら、斬るイメージを強め、固める。
「……終わり」
身体を捻り、軽々と大剣を振り翳し、地を強く踏み締める。
「くっ、しもたっ!」
テイルは天に向けられた禁器を見上げ、その凶刃に焦りを隠しきれずに叫ぶ。
そして、斬る事に特化したこれで。
脳天から奴を、テイルという存在を――『破壊』する。
疾走の勢いを付けて禁器を振り下ろし、自身よりも長い刀身が目標を断つ。
「なーんて上手く行かへんのが、世の常や」
――が。
真っ二つに切り裂く筈だった刃は、奴を捉える事は無かった。
「……ッ!?」
テイルは右足を軸に半回転しながら身を捻り、大剣の側面に回り込んで攻撃を避けていた。
完全に捉えたと思っていたのに、まさかの回避。
奴は狙い通りと言わんばかりに、忌々しく笑みを浮かべていた。
「ほれほれ。驚いとる暇はあらへん……でっ!」
回転した勢いを乗せ、テイルから回し蹴りが放たれる。
大剣を大きく振るった為に隙が生じたのと、攻撃を回避されるという予想外の出来事への驚愕。
それらによって、テイルの攻撃への反応が遅れてしまう。
「がっ――――、」
躱す動作どころか、防御すら間に合わない。
テイルの放った回し蹴りが、横腹に容赦無くめり込む。
めき――と、身体の中で鈍く嫌な音響。
衝撃はそれだけで収まらず、弾けるように吹き飛ばされた。
「がっ、はっあ!」
地に落ち、土の上を数十メートル滑ってようやくとまった。
蹴られた左側の横腹を抑え、激痛に悶える。
「小さくて軽いからよぉ飛ぶわ。手応えからして、肋骨が何本かイッたやろな」
「はぁっ、あ、ぐ……」
「なんやなんや、そんな痛かったか。悪ぅ事してもうたな」
痛みのあまり、すぐに立ち上がる事が出来ない。
息をする度に、蹴られた箇所に激痛が走る。
「俺は嘘を吐かへんねん。手加減せぇへん言うた以上、言った事は守ぉたるからな」
「はっ、はあ、はっ……」
ようやく動ける程度には痛みが引き、身体を起こす。
しかし、それでも痛みはまだ残っている。
「まぁ、そんな吹っ飛ばされても禁器を離さなかった事は褒めたる」
雨で濡れた地面を転がり、身体中は泥だらけ。
飛ばされた身体は振り出しに戻り、詰めた距離をまた離された。
「……くっ」
回転による遠心力が加わり、まるで鈍器で殴られたように重い一撃。
奴の鍛えられた筋肉に加え、体長差が更に破壊力を膨らます。
蹴られた箇所を服の上から触っただけで、激しく痛む。
テイルが言った通り、肋骨が折れたかもしれない……。
「なんで避けれたか不思議や思うとるやろ?」
「……ッ」
「答えは簡単。お前がガキやからや。禁器を使えても、元はスキルの実験体として作られたとしても……それだけや」
「……ぐ、ぅ」
痛みに耐え、身体をよろつかせながらも立ち上がる。
「お前は結局、身体能力はそこらのガキと変わらへん。ガキが大人と競って勝てる思うかぁ? しかも、薬切れでボロクソになった身体で、や」
「……っ」
「俺にとって脅威なのはその禁器だけや。他はなーんもあらへん」
テイルは肩に掛かっていた三つ編みを、指でピンッと弾く。
「さ、て……とは言え、ラッキーパンチで当たってしまえば俺かて即死してまう」
言ってテイルは、おもむろに腕を下げ、交差させる。
「っちゅう訳で、攻撃範囲外から攻めさせてもらうで」
それを動かして胸の前で開くと、両手の指にはナイフが挟まれていた。
「……ッ!」
横腹から手を離して、大剣を両手持ちに変える。
「黒ひげ危機一髪や! 何本まで耐えられるかのう!」
右、そして左。
先程の両手同時ではなく、ワンテンポ遅らせての連続投擲。
「……当たらない」
サイドステップで横に躱し、飛翔するナイフは空を切る。
しかし、その行動を読んでいたように、続けてナイフが襲い掛かってきた。
「……あまい」
外れると思えるナイフは無視し、身体に向かってくるのは大剣で切り落とす。
「ほれほれ、まだまだいくでぇ! おかわり自由や!」
――――ヒュン、ヒュン。
空から落ちる雨を裂いて、無数の刃物が飛翔する。
右、左、右、左、右、左。
交互に腕を振るい、無限とも思える数を繰り出してくる。
「……ッ!」
避け、弾き、躱し、斬る。
身体をずらす事で避けられるナイフは最小の動きで躱し、無理なのは斬り払う。
どれだけの時間、それを繰り返したか解らない。
ただ、足元には斬れたナイフが山を作っていた。
「ほっ、よう粘るやないか! でも、息が切れ始めとるで!?」
一体どこに持っているのか。
ナイフの雨は一向に止む気配が無い。
「……はぁ、はっ」
息をつく暇がないとは、この事か。
落としては次。避けては次。斬っては次。
まず、禁器を当てる事が出来る範囲まで距離を詰めなければ、話にならない。
しかし、この猛攻の中を潜り抜けて進むのは至難の技。
いや、潜り抜ける余裕も隙も無い。
「……はぁ、は――――ぐぅ!」
身体を捻り、ナイフを避けた時だった。
先程テイルに蹴られた箇所。左横腹に痛みが走る。
誤魔化し、庇いながら動いていたが、やはり無理があった。
その痛みに、一瞬よろめいてしまう。
「……ッ、くっ!」
しかし、その間も関係無しにとナイフは飛んでくる。
激痛に耐え、咄嗟に大剣を横にして、刀身の腹で弾く。
「ようやく一本か」
テイルがそう、言った刹那。
――――ドスリ。
生々しい音が耳に入る。そして、右の太股に、冷たい感触。
ナイフが根本まで、深々と突き刺さっていた。
「っく、あ……っ!」
視覚で状況を確認すると、遅れて痛みがやってきた。
がくん、と膝を落として、右手で太股を押さえる。
「ほーれ、追い撃ちがいくでー」
串刺しにせんとばかりに、テイルは更にナイフを投擲する。
「……ッ!」
右足は痛みで力が入らず、左足だけで踏ん張って横に飛ぶ。
咄嗟だった為、バランスを崩して地面に転んでしまった。
「ほっ! 今のを避けるんか。なかなかしぶといやんけ」
刃の雨は止んで、テイルは関心しながら顎を擦る。
その間に身体を起こし、右太股に刺さったナイフを一気に抜く。
「ぐ、ぅ!」
傷口からは血が吹き出し、黒のニーソックスを赤く濡らしていく。
抜いたナイフは投げ捨てると、カラン、と音を立てて地面に転がる。
「ありゃ、ちょいとナイフの残りが心許あらへんな」
「調子に乗ッて投げてっからだろうが」
社の賽銭箱の上で暇そうにしているコウが、テイルに野次を飛ばす。
「わーっとるわ。こっから無駄撃ちは無しや」
そう言い、テイルは左右に一本ずつナイフを取り出す。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
目が霞み、視界がぼやける。
息をする度、横腹が痛む。刺された右足には力が入らず。血が流れる太股の傷は熱を持ち始める。
――満身創痍。
この言葉がまさに当て嵌まる。
けど、私は倒れられない。まだ、倒れちゃいけない。
「ぐぅ……あ、はぁ」
立ち上がろうとすると、身体の随所が痛む。
力も入らず、上手く立ち上がれない。
「……ぐ、く」
大剣を杖の代わりにして、なんとか立ち上がる。
が、身体がふらつく。
まるで、降り注いで身体に触れる雨が、鉛のように重たく感じる。
「……あっ、く」
立ち眩み。目の前が真っ白になり、意識が飛びそうになる。
倒れそうになった所を、近くにあった木に右手で掴み、なんとか持ち堪えた。
――――ドッ。
突如聞こえた、そんな音。
その音がなんだったのか、すぐに理解は出来なかった。
ただ、先に一つの異変に気付いた。
右手が、動かない。
「――――――あ、」
木を掴んでいた右手が、動かない。
ぼやける視界で、目を細めて異変を訴える右手を見る。
そこには――――。
「ぐ、ぁ、っ!」
木と共に、手がナイフで貫かれていた。
「なんや、倒れそうやったからな。そうならへんように手伝ってやったで」
右手でナイフを遊ばせながら、愉悦に染めた笑みを浮かばせるテイル。
「はぁ、はぁ……ぐ、あぁ!」
大剣を地面に刺して、左手で刺さったナイフを抜き取る。
右太股と同様、血飛沫が空に舞った。
右手はだらんと下がり、血で赤い。刺された際に流れた血が垂れ、木の幹も赤く塗られていた。
「……はぁ、はぁ」
抜いたナイフを捨て、大剣の柄を握って地面から抜く。
「ほっ! そないなボロボロなっても、まだやる気かいな。なんでまたそんなに頑張るんかなぁ」
血だらけだろうが構わず、右手も大剣の柄を握り締める。
「……願いの為」
そして、テイルに切っ先を向けて構える。
「願いぃ? なんや、死ぬ前に俺に一泡吹かせようてか?」
「……違う」
「あん? じゃあなんやねん?」
「……」
「ふん、答える気は無いってか。まぁええわ、そんなん興味あらへん」
そう言って、テイルはズボンのポケットからタバコとライターを取り出す。
カキン、とライターを鳴らして、タバコに火を点ける。
「お前の相手は飽きたさかい。これを吸い終わるまでに、片ぁ付けたる」
言葉と一緒に煙を吐き出し、指に挟んだタバコをこっちに向ける。
どちらにせよ、私はもう体力が残り少ない。
なら――――。
「……ッ!」
テイルに向かい、残り少ない体力を搾って走る。
もう、攻めるしかない。
今はテイルの手に、ナイフは見当たらない。数も残り少ないと言っていた。
「なんや、特攻かいな。その足でよう走れるもんや」
なら、さっきみたいに連続投擲は無いと思っていい。
あったとしても、一回。多くて二回。
それなら耐えられる。致命傷になるものだけは斬り払い、あとは無視すればいい。
これだけの傷で、今更増えても変わらない。一撃。たった一撃だけ当てられればいい。
それだけ出来れば、それでいい。
傷口から血が流れ出ようとも、構わずに走る。
ぼやけながらも確かに映る、金髪に向かって――――走る。
「ふん、どうせ当てさえすれば倒せる思うとるんやろ」
テイルは呆れた、と言わんばかりに、タバコを吸って煙を吐く。
距離はもう詰まる。
だと言うのに、テイルはナイフを取り出すどころか、構えすらしない。
「……つッ!」
攻撃範囲内に入った。距離は三メートルを切っている。
余裕を噛ましている目標に、構わず大剣を横に振るう。
「はん、当たらへんて」
だが、軽々とバックステップで躱されてしまう。
大剣はテイルを捉えられず、虚しく空を裂くだけ。
「……くっ!」
「無駄や無駄。そない傷付いた身体じゃ、ラッキーパンチすら当たらへんわ」
薙ぎ、払い、袈裟、振り落とし。
何度も狙い、大剣を振るうも尽く躱されていく。
「面白い事教えたる。一流のマジシャンはな、手の中に上手く種を隠すもんなんや」
テイルが不適に笑ったと思った瞬間。
聞き覚えのある音が鳴った。
ドッ――――という、渇いた音が。
「こういう風に、なぁ?」
「ぐっ、う!」
右肩に、激しい痛みが駆け巡る。
一体どこから出したのか、いつの間にか右肩にナイフが突き刺されていた。
痛みに耐えられず、右腕はだらりと垂れ下がる。
「これで右腕は使いモンにならへんな」
「うぅ……あぁ!」
しかし、刺さったナイフなとお構い無しに左手のみで大剣を横に払う。
「っとぉ、当たらへん当たらへん」
だが、それも簡単に、ヒョイッと身を後ろに退いて避けられる。
足の力が抜け、振るった大剣の勢いに身体を持っていかれる。
「ぐっ……!」
ばしゃん、と水音をさせて、水溜まりに倒れてしまった。
「血だらけ泥だらけ。無様な姿やなぁ、ほんま」
血に這う私を見下ろして、蔑みの表情を向けていた。
「……この話を知っとるか?」
テイルはタバコを大きく吸い、溜め込んでから空に向かって煙を吐き出す。
「林檎を食べて知恵を得たヒトはな、楽園から追放されるんや」
「……知ってる」
身体を起こし、顔に付いた泥を拭わずにテイルに返す。
「……でも、楽園から追放された私が行き着いた場所は、楽園よりも楽園らしく、とても暖かかった」
暖かくて、本当に暖かくて……ずっと居たいと思ってしまう位に。
私には勿体無い程、心地好く、安心してしまう。
こんな私を受け入れて、人として接してくれた。人であると、怒りながら言い張ってくれた人がいた。
迷惑ばかりを掛けていたのに、いつも側に居てくれた人がいた。優しく頭を撫でて、笑ってくれる人がいた。
――私に林檎を、食べさせてくれた人が。
「……私はまだ、何も返していない」
だから、今頑張らないと。
あの人が、本当の笑顔が出来るように。
心の底から、笑えるように。
「……まだ、何も」
だから、立たないと。
無理でも無謀でも、なんだろうが立たないといけない。
「ほんま、しつっこいなぁ」
ガクガクと震える足。
上げる事すら出来ない右腕。
息をするだけで痛む横腹。
なんだ、まだ戦える。まだ左腕が残っている。
戦えるのに倒れちゃ勿体無い。使えるなら、使わないと。
「……あ、あぁ!」
走る事は出来ない。歩くだけで精一杯の左足。
右足は既に、身体を地に支えるだけで思うように動かせない。
それでも、左手を使って禁器を振るう。
勢いも無く、速さも無い。ただ我武者羅に振り回すだけ。
「早よう寝てまえっちゅうに」
当然、当たる筈も無い。
そして、躱し際に、テイルの右拳が顔面を目掛けて飛んできた。
ごっ、ぎ――――。
鈍く重い音と何かが砕ける音が混ざった、耳を塞ぎたくなるような嫌な音。
「がっあ! っは、あ!」
あまりの痛みに、表情を歪めて苦痛の声を上げる。
鼻が潰れ、鼻腔からは大量の血が流れ出る。
鼻血が溢れ出て、呼吸が出来なく苦しい。
「おっ! なんやぁ、そないな顔も出来るんやないか。初めて表情を変えた所見たわぁ」
「あ……が、ぁ、っは」
口で息をして、軽口を言うテイルを見上げる。
鼻血が口に入ったのか、それとも口の中が切れたのか。口内は鉄のような味がする。
「……あ、ぁ」
「なんやぁ、まだやるんか?」
左手で大剣を握り、持ち上げる。
まだ、動かせる。まだ、生きている。
「あ、そうか」
見下ろしてくるテイルを、眼前に立つ目標を。
奴の首を狙い定めて、禁器を振り上げる。
「――――切っちまえばええんか」
その直後。ザンッ、と何かが切り裂かれる異音。
目の前の男の首は、まだ繋がっている。私は禁器を奴の首を目掛けて斬り払った筈。
また、避けられた?
いや、テイルが立っている位置は動いていない。
そして、視界に入った、あるモノ。
テイルの背後から少し離れた所に、宙を回転して地面に突き刺さったそれ。
「……あ、」
――――大剣を握ったままの、私の腕。
「あぁぁぁぁぁあ!」
二の腕から先が無くなった、左腕。
切断面からは夥しい量の血が零れ出る。
押さえようにも、血を止めようにも、本当に無くなったのか確認しようにも。
右腕は動かない。ぴくりとも。
「これで禁器は使えへんな。ほれ、オマケや」
ひゅ、という風切り音。
唯一の支えになっていた左足の太股に、ナイフが刺さる。
「――――かっ」
その支えも使い物にならなくなり、崩れるように倒れる。
びちゃ、と。泥の上に。
「四肢が使いもんにならなくなった訳や。これでもう五月蝿く吠えれんやろ」
「あ……ぁ」
テイルが何かを言っているけど、聞き取れない。身体に力が、入らない。
さっきから、やたら雨の音ばかり聞こえる。降って、落ちて、滴る音。私の好きな、音。
でも、私の大好きな人は、嫌いだって言ってた。あの人の顔が、頭に思い浮かぶ。頑張ったけど、もう無理みたい。
右腕は動かない。左腕は無くなった。両足は立つ事すら叶わない。
もう、何も出来ない。どこも動かない。動かせない。両手両足は使えない。動かせる所は、もう無い。
ゆっくりと目を瞑り、諦める。
雨の音だけが、五月蝿い位に聞こえてくる。
――本当に、もう動けない?
目も瞑り、四肢も使い物にならない。
なのに何故か、そんな疑問が浮かんだ。
誰が見ても満身創痍。
こんな状態で動かせる箇所なんて――――。
「おい、コウ。禁器を持ってくにしても俺じゃ重くて持てへん。お前、アクセサリーに変えてくれるかぁ?」
「ったく、やっと終わやがッた。時間掛かり過ぎだっつの」
「そない言うても――――おい、ガキ。なにしとる?」
――――あった。
私の身体で、まだ動かせる所が。
「……フーッ、フーッ」
地に這いずって、泥まみれになって、無様でも構わない。
最後まで、抗う。
「人の足ぃ噛み付きよって……いい加減鬱陶しいわ!」
「っ――――ッ!」
噛み付いた足を振り払われ、そのまま腹部を蹴り飛ばされた。
「がっ、あっ……げほっ、げほっ!」
ごろごろと泥の上を転がり、身体を踞らせて咳き込む。
激しい鈍痛が腹に広がり、嘔吐してしまいそうになる。
「ま、だ……私は、返……」
上半身を起こそうと、僅かに残った力を振り絞る。
――――ドッ。
また、あの音。
肉に刃がめり込む、渇いた音。
「もうええ、ウザいわ」
そう言う不機嫌な声が、耳に入った。
「……ぁ」
今度こそ、本当に。
もう立ち上がる事も、動く事さえも叶わないと。そう確信して、倒れる。
胸に刺さった一本のナイフを、眺めて――――。
出来るなら、もう一度会いたかった。会って、謝りたい。ごめんなさいって、ちゃんと謝りたかった。
そして、頭を撫でて欲しかった。
あの大きな手で、いつもみたいに――――。
でもそれは、無理。私はもう、死んでしまうから。
だから、会う事も、見る事も、話す事も――――。
――――手を繋ぐ事も、出来ない。
でも、叶うなら。我が儘を今、叶えてくれると言うのなら。
少しでもいいから、私は――――。
最後に、会いたい――――。
大好きだった、――に。
もう力果てて、疲れ果てて。身体のどこも動かない。
そんな中で、まだ動かせる所があった。
首から上。顔だけは、僅かではあるが動かせた。
せめて、好きな雨を見ようと。何気無しに、瞼を、開いた。
これは、なんだろう。なんと言えばいいんだろう。腕が動かなくなっても、足が動かなくなっても、最後まで抗った。
地に這いずって、泥まみれになって、足に噛み付いて。どんな無様でも、惨めな姿でも、最後まで諦めずに。
そして今も、死ぬ前に抗って、瞼を開けた。
そんな小さな抗いで――――我が儘が、叶った。
「モユッ!」
目の前には、夢でも幻でもなく、確かにいた。
いつも隣に居て、いつも一緒に居て、いつもアイスをくれた、大好きな人。
「……さ、じ」
声が、出ない。話したいのに、上手く喋れない。
知らない内に、私は匕に抱き抱えられていた。
「なんで、どうして……!」
匕は声を震わせて、私の顔を見つめている。
「……匕、ごめん、な……い」
息を吸うと、喉がひゅうひゅう鳴って五月蝿い。
「……今日、ね。深雪、と……アイスを……買いに、行っ……」
「いいから、喋るな! すぐ病院に――――」
「……お、願……聞、て」
お腹の上に乗せていた、右手を僅かに動かす。
それに気付いて、匕は右手を握ってくれた。
「でも……今日、私、が……匕の、アイス……食べちゃ、た……か、ら……」
「あぁ、あぁ! もう怒ってねぇから、またアイス買ってやるから! だから、一緒にアイス食おう、な?」
「だから、ね……今度は、二つ……食べていい……よ……」
ごぷ、と口から血を吐き出す。
どろりとして、喋り難い。
「な、何言ってんだよ……ほら、俺、今日は三時にアイスあげてなかったよな? じゃあ、おあいこだ!」
匕の声の震えが激しくなり、手を握る力が強くなる。
「だから! だから、頼むよ……一緒に、アイスを食って、くれよぉ」
頬に、雨が落ちた。大きな大きな、一粒の雨。
空から降っている冷たい雨じゃなく……暖かくて、寂しい雨。
また私は、迷惑を掛けてた。
もうこれが最後だと言うのに、匕を困らせてしまった。
だってこんなにも……。
――悲しそうな顔をしている。
あぁ、たったさっき謝ったばかりなのに、また謝らないと。
深雪に教えてもらった。誰かに迷惑を掛けたら、ごめんなさいって謝るんだって。
迷惑を掛けたなら、その人が喜ぶ事をしてあげるんだって。
……でも、もう時間が無い。
「……さ、じ……い、る……?」
目がもう、ぼやけて何も見えない……全部暗くなっていく。
匕はまだ、目の前にいるかな……?
今もぎゅっと、手を握っていてくれてるのかな……?
「あぁ、いる! いるぞ!」
匕の声が聞こえる。
あぁ、よかった。まだいてくれた。
「……あの、ね……ヒトじゃなく、て……人だ、たら……もっ、と、匕と一緒に……いれた、かな……?」
「何度も、言ってるだろ……! お前は立派な人だよ……!」
「……う、ん……でもやっ、ぱり……次は、ちゃんとし、た……人に、なりたい、なぁ……」
もう、お別れの時間。
なんだか身体が軽くなって、浮いてるような感覚がしてきた。
そろそろ、行かないといけないみたい。
「……匕……願い、を……叶えて、凛を…………」
瞼すら、開ける力が無い。
雨の音も、どんどん遠退いていく。
「叶える! 絶対叶えるから!」
「……約、そ……く」
「あぁ、約束する!」
もう姿は見えないけど、声はしっかり聞こえる。
こんな私と一緒に居てくれて、ありがとう。
色んな事を教えてくれて、ありがとう。
一杯アイスを買ってくれて、ありがとう。
ちゃんと口で言えなくて、ごめんなさい。
「……う、ん。じゃ、あ……」
でも、せめて……匕の喜ぶ事をしよう。
今まで一杯、困らせた。
今まで一杯、迷惑を掛けた。
今まで一杯、お世話になった。
だから、最後は、最後ぐらいは――――。
「ばいばい」
――――ちゃんと微笑えてれば、いいな。




